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(回答先: 作業員の一部にうつ症状、チリ落盤事故 (AFP) 投稿者 ダイナモ 日時 2010 年 8 月 28 日 17:11:34)
「何で地上はこんなに明るいのじゃ!?」
しかし、彼らが地上から出てきたのは夜だった。
今度のチリの事故で、古い雑誌からこんな記事を読んだことを思い出した。出典はなんだったのかと思ってインターネット調べてみたら、確かにそんな出来事が江戸時代に記録されていたそうだ。
以下引用記事。
http://macroanomaly.blogspot.com/2010/07/33.html
2010年7月23日金曜日
火山噴火で 33年地中に閉じこめられた人たち
1783年(天明 3年)の浅間山の大噴火で地中に閉じこめられてしまった人たちが、33年後に救出されたという話です:
•33年地中で暮らした人
大田南畝(大田蜀山人)の記した 『半日閑話』 という書物に記載されている 「信州浅間嶽下奇談」 という話だそうです。
閉じこめられた場所が蔵で、米が 3000俵、酒が 3000樽もあったので生き延びられたということですが、そんなに大量の物資を保管できるほど大きな蔵が当時あったのか、それらの物資が 33年間も食用に適した状態を保てたのか、呼吸する空気はどこから入っていたのか、などなどさまざまな疑問がわき起こります。
松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十七)に 「信州浅間嶽下奇談」 のもう少し詳しい要約が載っていますので引用します:
9月(文化12年)頃聞いた話だが、夏の頃信州浅間ヶ嶽辺りの農家で井戸を掘った。2丈余(約6.5メートル)も掘ったけれど、水は出ず瓦が2、3枚出てきた。こんな深い所から瓦が出る筈はないと思いながら、なお掘ると屋根が出てきた。その屋根を崩してみると、奥の居間は暗くて何も見えない。
しかし洞穴のような中に、人がいる様子なので、松明をもってきてよく見ると、年の頃5、60才の二人の人がいた。このため、二人に問いかけると彼らが言うには、
“幾年前だったか分からないが、浅間焼けの時、土蔵の中へ移ったが、6人一緒に山崩れに遭い埋もれてしまった。4人の者はそれぞれの方向へ横穴を掘ったが、ついに出られず死んでしまった。私共二人は、蔵にあった米三千俵、酒三千樽を飲み食いし、天命を全うしようと考えていたが、今日、こうして再会できたのは生涯の大きな慶びです”と。
農夫は、噴火の年から数えてみると、33年を経由していた。そこで、その頃の人を呼んで、逢わせてやると、久しぶりに、何屋の誰が蘇生したと言うことになった。
早速、代官所に連絡し、二人を引き上げようとしたが、長年地下で暮らしていたため、急に地上へ上げると、風に当たり死んでしまうかも知れないといい、だんだんに天を見せ、そろそろと引き上げるため、穴を大きくし、食物を与えたという。
1783年(天明 3年)の浅間山の大噴火については『理科年表』(丸善書店)に次のように書かれています ―― 5月9日〜8月5日、普通の火山爆発、火砕流、火山泥流、鬼押出し、噴出物総量 2億m³、死者 1151、家屋流出・焼失・全壊 1182、山林耕地被害、気候異変助長。
Smithsonian Institution のデータベースでは、火山爆発指数(VEI)= 4、流出溶岩総量 3億1000万 m³、テフラ総量 4億3000万 m³ としています。
同じ年にアイスランドのラキ山とグリームスヴォトン山があいついで噴火し、世界中の気象に影響を与えました。日本では天明の大飢饉の時期にあたります。
投稿者 Nemo 時刻: 11:38 ラベル: 火山
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今思えば、生米と酒だけで33年も生きられるのとか、太陽光を浴びなくてクル病とかにならなかったのかなと疑問も大いにあるんだけど、チリの作業員の人たちにはなんとか4ヶ月、生き延びて欲しいね。
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