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http://www.diplo.jp/articles09/0906-3.html
対イラク戦争後のイラン経済
ラミーネ・モタメド=ネジャード(Ramine Motamed-Nejad)
経済学者、パリ第一大学ソルボンヌ経済センター助教授
訳:土田修
イラクとの戦争が1988年に終結して以来、金銭に対するイラン国民と政治支配層の意識は急激に変化した。かつて支配的だった道徳的価値観、ことに宗教的なそれは明らかに衰退した。社会学者のファラーマルズ・ラフィープールは、1998年に出版された著作の中で(1)、この変化をまず、「裕福さをひけらかして」はばからない少数者の出現に帰している。ラフサンジャニ政権が1990年代初めに、復興のための「帰国」を在外イラン人事業家に呼び掛けたことも、そうした態度をひたすら助長した。
社会のもう一方の極では、購買力を低下させ、家計の苦しさを悪化させた10年間の経済危機に、国民の大多数が苦しめられていた。少数者が裕福さを「みせびらかそう」とし、多数者の貧困が増大する状況を見て、ラフィープールは「物質的価値と富の価値が勝利した」と結論付けている。
贅沢への欲求は、ラフサンジャニ政権が1990年1月に開始した経済改革によっても後押しされた。国営企業の民営化や貿易の自由化などだ。
20年来、こうした民営化につきまとう「不透明性」と「不正」が、メディアだけでなく公的な報告書によっても暴かれ続けてきた。民営化による「所有権の移転」で利益を受けた人々の一部は、国営企業時代からそのまま居座った役員で、新たな経済エリートとなっている。議会の報告書によれば、1994年には50を超す企業の株式が、「法律で求められる条件」に反する「情実価格」で経営幹部に売却されたという。株式の購入費用は、国営産業投資会社からの融資、すなわち公的資金によって賄われた。ハタミ政権とアフマディネジャド政権の時代を通じて、この仕組みは継続した。
もう1つの利益の源泉となったのが、貿易の自由化だ。それは表の経済だけでなく、密貿易を中核とする裏経済にも、巨額の利権収入を生み出している。数年前から新聞が「マフィア」と呼んでいる層には、貿易自由化で利益を得た人々が含まれる。「マフィア」というのは、食料品、工業製品、医薬品の輸入と流通を押さえる事業グループや、イラン国営石油会社(NIOC)が独占しているはずのエネルギー産品の一部の横流しや輸出に携わる事業グループを指す。
研究者のファリーバー・アーデルハーフが言うように、政治家や国家機関の職員ともども「バザールの大商人」が「この第2の経済に大挙して直接加担している。蓄財や資金調達の手段にしているのだろう(2)」。1980年代に有力だったバザール大商人層も、富を追い求める新興の経済主体を無視できなくなっている。
資本主義経済の大手企業グループも、遅れを取ってはいない。産業・金融・流通にまたがる巨大な持株会社を設立している。多くは資金を内部調達できる体制を整えているが、さまざまな公的・準公的機関からの資金提供の特権を手放してはいない。これらの企業は公的機関の契約という安泰な契約を独占し、その一方で債務の返済については可能なかぎり逃れようとしている。
このような経済は、国家資本主義とは異なる。イラン国家は数々の経済分野から手を引いているからだ。市場資本主義でもない。これらの企業グループは、税制や商取引、あるいは財務に関わる制約を回避すると同時に、新しい競争相手の出現を妨げているからだ。独占資本主義、と呼ぶのが適切だろう。
自動車メーカーの躍進
こうした変化を実証する2つの例がある。1つ目は、大規模な財団だ。その一部は1979年のイラン革命直後に設立されている。これらの財団は、被抑圧者・傷痍軍人財団のように、表向きは慈善活動に従事する。同財団は、イラン・イラク戦争の際に活発に商取引(特に武器取引)を行い、戦後は多角化を推進し、工業、商業、農業、観光、航空事業などを手がけている。その上、独自の金融機関まで擁している。それらの金融機関を束ねる巨大コングロマリットの財団信用財務機構は、強大な資金力を備えている。だが、「銀行」ではない主張する同機構は、中央銀行が設けた規則の制約を逃れる一方で、滞納している税金を払おうとはしない。1997年から2005年まで政権の座にあったハタミ大統領は、これを知って衝撃を受け、同機構に義務の履行を求めて拒絶された。
新興の経済主体の台頭を象徴する2番目の例は、中東最大の自動車会社で、国が40%の株を所有するイラン・ホドロウ社である。SAIPA社とともに自動車市場を事実上独占し、ホドロウ社は55%、SAIPA社は35%の市場シェアを持つ。自動車の輸入が解禁されたとき、ホドロウ社は、イラン市場に関心を向ける外国企業と協定を結んだ。しかもイラン市場は急拡大中で、2004年に70万台、2006年に110万台、2008年には120万台の規模に達している。
ホドロウ社の関心は、市場支配力の維持と拡大に加え、新技術の獲得にあった。新技術を手に入れれば、製品の質を向上させ、国際市場にも進出できるからだ。提携先の1つがPSAプジョー・シトロエンである。1992年に、プジョー405の製造についての事業協力を開始し(60%以上の現地生産を達成)、2001年3月には新たなステップとして、プジョー206と307の組み立てについてのライセンス協定を結んでいる(現地生産の割合はまだ低い)。
ルノーはイランの2大メーカーともに、ローガン(ペルシャ語ではトンダール)の組み立てを行う合弁会社、ルノー・パールスを設立した。株式の51%はルノーが保有し、残る49%は、この件では協力関係にあるホドロウ社とSAIPA社が保有している。
ホドロウ社は、国際市場でいずれ主役となるための青写真を描いている。その一例が、アルジェリア企業ファモヴァルとのバスの現地組み立てに関する協定だ。また、ベネズエラ、セネガル、シリア、ベラルーシに、サマンド(プジョー405の改良版)の製造拠点を建設した。サマンドは既にアルジェリア、エジプト、サウジアラビア、トルコ、アルメニア、ブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシアなどに輸出されている。
ホドロウ社はさらに、財務上の制約の増大を緩和するため、2000年に公認された民間銀行制度を利用して、パールシヤーンという自前の金融機関を(他のさまざまな機関ともども)2000年から2001年にかけて設立し、株の30%を保有している。イラン最大の民間銀行となったパールシヤーンは、預金と貸付の分野で民間銀行中60%のシェアを占めている。
アフマディネジャド大統領は、2005年6月-7月に政権を掌握するとすぐさま、一部の民間銀行が「疑わしく問題のある」貸付を行っているとして非難した。彼は寛大な貸付を受けた人々の名前を暴露すると恫喝したが、現在までのところ実現されていない。このキャンペーンの最大の標的がパールシヤーン銀行だった。紛争の本当の争点は、同銀が貸出金利の引き下げ、つまり利益率の低下を拒否したことにあった。2006年10月、政府と中央銀行がパールシヤーンの総裁の解任を決定すると、対立は頂点に達した。この措置に対して民間銀行は一致して抗議し、決定を取り消しにさせた。アフマディネジャド大統領側の疑問の余地のない敗北だった。
不動産バブルの破裂
やがて、ある種の投機対象(特に不動産)にますます魅力を覚えるようになった民間銀行は(国営銀行も)、実業への融資をないがしろにするようになった。銀行は、巨額の抵当貸付を行うと同時に、大規模な不動産投資を実行し、2005年に発生した空前の不動産バブル(3)の膨張に加担した。不動産バブルは、ある月刊誌が「不動産ブルジョアジー」と呼んだ層の出現を促した(4)。
新規融資の中止(既に成約済みで、支払手続き中の不動産ローンを含む)を全銀行に求める措置を政府が取ったことで、不動産バブルは2008年5月-6月に破裂した。以来、住宅の需要は急低下し、価格は暴落した。国営銀行や民間銀行が購入したばかりの不動産証券は、価値の少なくとも一部を失った。民間企業に加え、一部の公的機関や、さらには国家に対する融資が不良債権化したことで、銀行の損失はさらに増大した。
不動産バブル破裂による危機は2つの結果をもたらした。第1に、2007年12月から2008年12月までの間に融資総額が67%も減少したことに示されるように、銀行には最早、イラン経済に新たな資金を投入する体力がなくなっている(5)。信用収縮は連鎖的に、消費財需要と投資の退潮、工業生産と企業収益の低下、生産能力の大規模な遊休化を助長した。
第2に、資産価値が下がったせいで、銀行は中央銀行への債務返済の余力、あるいは意志を失った。2007年9月から2008年9月にかけて、中央銀行(つまり国家)の保有する債権額は106%も増大した(6)。企業は取引先、そして従業員への支払いができなくなり、生産経済は打撃を受けた。
国営企業の民営化は少数の人々の財産を肥やしたが、大多数の労働者を失業の危険にさらし(7)、家計をますます苦しくさせた。民営化された企業の所有者が、会社の備品をあらかじめ売り払った後に破産を申し立てたり、労働者の賃金不払いや、純然たる首切りという手段に訴えたりしたからだ。1990年代同様にインフレが再燃し、インフレ率は公式には2008年に25%(別の計算によれば50%)、2009年の最初の3カ月間に60%以上にも達した。
2005年9月以来、貧困階層や中流階級の実質賃金の減少が続くなかで、消費を支えるとともに企業の販路を維持するために、政府は融資の再配分を中心とした経済政策を進めている。政府当局の公的保証が付いた融資のラインナップを見れば、この政策の範囲の広さがよく分かる。退職者向け、新婚者向け、学生向け、自宅購入者向け、農民向け、といった具合だ。
だが、過去20年以上にわたり、実質所得の減少によって、既に大部分の国民は借金漬けになっている。それを示すのが「借金による囚人」の顕著な増大だ。「借金による囚人」は、過去10年間の累計2万人に加え、現在1万2000人が収監中だ(8)。下層の人々に課せられた実刑は、1979年のイスラム革命が示した平等の理想に反している。その一方で政権は、大部分の有力な事業グループからは、債務を回収できずにいる。あるいは、そのつもりもないのかもしれない。
(1) ファラーマルズ・ラフィープール『発展と対比:イスラム革命とイランの社会問題の分析』(エンテシャール社、テヘラン、1998年)。
(2) Arang Keshavarzian, Bazar and State in Iran. The Politics of the Tehran Market Place (2007) についての書評からの引用(in Societes politiques comparees, No.2, Paris, February 2008)。
(3) テヘランでは、2年間で不動産価格が200%上昇し、わずか18カ月で不動産取引総額が6000億ドルに達した(月刊誌ゴザーレシュ204号、テヘラン、2009年1月、27ページ)。
(4) カマル・アト=ハリ「不動産ブルジョアジー」(チェシュメ・アンダーゼ誌47号、テヘラン、2008年1-2月)。
(5) 日刊紙サルマーイェ(テヘラン)2009年4月23日付参照。
(6) サルマーイェ紙2009年1月10日付。
(7) 公的な出版物によると、2008年の失業率は労働人口の15%前後にのぼる。
(8) ジャーメ・ジャム紙、テヘラン、2008年12月20日付。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2009年6月号)