すでに本紙でも報道しているようにフランスの反資本主義新党(NPA)は多くの人びとの注目と期待の中でスタートした。今号から二月の結成大会で決定したNPAの「結成原則」を四回に分けて掲載する。文書の冒頭でもふれているようにNPAの綱領や「マニフェスト」ではなくNPAが何と決別し、何をめざそうとするのかの基本的枠組みについての合意という性格を持っている。したがってそれは今後の闘いの中でより具体化・深化されるべきものであろう。(本紙編集部) この結成原則は、賛成五百四十、反対一、棄権四十九、投票不参加五で採択された。 この文書は、われわれが結集して自分たちの党を結成する基礎をなす不可欠な基本原理を定めたものである。それは、強さと弱さ、表現形式の不完全さを伴った、委員会内での討論を経て提案された数百の修正案を出発点とする広範な集団的な文案作成作業の結果であり、われわれがともに参加したプロセスを豊かなものにした活気あふれる民主主義がそのまま表現されている。 これは、完全で詳細な綱領でも、「マニフェスト」でもなくて、われわれが訣別したいと考えている今日の社会に対する根底的な批判、われわれが望む社会の原則を提起する批判的検討、その社会に到達するための戦略について、われわれの基準となるものをまとめたものである。これらの原則は、次のようなわれわれの政治的身分証明証である。資本主義のグローバル化された危機に対する唯一の解答、人類の未来がかかっている闘い、それは、民主主義とエコロジーとフェミニズムの、二十一世紀の社会主義をめざす闘いである。 資本主義システムは、食料、経済、エコロジー、エネルギー、金融、医療、社会、国際的緊張と戦争というさまざまな危機が結合した危機を生み出しており、その結果は常に悲劇的なものとなっている。 労働者と人民に対する支配階級による利潤を増大させるための攻勢という明確な性格をもつグローバリゼーションは、資本主義的生産様式それ自身の深い根本的な危機にまで行き着いている。 一九八〇年代以来、それは、より大きな国際的分業の枠組みのもとで搾取と労働者間の競争を激化させ、あらゆる種類の不平等を拡大し、帝国主義的関係の枠組みのもとにおかれた諸民族への略奪を永続化し、資源を荒廃させ、地球を破壊している。 資本の支配がもたらす災禍は、「社会主義か野蛮か」という二者択一をまったく今日的意味をもつものにしている。 利潤の名のもとに、資本家は無駄または有害な(あるいはその両方である)商品の過剰生産を組織しているが、その一方で、地球上の人類の半分に近い三十億以上の住民が、一日一ユーロ未満で生活している。十億人がスラム街に住み、九億七千万人が栄養失調にかかっている。FAO(国連食糧農業機関)の総裁によれば、食料不安を解消するには十五年間で二百億ユーロで十分なのに、数千億ドルが投機家を救済にするために消えてしまっている。 温室効果ガスの濃度はすでに気候の温暖化をもたらしている。この傾向は一貫して上昇し続けていて、その上昇予測が急騰する地点にまで達しているし、天候不順とともに引き返しできない地点にまで至っている。その結果はすでに現れており、よりいっそうの悪化に向かっている。すなわち、あるところには洪水が、別のところでは旱魃が、大きな被害をもたらす暴風雨、数多くの生物種の激変と消滅、生物学的多様性の破壊、農業危機が生まれているのである。資本主義の生産力主義は、大気、水、農産物の汚染によって住民の健康の悪化をもたらしている。 直接にその生存自身が脅かされている人々は数百万人にのぼるが、まず第一にその脅威にさらされているのは最も貧しい人々である。しかしながら、これら人々は、まず温室効果ガスの排出に責任がより少ないのであり、こうした事態は住民の大規模な移住をもたらす可能性がある。 代替エネルギーとして押しつけられている民間の核エネルギー、そして軍事用核兵器は、環境および労働者の健康と安全ならびに住民と未来の世代にとって大きな脅威となっている。 以上の確認される事実それ自身だけでも世界の資本主義的編成の社会的、エコロジー的勘定書の高さを十分に説明しているのであって、そこでは汚染する権利に対する投機さえ合法化されている。またこれらの事実は、少しずつの継続的な進歩が生活条件の全般的な改善と不平等の縮小をもたらすとみなす体制支持者たちの言説が有効性を欠くことを明らかにするに十分である。それどころか、経済成長においてさえ不平等は急速に拡大した。 貧困が増大し 不平等が拡大 フランスでは、最も豊かな一〇%の層が国の資産の四六%を保有しているのに、INSEE(国立統計経済研究所)によれば、二〇〇六年には七百九十万人近くの人々が貧困限界水準以下で、すなわち、月八百八十ユーロ(2009年時点の為替相場では約11万5千円)未満で生活している。この二十年間において、OECD諸国の三分の二の諸国で、不平等が拡大し、貧しい人々の数が増大した。 利潤の論理はすべての人間活動の一貫して拡大し続ける商品化(とりわけサービスの貿易に関する一般協定を通じた公共サービスの分野での商品化)と不可分である。それは、土地、諸機関、個人を競争下におき、社会的絆と連帯の破壊を伴っている。この破壊は、労働者の生活とは相容れないものであって、その生活を打ち砕く。 生活条件は悪化している。経営者は、次々と労働者を解雇し、できる限り低い賃金で労働者を獲得しようとして労働者間の全世界的レベルでの競争を激化させ、職場の権利を破壊している。不安定状態が爆発的に出現している。不安定な下請け契約が増大し、労働者を新しい社会的区分のもとに置き、労働界を分裂させている。CDD(有期雇用契約労働者)、見習い期間中の労働者、失業者、補助金付き雇用、望まないパートタイム労働、派遣労働、RSA(就業連帯所得)身分などがそれである。フレキシビリティと労働のテンポの強化は労働条件の悪化(苦痛、事故、職業病、自殺)を生み出している。 公共サービスは解体されつつある。それらのうちの最も収益性のある部門は民営化される。新しい市場の絶えざる追求は、消費にもとづく油断のならない操作されたモデルを押しつける。こうして、個人は、フラストレーションとシステムへの従属とを同時にもたらす新たな不断の誘惑の創出に従わされる。 社会的保護は後退している。定年退職の権利は見直されている。環境は、エコロジーの破局の脅威が生じる地点にまで悪化している。 国際的な緊張 と紛争の激化 この危機の根源にあるのは、人口の中のごく少数の連中による抑制のない利潤追求である。 今日の破産は、破綻した体制の論理的帰結である。一方において信用と負債経済が無制限に発展しているが、他方では最大限の利潤を追求する支配階級が大量の失業と不安定性を維持し、賃金を凍結しているだけに市場はより限定されたものになっている。現在の破産は、この両者の間の矛盾の産物である。 この論理は、金融、ビジネス、多国籍企業、銀行、投機機関、それらに対する政治的同盟者、政府、それらに奉仕する国際機関(IMF、WTO、EU、欧州中央銀行、世界銀行)によって展開されている反社会的な闘争の産物である。それに対しては全国レベル、ヨーロッパ・レベル、全世界的レベルで闘わなければならない。 地球全体への資本主義の発展と商品領域の拡大に対応して、かつてない環境の危機が生まれている。たとえ人類社会がすでに資源の非合理的な利用のために環境上の危機の問題に対処せざるをえなくなっているとしても、危機がこのような規模になり、それが今後地球のすべての住民に影響を及ぼし、さらにいっそう社会的不平等を拡大するというような事態は人類史上はじめてのことである。 資本主義的グローバリゼーションのもとではおよそ平和に向かうにはほど遠い事態なのであり、この中で、われわれはまた過剰な軍備増強と国際的な緊張と紛争の激化とを目撃している。イラクから、アフガニスタン、アフリカ、パレスチナを経てグルジアに至るまで、フランスを含む帝国主義列強がそれらの地域に対してその支配を押しつけ、軍需産業を含む多国籍企業に膨大な利益をもたらすために資材資源や第一次産品や石油を支配下においてきた。この侵略政策は、結果として、諸民族を分断する手段である、ナショナリズムや宗教的統合や地域共同体的論理を刺激している。 したがって、帝国主義国の反資本主義者はまず何よりも自国の資本家および自国の帝国主義国家ならびにその軍隊に反対して闘わなければならない。われわれが、被支配諸国の労働者や資源を搾取しているフランス企業に対してこれら諸国の労働者と人民がこれらのフランス企業の没収を支持するのは、この意味においてである。さらにまた、この意味において、われわれは、フランス(あるいはまた他の帝国主義国)の軍隊が展開しているところではどこであろうと、民衆の抵抗と帝国主義軍隊の軍事的敗北を支持する。 平和が脅かされ 民主主義が危機に 平和はこの体制とは両立しえない。「厚い雲が雷雨を宿しているように、資本主義はそれ自身、戦争を宿している」(ジャン・ジョーレス)。 この政策は、搾取の体制を維持するという要求や市場経済に適応しそれに従ったりそれを賞賛したりしている左右のすべての政党と政府に対して資本家階級が指令しているものである。この政策は民主主義の圧殺を伴う。民衆は、展開されている政策に対しても、支配的イデオロギーに奉仕するためにメディアや報道機関と共謀してそれらの政策を実施している議員たちに対しても、何ら統制することができないのだ。 われわれは、政治闘争を展開するために民主的権利を活用し、防衛し、それを生かす。今日の国家とその諸制度を政治的・社会的変革に役立つようにすることは不可能である。これらの機関は、ブルジョアジーの利益を守るために編成されているのであって、それらを打倒して、労働者と民衆に奉仕し、それらの管理下におかれた新しい諸制度を樹立しなければならない。資本主義の暴力とはまた、階級的裁判制度であると同時に警察の暴力でもある。郊外の反乱から、サンパピエ(滞在許可証を持たない移民)の子供たちや体制と闘うすべての人々への犯罪視、さらには青年や労働者のデモへの弾圧に至るまで、いたるところで、警察と裁判制度はこの抑圧の体制を防衛している。 この体制の論理は、それが真面目なものなのか欺瞞的なものなのかとは関係なく、体制をより道徳的にましなものにしたり、調整したり、改良したり、人間化したりしようとする主張をを無効にしてしまう。その論理は、どのような点で幸福や民主主義や平和が大規模生産手段の私的所有と両立しえないのかを日常的に立証することによって、まさにそれ自身によって体制の打倒と社会の革命的変革の諸条件を生み出す役割を果たしているのである。(つづく)
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