★阿修羅♪ > 昼休み15 > 219.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E9%82%A6%E5%A4%AB#.E7.B5.8C.E6.AD.B4
経歴
東京都に鳩山威一郎の次男としてうまれる。第52-54代内閣総理大臣および初代自民党総裁の鳩山一郎の孫。学歴は学習院初等科、学習院中等科、東京教育大学附属高等学校を経て、東京大学法学部卒業。父・威一郎は反対するも[1]、早くから政界入りを志望し、田中角栄の秘書として政治家修行を積む。
1976年、新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し当選するが、その後新自由クラブを離党。1979年の総選挙では苦杯を喫するも、翌年の総選挙で復帰。自民党・木曜クラブを経て竹下派に所属。1992年には文部大臣に就任し、一斉業者テストの廃止を行なった。
政治改革をめぐり1993年に自民党を離党、無所属で選挙を勝ち抜いた後、日本新党、新生党、公明党を中心とした非自民連立政権に参加。1994年4月、羽田内閣で労働大臣に就任し、同年12月には新進党結党に参加する。
1996年に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結成し、副代表に就任した。しかし、リベラル派の兄とあくまで保守的な路線を取ろうとする邦夫との間でやがて党の路線をめぐり兄弟間で対立が目立つようになり、1999年には民主党を離党、東京都知事選挙に引退表明した青島幸男の後継者として立候補。乱立する有力候補の一人となるが、次点に終わった(元々この選挙では現東京都知事の石原慎太郎の勝利が確実視されており、ほぼ他の候補に勝ち目が無い選挙戦となっていたので実際は民主党を離党するための口実として立候補したに過ぎないとする見方もある)。
その後、再び自民党に復党する。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では、自らは比例東京ブロックに単独出馬し、小選挙区(東京2区)では長年のライバルであった深谷隆司を支援した。しかし、鳩山は当選したが、深谷は元鳩山系の民主党候補・中山義活に敗れた。2002年に衆院議院運営委員長に就任。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では突然、「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表・菅直人の選出選挙区である東京18区に転出し立候補。民主党の創設者同士の戦いとして注目され、一時は「逆転」と報道されるほど猛追したが及ばず、鳩山は敗北し小選挙区は落選。しかし、比例東京ブロックの名簿順位で優遇されていたことから復活当選した。
2005年の第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡6区へ選挙区を移し、小選挙区で当選を果たした(対立候補は東京大学法学部同級生であり、民主党鳩山グループの古賀一成)。
2006年9月の自民党総裁選への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。麻生太郎の支持に回った。
自民党復党以降無派閥を通していたが、2006年10月、かつて所属した経世会の流れをくむ平成研究会に入会した。
2007年の安倍改造内閣で法務大臣に就任。自民党総裁選にて、立候補者の麻生太郎(自民党幹事長)の20名の推薦人のうち、推薦人代表となる。麻生支持に回ったことから福田康夫内閣への入閣はないと思われていたが、引き続き経済産業大臣である甘利明と共に法務大臣に再任された。なお父の代でも鳩山威一郎が外務大臣として福田赳夫内閣に入閣している。
2008年5月の平成研究会役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。
2008年9月の麻生内閣で総務大臣、内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)に就任。