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アウンサンスーチー
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アウンサンスーチー
အောင်ဆန်းစုကြည် ()
1945年6月19日(63歳) -
生年: 1945年6月19日(63歳)
生地: グジャラート州ラングーン
活動: ミャンマーの非暴力民主化運動
所属: 国会代表者委員会
投獄: 自宅軟禁
受賞: ノーベル平和賞(1991年)
議会名誉黄金勲章(2008年)
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アウンサンスーチー(ビルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည် (), Aung San Suu Kyi, 1945年6月19日 - )はミャンマー(ビルマ)の旧首都ヤンゴン(ラングーン)に生まれたミャンマーの非暴力民主化運動指導者である。1991年ノーベル平和賞受賞。
イギリスからの独立を主導したアウンサン将軍の娘。1948年のビルマ独立を目前とした1947年7月に暗殺された同将軍は、「ビルマ建国の父」として今も敬愛を集めている。 トレードマークの花の髪飾りは、亡夫と誕生日に贈りあった品種である。
目次 [非表示]
1 経歴
2 名前について
3 著書
3.1 単独での著書
4 エピソード
5 外部リンク
[編集] 経歴
1960年に母親のキンチーがインド大使に着任。アウンサンスーチーはインドのデリーで学業を続ける。1962年-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。ロンドン大学の東洋アフリカ研究所(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。
1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学長)らである。
1988年4月、ビルマに病気の母を看護するために戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月には1962年の軍事クーデター以来、独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。
軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。
1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。NLDは同11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。
NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。
1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。
2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された(朝日新聞系各社はミャンマーの軍事政権を批判し国名を「ビルマ」と伝える)。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。
2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。
2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案可決。同年5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項は撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。
[編集] 名前について
アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。
ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なく姓を持たないため、彼女の名前は「アウンサンスーチー」で一まとまりであり、本来分割する事は出来ない。アウンサンスーチーの「アウンサン」は姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。しかし、新聞やテレビニュースでは便宜上「スーチー」と表現されることがある。
年配の女性につける敬称である「ドー」(Daw、「女史」相当)を冠して、「ドー・アウンサンスーチー」と表現されることもある。
[編集] 著書
[編集] 単独での著書
アウンサンスーチー・著、土佐桂子・永井浩・訳 『ビルマからの手紙』 毎日新聞社 1996年12月 ISBN 978-4-620-31147-0 (毎日新聞・Mainichi Daily Newsでの連載を単行本化)
[編集] エピソード
ロックバンドU2のアルバム「オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド」に収録されている「ウォーク・オン」はアウンサンスーチーに捧げた曲である。この曲のインターナショナル版プロモーションビデオではボーカリストのボノが彼女のTシャツを着ている。
[編集] 外部リンク
ノーベル平和賞受賞のプレス・リリース(英語)
アウンサンスーチー氏の経歴
アウンサンスーチー氏の写真(山本宗補撮影)
京都精華大学「自由へのメッセージ」インタビュー