★阿修羅♪ > 昼休み16 > 722.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://www.the-journal.jp/contents/miyazaki/2009/03/post_61.html
青年将校化する東京地検特捜部
宮崎学である。
久しぶりにホームページで俺の今考えていることを明らかにする。
フォーラム神保町は3月15日、「青年将校化する東京地検特捜部」と題する集会を急遽開催する。それは、どういう問題意識に基づくものか。
今回の民主党代表小沢一郎の第一秘書逮捕事件は、二つの点で、これまでにない異常な相貌を示している。
第一に、総選挙が近いことが既定事実になっているなかで、検察が野党第一党の代表をめぐる事件を立件したことである。これまでは、例えば2000年に元建設大臣の中尾栄一が受託収賄の容疑で逮捕されたときも、容疑が固まっていたにもかかわらず、総選挙の投票が行われるのを待って、5日後に逮捕が行われた。総選挙という国民の政治的選択に直接大きな影響をあたえるのを避けたためである。ところが、今回検察は、こうした配慮を払うことなく、むしろ選挙に影響をあたえるのをねらって行われた感すらあるのは衆目の一致するところであろう。
第二に、野党第一党の代表という立場にある政治家に対して、検察が直接矛先を向けた点でも異常である。これまでは、例えば2004年の日歯連闇献金事件でも、橋本龍太郎元首相に1億円の小切手が渡った事実があるにもかかわらず、村岡兼造逮捕まででとめているし、また古くはロッキード事件でも、中曽根康弘まで波及させることは意図的に避けた。これらは、そこまで行ったら日本の政治世界の底が抜けてしまう、そこまでは検察はすべきではない、という判断に基づくものであったろう。ところが、今回の検察の行動は、そのような自重の態度を取るどころか、逆に政治状況の根幹を自らの権能で動かしてやろうという意図から出ているように思われる。
このような特徴から言えることは、かつての検察官僚あるいは法務官僚を含めた司法官僚が、あえて職権を発動しないという不作為を通じて、政党政治すなわち立法権力に対するプレスティージを示して、これを掌の上でコントロールしようとするスタンスを取っていたのに対して、いまや、そのスタンスを破棄してみずから作為によって政治に影響力を行使しようとしてきたということである。
いま、リーマン・ショックに端を発した金融危機の顕在化は、世界恐慌のごとき様相を深めつつある。ここで、我々が思い起こさなければならないのは、1929年の世界大恐慌に続いて現れた事態をめぐる歴史的教訓である。
あのとき、民衆の政党政治に対する根深い不信、財界大資本に対する強い怨嗟の声を背景にして、閉塞状況を打開するものとして軍部を登場させるべく、5.15事件、2.26事件といった軍事クーデターが行われた。政治家も、経済官僚も頼りにならない、いまこそ軍が国を救い、民を救う、というわけであった。そして、そのあと出て来たのは統制派官僚による権威主義的テクノクラート支配であった。
いま、これと同じような事態が現出されようとしている。不信と怨嗟に苛まれている国民に対する検察官僚のアピールは、こうだ。――この国を救うのは、政治家でも、民間企業でも、経済官僚でもない。清廉潔白、正義の使徒たる我々こそが国を救う。いま我々は、世界恐慌に対処できないまま混迷を深める政界を粛清するために起った。後に続くものがあることを信ずる。
これは、明らかに形を変えた「クーデター」である、と言わなければならない。それは、今回の事件で小沢一郎が政治資金規正法に違反しているかどうかという問題とは別個の独立した重大問題である。我々は、今回現れた検察のありかたにこのような深刻な危惧を覚えるがゆえに、いま検察のありかたそのものを問い、糺すことが緊急に必要だと考える。
しかも、この事件をめぐって行われているメディアの報道は、検察からのリーク情報に満ちている。「検察筋」なる情報源からの「事実」なるものが検証されないままに流されている。2002年に立件された鈴木宗男・佐藤優らの事件のときも、これと同じであった。メディアは、検察からのリーク情報に躍り、鈴木、佐藤らをたたき、あとで不明を恥じなければならなかったのである。検察、特に特捜の行為はつねに政治的なのであって、立件するかしないかは政治的判断に基づき、作為も不作為も政治的であるのは当然である。だとするなら、今回の立件の政治性はどこにあるのかを見極めるのがメディアの役割であろう。その見極めのためには、検察の動きそのものを検討する必要がある。