03. 2015年1月16日 08:26:42
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第179回(1月14日):照屋寛徳 議員 土井たか子さんの「護憲論」と「非戦論」◐http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/img/179teruya.jpg 社民党名誉党首の土井たか子さんが逝(い)ってしまってから早や100日余が過ぎた。この間、深い深い哀しみと喪失感にさいなまれてきた。 土井さんとの思い出や“啓示”ともいうべき数々の教えについては、別稿の「『憲法と結婚した』土井さんを悼む」(2014年10月2日付「憲法コラム」)に書き綴った。 私が土井さんの訃報に接したのは昨年9月28日である。この日、沖縄の「ミニ統一地方選」の出発式や陣中見舞いに駆け回っている最中のことだった。 土井さんが逝去されたのは9月20日―。訃報が各メディアで報じられ、私の耳に入ったのは、ご家族による密葬が済んだ後の9月28日である。その日から「初の女性党首」「初の女性衆議院議長」である政治家・土井たか子の業績や人間的な魅力、エピソードが多くの識者、政治家らによって語られ、論評された。 同時に、「憲法と結婚した」土井さんの護憲論、憲法を体現した土井さん、衆議院議長を退いた後も「憲法行脚の会」の活動に精根を傾けた土井さんに関するマスコミ評伝があった。 私は、それらの子細に目を通したつもりである。土井さんの著作も読み返した。逝去後の関連記事や資料もファイル一冊分纂(あつ)まった。 沖縄は、夏の「ミニ統一地方選」が終わると、11月16日の県知事選挙を迎えた。 土井さんは、「本土」復帰後の県知事選挙では毎回のように「革新統一」の知事候補応援に来県された。特に、1990年の大田昌秀候補(知事を2期務めた後、土井さんに請われて社民党公認参議院議員に当選)の応援演説は、ウチナーウマンチュの心を打ち、魅了した。 土井さんがお元気であれば、「オール沖縄」の「建白書」理念実現をめざす勢力が推す翁長雄志候補(現知事)の応援に駆け付けてくれたであろう。私は知事選期間中、翁長候補の応援演説をする度に「土井さんならこの場でどのような言葉を選び、力強く明確に、そしてわかり易く訴えるだろうか」と思案したものだ。 ともあれ、県知事選挙は翁長雄志氏が約10万票の大差で当選した。きっと、土井さんも天国で大好きなワインを傾け、祝杯を上げてくれたと思う。 そして、知事選挙の勝利の余韻に浸る間もなく、11月21日に衆議院は突如解散された。 急いで解散総選挙の準備をしなければならず、気が焦った。だが、11月25日に土井さん追悼の「お別れの会」(於:憲政記念館)を社民党主催で開催することを各方面に案内済みであった。 土井さん逝去の報に接してからの深い哀しみと喪失感による空洞を埋めるためにも、上京して土井さんにお別れを告げねばならない―。その一心で、日帰りで上京し、出席した「お別れの会」には約400人余が参列した。開式の前の控室では、様々な方から生前の土井さんとの思い出話を聞いた。上京や帰沖する際の機内でも土井さんに関する評論記事を貪り読み、無理に涙を乾かした。 そのとき読んだ中で印象に残ったのは、早野透氏(桜美林大学教授)の「土井さんは、日本国憲法を体現していた。憲法は抽象理念ではなく、『土井たか子』という肉体を持っていたのである」との一文である。 共同通信常務理事の小野江公利氏は「評伝・土井たか子」の中で、次のようなエピソードを紹介している。 「政界引退後も、護憲を訴えて全国を行脚した。06年に札幌市の講演会場で会ったときに久しぶりに言葉を交わした。『私は日本国憲法の伝道師ですから。まだまだ続けますよ』と背筋を伸ばして張りのある声で話していたのが印象深い。土井さんとの会話はこれが最後となった」 そうか、土井さんは政界引退後を「日本国憲法の伝道師」たらんとして生きたんだ。よーし、私もこれからは政界に身を置きながら、「反憲法」下の日常を強いられているウチナーで「日本国憲法の伝道師」として生きていこう! 土井さんは「日本国憲法の伝道師」であり、同時に「非戦平和の伝道師」でもあった。 土井さんは社民党党首として、2001年に「21世紀の平和構想―核も不信もないアジアを―」を発表した。「21世紀の平和構想」は“土井ドクトリン”(土井イニシアチブ、または土井アジェンダとも呼ばれる)として大きな反響を呼んだ。その理念は日本国憲法前文と憲法9条が源泉になっている。 「土井ドクトリン」では安全保障5原則と5つの政策目標をアジアに向けて発信した。以下、概略のみを紹介しよう。 【原則】 (1) 平和憲法を実行にうつし、世界に広めます。 (2) 北東アジアの近現代史を社会科学的に確立し、日本人として自発的にそれに基づく公正な歴史認識を深めます。 (3) 国際紛争は軍事力によらず、平和的な話し合いで解決します。 (4) 核兵器や生物化学兵器をはじめとする大量破壊兵器の廃絶を進めます。 (5) 日本として国際協力を惜しまず、国際社会の安全保障面では、国連の旗の下に平和維持活動(PKO)で非軍事の役割を積極的に果たします。 【政策目標】 (1) 日本国の非核不戦国家宣言 (2) 北東アジア総合安全保障機構の創設 (3) 北東アジア非核地帯の設置 (4) 2国間安保から多国間協調へ (5) 自衛隊の縮小・改編 「土井ドクトリン」が発表されて久しいが、その内容を精緻化する理論的作業や精神・理念を具現化する創造的運動の構築作業が党内的に不十分である、と自白せざるを得ない。誠に至極残念だ。 土井さんをして「非戦平和の伝道師」にした原点は、敗戦の年(1945年3月)の神戸大空襲である。土井さんは艦載機の機銃掃射と無数の焼夷弾爆撃で、真っ黒焦げの焼死体が転がる修羅場を必死に逃げて生き延びた。 土井さんは、佐高信氏との共著『護憲派の一分(いちぶん)』(角川21新書、2007年)の中で「戦争は人間を人間でなくしてしまう。人を狂わしてしまう。私は逃げまどう地獄絵図の中で、明日の生命は知れないと思った。私がのちに、『反戦』を唱えるような原点である」と述懐している。 さてさて、尊敬してやまない土井さんが逝ってしまって100日余が過ぎた今頃になって、何故にこのようなコラムを綴っているのか。 理由の一つは、今年が敗戦70年の節目であり、安倍独裁政権が「この道しかない」とばかりに「戦争国家」へと暴走する中で非戦の誓いを新たにする必要があること。 二つ目に、昨年7月1日に集団的自衛権行使容認(解釈改憲)が閣議決定され、いよいよ“壊憲”と改憲が具体的になってきたこと。 そして三つ目に、年末年始に書斎を整理していたら「不戦の誓い 命(ぬち)どぅ宝」と揮毫(きごう)した土井さんの色紙を発見したからである。 土井さん、あなたから「護憲と平和の伝道師」を勝手にバトンタッチした不肖の私を天国から厳しく、時に温かく見守ってくださいね。 (2015年1月14日 社民党衆議院議員 照屋寛徳) ◐http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/179teruya.htm 改憲策動阻止 武力行使の歯止め欠落の追及から 安倍首相はいよいよ改憲の野望を隠さなくなった。昨年12月の第3次内閣発足にあたり首相は「憲法改正は歴史的チャレンジ」と改憲への意欲を強調した。また、1月5日の年頭会見で首相は「新たな安全保障法制を整備する」と語った。 これら一連の発言は、首相がなぜ昨年12月、解散を強行したのかという事情の一端を示している。改憲には「あと2年」では足らず、「あと4年」のフリーハンドが欲しいのだ。この間に平和憲法の外堀を埋め、最低でも改憲への道筋を確かなものにしたいのだ。そのための重要なステップが集団的自衛権行使の手続きを法定する安保法制整備だ。 昨年7月に閣議決定された武力行使の新3要件について、集団的自衛権行使にあたっては「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」との枠がはまっているので、これは実質的には個別的自衛権行使と変わらないとする擁護論が公明党などからはしきりに繰り返されている。しかし、今後の法整備において問題となるのは、法文上の概念規定が何を限定することで、逆に何をすることを許容してしまうかであり、「明白な危険」の語感が強いかどうかなどという印象論ではない。 そのことを教訓的に示すのが、(今回改正が予定される)武力攻撃事態法の03年制定時の議論だ。政府当初案で武力攻撃事態は「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態または事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態」と定義された。法案修正で武力攻撃事態(武力攻撃が発生した事態または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態)と武力攻撃予測事態(武力攻撃には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態)が分けられたが、予測・おそれ・武力攻撃の3事態構造は維持された。 法案審議では予測・おそれ事態と重なる周辺事態での米軍後方支援と憲法との関係などが問題とされた。政府は、当時の自衛権発動3要件に合致しない限り日本の武力行使や米軍の武力行使と一体化する支援は行なわないが、予測・おそれ事態において武力攻撃排除の準備行動は行なうことは可能、などとかわした。 見てのとおり新3要件下でこのときの歯止めは存在しない。言葉遊びにごまかされるわけにはいかない。 (社会新報2014年1月14日号・主張より) ・http://www5.sdp.or.jp/publicity/shimpo/opinion/150114.htm |