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「8月クーデター」
1991年にゴルバチョフは、再び舵を改革派の側に切る。ロシアのエリツィン、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ両大統領と会談し、新連邦条約を8月20日に調印する運びとなった。しかし、8月19日にクリミア半島フォロスの大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGBのウラジーミル・クリュチコフ議長やゲンナジー・ヤナーエフらの「国家非常事態委員会」を名のる守旧派が起こしたクーデターにより夫人と別荘に軟禁された。
ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製ラジオがニュースの電波を拾うことができたためにモスクワでロシア共和国のボリス・エリツィン大統領と市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り(救出される)希望を捨てなかったという。
なお、上記の様に国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者達はゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜して、これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。