「帰属の政治」に中心的役割を果たしているのは何か 「寛容」はLGBTの運動を武装解除するイデオロギー オランダは労働法制、社会福祉の面でも、マイノリティーの社会的・市民的権利の面でも進歩的な国とされてきた。レズビアン、ゲイやバイセクシュアル、トランスジェンダーの運動も、社会的に一定の認知を得ている。一九九〇年代後半に至るまで移民排斥の新右翼も大きな勢力とはなっていなかった。しかし今やオランダは、ムスリム移民を攻撃する排外主義的極右が大きく伸長している。イスラム教が同性愛者の権利を否定している、ということが、その非難の一つの理由だ。この論文ではLGBTの運動とムスリムへの排外主義に反対する運動が連携する必要を訴え、「寛容」イデオロギーの欺まんを暴いている。(本紙編集部) あちこちからかき集め た税金で赤字を穴埋め 性の問題はオランダでの「帰属の政治」において中心的役割を果たしているように見える。性、とりわけ同性愛は、移民を寛容、近代、オランダ社会を脅かす「部外者」に仕立て上げるために利用する民族主義右翼の道具とされている。「寛容」への訴えは政治的・社会的闘争の土台とされている。 スロベニアの哲学者・社会学者であるスラボイ・ジジェクは、寛容は政治的・社会的闘争の真の核心を覆い隠す神秘化された言説を構成している、と主張している。マーチン・ルーサー・キングのような人はそうした概念を利用しなかったとジジェクが主張するのには、もっともな理由がある。レイシズムに対する闘いは寛容を求める闘いではなく、社会的・経済的・政治的・文化的権利のための闘いであり、不正で反民主主義的な権力関係を変革する闘いである。ジジェクは、フェミニストの闘争が男性によって「寛容に扱われているか」を問い、フェミニズムと対比している。もちろんそうではない。この観点からすれば寛容という概念はむしろ奇妙なものになってしまう。 つまり寛容は、政治的闘争にとって緊急の命題として作用していない。アメリカの左翼政治哲学者ウェンディー・ブラウンが主張するように、寛容は一定の「度量」を保持する権力の言説であり、リベラル社会への組み込みと排除の力学において重要な役割を果たしている。さらに闘争への関与の基礎として寛容に固執する者は、グローバリゼーションの時代、すなわち新自由主義的資本主義のグローバルな拡大とイスラム教嫌悪症の勃興がわれわれの運動の要求をラディカルに変革し、われわれの闘争をいかに他の闘争や、国家、支配的なリベラル言説と関係づけるかが問われている時代に、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の運動を、すでにそれが存在しているにも関わらず「再発明」することになってしまう。 オランダの情勢が、LGBTの政治とレイシズムやイスラム嫌悪症とのもつれ合いのおそらく最も重要な例を提起している中で、われわれがオランダにおいて直面している挑戦課題は、民族主義者とイスラムをバッシングする者たちによる同性愛の奇妙な引き入れのために、世界の他の部分に鏡のように逆映しにされ、イスラムへのグローバルな猛攻撃を飾り立てるイデオロギーを考慮にいれない限り理解できないものとなるのである。 エル・ムムニ事件を超えて オランダでは、LGBTの政治は、ムスリムの中での同性愛に対する寛容への認識欠落という問題に大きく切り縮められてきた。提示されたこの言説は、ネイティブのオランダ市民は寛容と見なされるが、社会の文化的「他者」、とりわけムスリムは不寛容だとするものである。オランダの、現代的で政教分離の社会では同性愛嫌悪は無縁なものとされている。社会の構造的な異性愛基準は、運動の言説や闘争からはほぼ完全に消え失せたのに、イスラムと寛容の問題が前面に出されてきた。 寛容の何が悪いのか。おそらく私は不寛容を支持しているというのか。もちろんそうではない。しかしこの認識と、それが使われているやり方を厳しく見つめるなら、寛容が今日の社会の中で逆説的な意味を持っていることに気づくだろう。それは事実において、不寛容と排除のきわめて悪質な形態を伴っている。 より詳細に示すために、二〇〇一年からオランダで始まったイスラムについての論議を見ることにしよう。モロッコ出身のロッテルダムのイマム(イスラム僧)エル・ムムニは、二〇〇一年五月に全国テレビで、同性愛者は生命の再生産、より一般的には社会にとって脅威となる病であると主張するコメントを行った。古典的な家父長制的見解である。このコメントは、オランダ社会に大きな騒ぎを引き起こした。人びとは、こうした見解が「外部」からもたらされた他者の文化であったために、とりわけ攻撃的となった。イマムが表明した見解は、政教分離で近代的なオランダ社会へのコメントとして取り上げられた。 実際には、その僅か三年前の一九九八年には、アムステルダムの「ゲイ・ゲーム」の最中に、公共の場での同性愛についてオランダの公的機関は恐ろしくひどい論議をしていたのである。何人かのオランダの保守派がこの討論に加わり、同性愛は恥知らずな行為であって、ゲーム期間中の同性愛のあからさまな見せつけに不快感を抱き、腹立たしく思うなどと主張した。興味ぶかいことに、ムスリムはこの論議でどんな役割も果たさず、より一般的な意味でのイスラム問題も取り上げられることはなかった。 他方二〇〇一年には、エル・ムムニのコメントは「不寛容」であり、オランダの価値に全面的に反対するものであり、ムスリム・コミュニティーのオランダ社会への文化的統合の欠如の象徴として解釈されると語られることになった。正統派的宗教サークルの中での同性愛についての保守的見解の典型であるイマムの意見は、イスラムの特殊で過激な潮流(エル・ムムニはロッテルダムの評判の悪い保守派のモスクに属している)の見解としてではなく、ムスリム・コミュニティー全体を代表するものと見なされた。 公的言説の中でイスラムは完全かつ徹底的に、近代的で寛容な「オランダ的」価値に敵対するものと見なされ、オランダで活動するすべてのイマム――エル・ムムニのような正統派的人格とはなんの共通点もないリベラルなアラビア人コミュニティーのイマムも含めて――は、自由民主派の「大都市」問題閣僚による寛容についてのレッスンを受けるために「招かれ」ることになった。一九九八年の公共の場での同性愛に対する攻撃への主な参加者の一人であり、同性愛への反感を語っていた保守的コラムニストのヴァン・デル・リストは、二〇〇一年には、リベラルで寛容なオランダ的あり方への脅威である恐るべきムスリム集団に対して、今や保護する必要がある同性愛コミュニティーを受け入れたのである。 コック首相は不快感を表に出して、毎週恒例の全国テレビインタビューで十分間をフルに使い、ムスリムに対し同性愛に寛容であるべきだ、それが「オランダ的やり方だ」と説明した。最大のゲイ雑誌で、主流のリベラル・ポピュリスト的な「ゲイ・クラント」のウエブサイトでの世論調査では、参加者の九一%が「ムスリムはわれわれの寛容を受け入れられないのなら出国すべきだ」という声明に同意した。広く読まれている右派系日刊紙の「テレグラフ」は、「北アフリカの中世的砂漠」からやってきた思想について言及し、保守的リベラル政党VVDのアムステルダムにおけるゲイの党員は、「ムスリムはオランダ社会の特徴であるリベラルな自由にとって脅威である」と主張するパンフレットを発行した。 同性愛の美学とムスリム メッセージは鮮明なものだった。オランダ人になるということは一定の「基準と価値」に合わせること、そして現代的で寛容なオランダ社会を構成する道徳的普遍性に同化することを意味する。寛容は、「土着性」の主要な目印の一つとなった。九・一一事件に助けられて、オランダの歴史で唯一の最も成功した右翼ポピュリストであるピム・フォルタイン――読者は彼の名前を二〇〇二年に惨殺された人として思い起こすかもしれない――は、このオランダの寛容という言説を道具として利用し、彼の目覚ましい政治的登場の足場とすることが可能となった(訳注1)。フォルタインは、コラムニストとして、出版家として、大衆的演説家として、ムスリムにはブレーキがかけられるべきであり、オランダのアイデンティティーと現代性が再評価されるべきであり、移民とりわけムスリムに対して国境が閉ざされるべきであるという、イスラム嫌い、外国人嫌い、民族主義の見解を広げるために長年にわたってつとめてきた。彼の見解は長年にわたり滑稽で、周辺的なものと見なされていたが、一九九〇年代を通じて彼らは極右の周辺からオランダ政治への中心に緩やかに移行していった。 右翼ポピュリスト政党「住みよいオランダ」は二〇〇一年にフォルタインを政治の場に飛び出させた。フォルタインは個人的な、ほとんどエロティックで政治美学的なカリスマをネオナショナリスト的でイスラム嫌悪の思想と結び付け、帰属感覚、意味、方向性、閉ざされた鮮明なアイデンティティーで満たし、さらに「他者」の定義をより厳格に規定した。 フォルタインは現代的で、自由で、寛容なオランダ国民性を具現化しようと望み、性的基準を自由化し、国際的にもオランダ的にもゲイ男性コミュニティーの美的感覚の一部をゲイのゲットーから解放し、それをオランダの公的領域に持ち込んだ。この政治的言説の不可決の一部として、ムスリムはフォルタインによって自由で、リベラルで現代的なオランダ人のまさに正反対の存在として代表させられることになった。ムスリムは、オランダ社会に全くそぐわない不寛容で、未開で、伝統的な、異質性のトライアングルを代表するものにさせられた。 明らかに、エル・ムムニのようなオランダ社会におけるさまざまな正統派イスラムの人びとや、ムスリムサークルの中での同性愛嫌悪の感情的形態に関するさまざまな出来事は、フォルタインの得点を増やして彼を大いに助けることになった。フォルタインがイスラムの「土地に根差した後進性」と吹き替えたものに対する彼のレシピは、オランダ社会を現代化への道に背を向けさせることであり、厳しい統合政策と国境閉鎖だった。権力と寛容は完全にからみあい、ポピュリスト的でイスラム嫌悪の右派が手にする武器として登場したのである。 社会的排除との闘い われわれの注意を今日のオランダにおける民族主義右翼、すなわちギールト・ヴィルダースの自由党(訳注2)の政治、あるいは幾つかのポピュリスト右翼のメディアやインターネット出版に向けるならば、寛容は極右の政治にとって極めて特徴的なものではないことが分かる。日々の生活の実践への対照としてのとりとめのない同性愛への寛容は、ムスリムやそれ以外の移民たち、社会的アウトサイダー、貧しい人びとへの不寛容の拡大を伴っている。 ムスリム・マイノリティーの文化は、本質的で、自然で、一様で、歴史的全体性と考えられているのに対し、同性愛嫌悪はオランダ社会に無縁のものとされている。 こうした物語は、以前よりさらに深くオランダ社会に根ざしたものとなった。「ゲイ・ゲーム」が行われた一九九八年――それほど昔のことではない――に対比すれば、イスラム教やムスリムへのバッシングなしでのLGBTの権利の討論など、現在では想像することも不可能である。 ヘゲモニー的物語は、ゲイとレズビアンの解放はほぼ完全であり――ゲイとレズビアンが「寛容」に扱われている以上――、残された唯一の問題はムスリムのオランダ社会への統合だ、というものだ。しかし、事実はまったく違っている。研究が示すところでは、オランダ人と「オランダ人のプライド」の自己イメージを報じる際の公的な寛容は、かならずしも事実と一致しない。公の場での同性愛――たとえば二人の男性のキス――に出くわしたとき、人びとの多くは今なお反感と嫌悪の反応を見せる。この反感は、時には暴力をもたらしている。アムステルダムでは、同性愛嫌悪の暴力事件を犯した人の中で若いモロッコ人男性の比率が高いのは事実だが、研究が示すところではこうした行為は、それに関わった若い男性の文化や宗教に原因を帰すことはできない。事実、非難されるべきもっと顕著な理由は、社会的排除と周縁性である。 ノーマライゼーション 先述した反感の要因は、依然としてオランダ社会と道徳的秩序の構造的・本質的側面である異性愛基準である。つまり異性愛は依然として自明の基準なのであり、家族を通じて、あるいは教育システム、民衆文化、メディアの中で再生産される基準的原理なのだ。寛容に扱われた同性愛者はこの異性愛社会にきわめて良く適合した。ほとんどすべてにおいて、彼は異性愛基準に従って振る舞っている。スティーブン・セイドマンが語るように、寛容の強調は同性愛を常態化(ノーマライズ)した。現代的な同性愛は、逸脱者から姿を変え、他者を理想的な異性愛基準の鏡像へと排除した。 セイドマンは二〇〇一年の「ノーマライゼーション」についての論文で次のように述べている。 「ノーマライゼーションは、それが同時にジェンダーの支配的秩序、親密な経済的・国民的実践を再生産しているがゆえに可能となっている」。彼は警告している。「ノーマライゼーションを通じた正統性は、彼ら・彼女らの周縁的なセクシュアリティーや、異性愛基準から外れたわれわれの性的に親密な行為を規制する基準のすべてを、汚れた地位にとどめている」。彼はさらに指摘している。「究極のところで、ノーマライゼーションは性的差異を、別のあらゆるやり方で国民的市民の理想を再生産する個人の、ちっぽけで皮相的な側面にしている」。 ここで述べたように、オランダの多くの人びとは、公の場で同性愛者に出くわした時、自分とは異なったやり方に対していまだに反感と恥ずかしさを持って見ている。こうした異性愛的文化の中で、多くの同性愛者の男性と女性が絶望するのは驚くにあたらない。若いゲイと若いレズビアンの自殺率は、高いままである。トランスジェンダーと他の形のジェンダー的不一致の人びとは嘲笑され、トランスジェンダーは排除されている。LGBTコミュニティーは暴力の脅威を受け続けている。こうした問題の解決策は、寛容に基づく政治ではなく、異性愛基準に対する闘いである。 フェミニスト哲学者のジュディス・バトラーは、最近の論文で性の政治と帝国の政治との混同を、正しくかつ厳しく批判し、イスラム嫌悪、レイシズム、帝国主義に抵抗し、反レイシズムとLGBTの闘争の合流点を見出そうと試みるような性の政治を主張している。残念なことにバトラーはその詳細を述べていない。 私にとって、それは批判的な反レイシスト、クイア(性的異端)運動が、寛容を超えて、寛容に反対する性の政治の形態を考え、発展させるという課題だと思える。ラディカルなクイアが闘っている異性愛基準社会は、移民を排除し、差別する社会でもある。合流点は存在する。たとえば教育の分野では、あからさまな異性愛基準と、少女と移民の子どもへの構造的不利益の双方に反対して闘うあらゆる理由が存在している。反レイシズムの活動家とLGBT活動家は、マイノリティー社会のLGBTと連帯し、同性愛の移民とその権利のために連帯して、お互いを発見することも可能である。 読者は、おそらくこの論文の筆者はおかしいのではないかと自らに問うかもしれない。オランダは実際のところ、レズビアンとゲイが住む上で、そうした人びとが権利と一定の受容を手に入れ、公的領域での場を要求してきたのだから「最善」の国の一つではないのか、と。もちろんそれは事実であり、オランダのGTBTの成果は擁護されなければならず、また同性愛嫌悪への応答としてクイアが組織している公的な場でのキスや同等の行為は、擁護され、参加しなければならない。しかしわれわれは、自分たちの闘いを「テロとの戦争」や、現に進行しているムスリム・コミュニティーへの攻撃の道具化することに抵抗してあらゆることを行いつつ、たんに対応的である以上の運動、可能なかぎり効果的に「逸脱」した性の排除との闘いへ恒常的に自らを再投入するような運動が必要である。 私は不寛容を支持する主張をしているのではない。排除、差別、暴力の構造的原因が中心的ステージに位置を持つような政治的闘争を再構想すること、異性愛基準への闘争を取り上げるクイア運動を主張しているのだ。寛容はイデオロギーである。われわれは寛容に扱われることを求めて闘っているのではなく、世界を変えるために闘っている。寛容とは、LGBTの運動を武装解除し、われわれを「別の」抑圧されたマイノリティーに敵対させるイデオロギー的構築物なのである。 (訳注1)ピム・フォルタインは移民排斥などを掲げて二〇〇二年に、自らの名を付けた右翼政党(ピム・フォルタイン党)を結成し、三月のロッテルダム市議会選挙で三五%を獲得し、第一党に躍り出た。しかし同年五月十五日の総選挙を前に五月六日、アムステルダム近郊で射殺された。党首なきピム・フォルタイン党は総選挙で百五十議席中二十六議席を獲得して第二党となった。しかし同党は、その後分解し、事実上消滅してしまった。カリスマ的指導者だったピム・フォルタインは自らゲイであることを公にしていた。「かけはし」02年7月15日号参照。 (訳注2)ギールト・ヴィルダースの自由党は、今年六月の欧州議会選挙で嫌イスラムの移民排斥キャンペーンを軸にオランダで一六・四%を得票し、初めて四人の欧州議会議員を当選させた。 ▼筆者のポール・メップシェンはオランダのラディカルな社会主義雑誌「グレンツェルース(無境)」の編集者で、社会主義オルタナテイブ政治(SAP、第四インターナショナル・オランダ支部)のメンバー。彼はアムステルダム大学の社会科学研究校で市民権、従属、地域社会などの分野で研究活動を行っている。(「インターナショナルビューポイント」09年7・8月号)
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