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【wiki、日蓮】元寇=ヒラリー、北条馬鹿時=麻生、立正安国論=日本改造計画、平頼綱=霞ヶ関、極楽寺良観=皮肉にも創価
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 3 月 17 日 15:34:42: 4sIKljvd9SgGs
 

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日蓮
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日蓮
1222年3月30日 - 1282年11月21日

名称:波木井の御影
作者:藤原親安
出所:日蓮宗
諡号 日蓮大菩薩(後光厳天皇より)
立正大師(大正天皇より)
生地 安房国
没地 武蔵国
宗派 日蓮宗
寺院 久遠寺
師 道善
弟子 日昭、日朗、日興
日向、日頂、日持
著作 『立正安国論』他多数
廟 久遠寺祖廟
日蓮(にちれん)(1222年3月30日(貞応元年2月16日)) - (1282年11月21日(弘安5年10月13日))は、鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

目次 [非表示]
1 生涯
2 遺文
3 日蓮門下の諸派
4 関連項目
4.1 映画
5 外部リンク


生涯
1222年(貞応元年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べており、実際には漁民の下賤の出身であったと考えられる(ただし、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。
1233年(天福元年)に清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。
1238年(暦仁元年)に出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1240年(仁治元年)に比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至った。そこで法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の再誕との立場から、「南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教を始める。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山し、3月28日には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。
1254年(建長6年)に清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。
1257年(正嘉元年)の鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。
1260年(文応元年)7月16日に立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。(「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉はない。「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。)
1261年(弘長元年)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1271年(文永8年)
7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。
9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。
平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。(刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。)
10月 評定の結果佐渡へ流される。
流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述し、それまでの上行菩薩としての外用の振舞いを払い、久遠元初の自受用身としての本地を顕す。さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。
1274年(文永11年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後であった。
1279年(弘安2年)10月、在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり・仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は二十七年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云々」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承)
1281年(弘安4年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。
1282年(弘安5年)9月8日、病をえて、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸(ひたち)国へ湯治にいくため身延を下山。9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
1282年(弘安5年)10月8日、日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興のみを後継者に定めたとする(二箇相承)。
1282年(弘安5年)、10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。
死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。 そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。

 

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