02. 2013年7月26日 01:26:21
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【第2回】 2013年7月26日 ダイヤモンド・オンライン編集部 権力者はやりたい放題、国民の義務ばかりが増える 日本人が知らない自民党憲法改正案の意義とリスク ――小林節・慶應義塾大学法学部教授に聞く 昨年4月に「日本国憲法改正草案」を発表した自民党が先の参院選で大勝し、憲法改正が現実味を帯びてきた。一時期、第96条を先行して改正しようという自民党の発案が物議を醸したこともあり、国民の間では憲法改正への注目がかつてなく盛り上がっている。ニュースなどを見て、今回の改正案を不安視する向きも多い。そうした状況を受け、足もとでは「護憲派」「改憲派」の識者たちがそれぞれ活発に意見を述べている。代表的な改憲派として知られる小林節・慶應義塾大学法学部教授は、今回の自民党の改正案に異を唱えている1人だ。小林教授は、なぜ自民党の改正案に異を唱えるのか。改正案にはどこに問題があるのか。自らを「護憲的改憲論者」と呼ぶ教授に、中立的な立場から、国民が知らない憲法改正の意義とリスクを語ってもらった。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン 編集長・原英次郎、小尾拓也)憲法改正を唱えて来たのは 復古主義の世襲議員たち ――昨年4月に「日本国憲法改正草案」を発表した自民党は、「憲法改正」を参院選の公約に正式に盛り込みました。先の参院選で自民党が大勝した今、改正が現実味を帯びています。以前から憲法改正論議には賛否両論がありますが、第二次安倍政権が発足してから、急に表面化してきた印象があります。憲法改正論が盛り上がってきた背景には、どんな事情があるのでしょうか。 こばやし・せつ 慶應義塾大学法学部教授(法学研究科兼務)、学校法人日本体育大学理事、日体桜華高等学校学校長、弁護士。法学博士、名誉博士(モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学)。1949年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。ハーバード大学ロー・スクール客員研究員などを経て、89年慶大教授に就任。その後、北京大学招聘教授、ハーバード大学ケネディ・スクール・オヴ・ガヴァメント研究員などを兼務。『憲法守って国滅ぶ』『国家権力の反乱』『「憲法」改正と改悪』『白熱講義!日本国憲法改正』など著書多数。 そもそも自民党は、半世紀以上前、憲法改正を目的に保守合同で誕生した改憲政党です。しかし、その後は自民党自身が改憲論から逃げ回っていた。安倍政権以外の歴代首相は、政権発足時に「我が内閣では憲法改正を議題に載せない」と言い続けてきました。
その背景には、自党内で権力闘争のバランスをとる目的もあったかもしれないが、お蔭で国民は憲法議論からずっと遠ざかってきました。そんななかでも、自民党関係者のなかで、少人数による改憲の勉強会は地道に続けられて来ました。 ――憲法改正を地道に唱えて来たのは、どういう人たちなのですか。 基本的に、復古主義の人たち。明治憲法下で生まれ育った岸信介元首相らが始めた「自主憲法期成議員同盟」「自主憲法制定国民会議」などの会員が母体になっています。一方で、自民党の政務調査会の中に憲法調査会もあり、建前上は憲法議論をそこでやることになっていました。 憲法論議はお金にも票にもならないから、必然的に憲法マニアが集まります。顔ぶれを見ると世襲議員が多い。選挙区の地盤がしっかりしているから、票集めに使う労力を憲法論議に割けるわけです。 また、彼らの先祖は代々由緒正しいエスタブリッシュメントの家柄で、権力側の立場にあった。ところが、第二次世界大戦に日本が負けて、権力を削がれてしまった。そのため、占領軍に対する屈辱の気持ちもあり、「米国に押し付けられた日本国憲法を改正したい」という動機につながっている部分もありそうです。そういう人たちによって、「押し付け憲法論」「明治憲法復古論」などが自民党内で脈々と続いてきた。 ――そうした人々が、足もとの憲法改正論にも影響を与えているのですか。 過去3年間、野党だった自民党は時間がありました。加えて、野党時代の自民党で生き残っていたのは、選挙地盤がしっかりしている世襲議員が多かった。そうした事情もあり、自民党内の「明治憲法郷愁派」のような人たちが中心になって、今回のような改憲案が出て来たのではないでしょうか。 自民党はある意味、非常によくできた組織です。あたかも「分担総合病院」のようなもので、党議決定すれば皆逆らわない。政務調査会の中の部会や調査会で議論した結果が党の総務会で通ると、それが党全体の決定とみなされ、党議拘束がかかるからです。そういう流れで、自民党の中の特殊なアナクロニズム的な人たちの決定が、党議決定となって表に出て来てしまったわけです。 それに加えて、安倍晋三首相が政治の第一線に復活した。改憲論者の岸信介元首相の孫ですから、当然「今の日本国憲法は屈辱だ」という考え方が、彼のDNAの中にも流れているのだと思います。だから安倍首相は、歴代内閣と違って「憲法改正は我が内閣の使命だ」と明言しました。 日本国憲法のよいところは堅持し 現状に合わない部分は変えるべき ――憲法改正論議が表に出てきたことは、いいことなのでしょうか。それとも、悪いことなのでしょうか。 私も改憲論者なので、改憲論が表に出てきたことによって、議論の素地ができること自体はいいことだと思います。しかし、自民党案をこのまま認めるわけにはいかない。私は改憲論者と言っても、「護憲的改憲論者」。日本国憲法のよい部分は堅持するべきだし、一方で現状にそぐわなくなった部分は、車をモデルチェンジするように、変えるべきだと思っている。それが私のスタンスです。その立場から言えば、今回の自民党案の多くには相容れないものがあるため、意見を同じくする識者たちと一緒に異を唱えています。 ただ、私たちの批判を自民党は受け入れたくないようです。先日、参議院の憲法審査会に呼ばれて、自民党議員に対して自説を述べ、改正案に反対したのですが、彼らはなかなか納得してくれません。 ――小林教授にとって、自民党の改正案にはどんな難点があるのでしょうか。批判の根拠は何ですか。 今回の改正案の最も大きな不安は、「立憲主義が後退するのではないか」ということ。改正案からは、国家が国民に様々な義務を押し付けようという目論見が見えるからです。 「国家が国民に義務を押し付ける」ことは、日本国憲法の根本理念に反します。自民党は、憲法が何かをわかっていないのです。たとえば、酔っ払い運転の取り締まりを厳しくしたり、借りたお金を踏み倒す人を少なくしたりしようと思えば、国は刑法や民法を改正します。それと同じことを、憲法という根本法を改正してやろうとしているわけです。 しかし、いわゆる「六法」と呼ばれているなかで、憲法とその他の法律(民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)は、性格が全く違うもの。憲法は国民を規制するものではなく、権力者の横暴を規制する法規範なのです。しかし、日本人の多くは、憲法を単に民法や刑法のような法律の「親玉」くらいにしか思っていない。そこが問題なのです。 憲法は権力者を規制する法規範 国民に義務を押し付けるものではない ――憲法とは、権力者を規制する法規範なのですか。 そうです。そもそも憲法とは、ヨーロッパなどで王政時代が終わってから、初めて出て来た概念。昔は、王家は代々神の血筋によって受け継がれているから、間違いを犯すことなどないと思われてきました。絶対王政下では、国王は「朕は国家なり」と我が物顔に振る舞い、国民が王を統制する法はなかった。 それが崩れたのは、アメリカ合衆国の初代大統領となったジョージ・ワシントンの登場からです。当初、イギリスとの独立戦争に勝ち抜き大国となったアメリカの指導者たちは、ワシントンを初代の国王にしようとしました。 しかしワシントンは、「自分たちはイギリス国王と戦って国をつくったのだから、アメリカが王国になったら意味がないじゃないか」とこれを拒否。とはいえ、国に管理者は必要です。そこで、血筋で指導者を選ぶのではなく、選挙で選ぶ任期付きの大統領職を設けようということになりました。大統領は、王と違って神ではありません。人間だから間違いも犯す不完全な存在です。 だから、「権力」という個人の能力を超えた実力を持つ為政者を、法で縛ろうという考え方が出て来た。つまり、権力者たる生身の人間を管理するという目的が、憲法の起源なのです。これは、人間の本質がこうである以上、決して変わらない理念なのです。 このように、憲法は権力者を規制するものなのですが、自民党は「国が国民に押し付ける憲法があってもいい」と思っているフシがある。彼らは、「昔のヨーロッパのように、悪魔化した王の圧政に対して国民が革命を起こすような状況は日本にはなかった。天皇陛下と国民がケンカしたことのない麗しい日本には、憲法による権力者の規制は必要ない」とでも思っているのでしょう。 しかし、実際はどうか。明治憲法下の戦前の日本では、軍人が天皇の統帥権を口実にして勝手に戦争に突き進み、国民は特高警察と治安維持法によって人権を奪われました。今回の改正案を見る限り、やはり自民党は憲法の意義を取り違えていると言わざるを得ません。 国歌・国旗、家族を愛せというのは 「思想・良心の自由」に反しないか ――自民党の改正案では、具体的に国民にどんな義務を課そうとしているのですか。 今回の改正案に出て来た代表的な義務が、第1章第3条2の「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(新設)、第3章第24条の「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」(新設)、そして第11章第102条の「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」(改正)といった文言です。要は、国家や家族を尊重し、その大切さを謳った憲法を尊重しなさい、という内容です。 前草案では「国を愛しなさい」という文言が出て来ましたが、さすがにこれはマズイと思ったのか、今回の案では形を変えました。しかし、やはりおかしいですよ。 自民党の言い分はこうです。 「この世の中は最近、親殺しや子殺しなど、変な事件が多すぎる。これは社会の絆が崩れている証拠だ。それはなぜかと言うと、日本国憲法が個人主義だったから。よって、一番大きな社会である国家と、一番小さな社会である家庭を尊重するよう、国民を教育し直さなければならない」 確かに、私も日本や家族を愛しているし、愛すべきだとは思います。しかし、それらを愛するかどうかはあくまで個人の道徳的な問題であり、国が憲法でそれを強制することは、憲法の定める思想・良心の自由に反します。 「家族仲良し法」ができて 仲の悪い夫婦が罰せられる ――たとえば、「家族を尊重する」という義務にはどんなリスクがあるのですか。 たとえば結婚です。結婚は、人生で一番大事な契約の1つでありながら、男女が頭に血が上り、勢いでしてしまうケースが多い。だから、結婚後に全体の2〜3割の夫婦が離婚を選ぶ。これはいいも悪いもなく、人間としての自然現象です。だからこそ、民法には結婚と離婚に関する規定が対等に書かれています。
ところが、最高法規の憲法で「家族は仲良くしなさい」と書かれたら、それを具体化する法律の1つとして、「家族仲良し法」などがつくられ、国民が離婚をしたくてもできない状況になる可能性がある。ヘタな話、離婚寸前の夫婦には、お互いを憎しみ合い、相手を殺したいと思っている人もいるでしょう。 しかし子どもが、ケンカの絶えない両親を見て、「パパとママの仲が悪いのはイヤだ。そうだ、家族仲良し法というのがあるぞ」と考え、お巡りさんに助けを求めにいったらどうなりますか。その夫婦は、法律違反で罰せられてしまう。冗談みたいな話ですが、そういうことが現実に起こり得るのです。 この例を見ても、自民党の改正案は「法は道徳に踏み込まず」という世界の常識を逸脱している。自民党で憲法論議をしている人たちは、教養がないのではないかと疑ってしまいますね。彼らに追随する一部の御用学者もいけません。 「表現の自由」は最も大切な人権 なぜわざわざ二重規制をするのか ――「表現の自由」が規制されるのではないかという話も聞きましたが。 アメリカの最高裁判決にもありますが、「表現の自由」は最も大切な人権です。これは、自由主義・民主主義を謳う国においては世界の常識です。表現の自由がなかったら、国民は国がおかしなことをやっても批判できず、民主主義が成り立たないのだから。 ところが自民党案では、現行憲法第3章第21条で述べられている「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由の保障」の後に、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という条文が新設されました。表現の自由の条文の後にだけ、なぜそれを規制する但し書きのようなものが、わざわざ設けられるのか、理解できません。 そもそも、第3章「国民の権利及び義務」の中の第12条、第13条にも、国民は自由と権利を保持する代わりに、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」という趣旨の一文が付け加えられています。それにより、後に続く「信教の自由」「表現の自由」「職業選択の自由」など、人権に関する具体的な条文を全て規制することができる。にもかかわらず、同じことを各論の1つに過ぎない「表現の自由」だけにもう一度付け加えた。これでは、政府に言論統制の強い意思があると見られても、仕方がないでしょう。 つまり、最も大切な人権である「表現の自由」が、事実上最も軽視されることになるわけで、考えてみれば恐ろしい話です。 ――これらを認めたら、権力者のやりたい放題になる恐れがあるというわけですね。しかし、そもそも論として、憲法に権力をコントロールする役割があるということ自体を、多くの国民は知らないのではないでしょうか。 そうですね。日本の憲法教育自体が間違っていたのです。戦後の憲法教育では「第9条が大切」とばかり教わってきた。憲法は最上位にあって、国民統治の在り方を規定するものではありますが、それが権力者を統治する意味があるとか、六法の中でどういう位置づけなのかといった基本的なことを、国民の多くは知りません。 自民党の改憲論者は、それをいいことに、憲法を使って国家統治の仕組みをつくろうとしているようにも見える。しかしそもそも政治家は、間接民主主義の仕組みの中で、国民に選ばれた存在なのだから、これは本末転倒です。むしろ国民が、自分が選んだ為政者たちを管理するために憲法はあるのです。そこの理解が国民にも欠如しているわけです。 憲法に縛られるべき権力者が 96条の先行改正を唱える危険 ――そう考えると、憲法改正を議論する前に、まず国民が憲法の正しい知識を身に付ける必要がありますね。しかし、そうした現状にもかかわらず、一時期自民党からは、「憲法改正の発議」に関する第96条だけを優先的に改正したいという意見が出ました。96条で「衆参両議院の各議員の3分の2以上の賛成」とされていた発議要件を「過半数」に緩和するというものです。これは物議を醸しましたね。 憲法改正における、「総議員の3分の2以上の賛成」という発議要件と、「国民投票による過半数の賛成」という成立要件は、日本のみならず、民主主義国家において大体の相場となっています。日本国憲法の改正は世界一困難だと言われていますが、それはウソ。アメリカだって、形式的には「上下両院で3分の2以上の賛成」が発議要件で、「全国の4分の3の州における投票」が成立要件となっています。 これが普通の法律なら、国会議員の過半数の賛成で改廃が決まりますが、憲法は国の最高法規として権力者の一存で簡単には変えられないようにハードルが高くなっています。つまり、憲法はもともと「硬性」であってしかるべきもの。その改正要件を普通の法律と同じレベルに下げようという発想が、そもそもおかしいのです。 憲法に縛られている国家権力を握る人々が、憲法から自由になれる発議をやり易くしようとする。これでは「憲法破壊」じゃないですか。かつてオーストラリアでも改正条項先行の改憲議論がなされてしくじりましたが、こういうのは論外ですよ。 ――とはいえ、小林教授はもともと改憲論者です。それでも第96条の改正には反対なのですか。 社会学的に言えば、確かに日本国憲法の改正条項は厳しい部類に入ると思います。だから、白紙から憲法をつくり直したり、今の体制下で一度きちんと憲法改正をやった後なら、発議要件を緩めるなど、冷静な議論をしてもいい。 とはいえ、かつての大日本帝国憲法は神である天皇から下げ渡された憲法であり、日本国憲法はアメリカから与えられた憲法です。よって、日本人はこれまで、革命などを通じて自らの手で憲法をつくった経験がなく、アメリカやドイツのように自らの手で憲法を改正した経験もなかった。そういう国民を置き去りにして、改憲議論の入り口で政府がいきなり改正のハードルを下げようというのは、アンフェアじゃないでしょうか。 自衛権や国防軍は世界の常識 日本は自衛戦争を放棄していない ――それではもう1つ、これまでの憲法教育の中で最も象徴的に啓蒙されてきたのが、平和憲法の核となる「第9条」ですね。ここでは、戦争の放棄や武力の行使を認めないことが定められています。集団的自衛権の在り方などについて、これまで最も多くの議論がなされてきた条文でもあります。小林教授は、日本における9条の一般的な解釈について異論を唱えて来ました。本来我々は、9条をどう解釈すべきなのでしょうか。また、自民党案では、この9条に「前項の規定は自衛権の発動を妨げるものではない」「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」といった文言を付け加えようとしています。これをどう評価しますか。 結論から言えば、自民党案の中で「自衛権」や「国防軍」の記述は、世界の常識に適ったものだと思います。 憲法には、前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれています。それに従い、日本は9条で、戦争を放棄し、戦力を持たないことを宣言しました。 確かに戦争のない世の中は理想ですが、現実には世界で紛争が絶えることはありません。日本も同様です。日本国憲法ができたとき、北方領土はソ連に占領されていたし、発布された直後には韓国の李承晩大統領によって竹島が占拠された。その後も、北朝鮮による拉致事件、尖閣諸島を巡る中国とのいざこざなど、諸外国との諍いは続いています。 それを見ても、現在の9条の解釈は理想どころか「空想」なのです。人間の集団たる国家は、無防備ではいけません。実は、戦争と平和の考え方は、憲法ではなく国際法の問題です。国際法に照らせば、独立主権国家には、他国に侵略の対象とされた場合に、軍事力を使ってそれに抵抗し得るという「自衛権」があります。国際社会では、自衛権は国家が先天的に持つ権利、つまり「自然権」と解釈されています。 また、9条が放棄している「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、戦前のパリ不戦条約以降、国際社会では外国に対する侵略戦争のことを指しています。翻って9条には、「国際紛争を解決する手段として武力の行使を放棄する」という旨が書かれていますが、自衛権を放棄するとは書かれていない。つまり、「侵略戦争は放棄したけど自衛戦争は放棄しない」という解釈が成り立つのです。
一方、9条では「戦力の保持」も禁止されていますが、戦力を「他国を侵略できる大きな軍隊のこと」と仮定すれば、戦力に至らない程度の自衛力は持てるはず。そう考えると、日本に自衛隊があるのはおかしなことではなく、自衛戦争もできることになる。日本政府も以前から、「日本は国家の自然権を根拠に自衛権を持てる」という見解を出しています。 ただし、日本は侵略戦争を放棄しているため、自衛の名の下で海外に進出し、侵略戦争をするリスクは排除しなくてはいけない。それが「海外派兵の禁止」「専守防衛の原則」という概念につながっています。自衛隊は、他国に攻め込まれたときに、あくまで日本の領土、領海、領空の中で反撃し、他国まで行って武力紛争に巻き込まれてはいけないということです。 領土をより安全に守るためにも 集団的自衛権を認めたらどうか ――集団的自衛権の考え方については、どうですか。 先にも述べた通り、政府は自国の自衛権の存在を認めています。そうなると、自衛権を持つ独立主権国家が「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。 政府は憲法の立法趣旨に照らして、集団的自衛権を自らの解釈で自制していますが、このままだと日本は、他国に攻められたときに自分たちだけで自衛しなくてはいけません。しかし、「襲われたら同盟国が報復にゆく」というメッセージを打ち出せる集団的自衛権は、他国の侵略を牽制する意味においてもメリットがあります。だから、改めて「日本は集団的自衛権を持っている」と解釈を変更するべきでしょう。 今の日本は海外派兵を自制しているため、自国が侵略されそうなときは同盟国である米国に助けてもらえる一方、米国が侵略されそうなときには助けにいけない。日米安保条約は片務条約になっています。これまで日本は、9条のお陰で日米安保にタダ乗りし、米国の傘下で安心して経済発展に邁進することができた。 でも、これだけの大国になった今、それでは済まないでしょう。今後、集団的自衛権を認めれば、日米安保が強化され、日本の領土をより安全に守ることができるようになるはず。 ――憲法を改正しなくても、集団的自衛権は現段階でも解釈次第で行使することができるというわけですね。 できます。ただし、念のため制約を持たせるとすれば、同盟国からの要請だけで海外派兵を決めるのではなく、国連議決とさらに事前に国内で国会決議も行うようにしたほうがいいと思います。 いっそ9条をすっきり改正せよ そのほうが周辺国の理解を得られる ――ただ、9条を改正したら中国や韓国などから強い反発が起きないでしょうか。 それは大いなる誤解。現在、戦争も軍隊も否定しているはずの日本が自衛隊を持ち、イラクやアフガンに海外派兵しています。彼らはあくまで後方支援という名目で現地に赴きましたが、イスラム圏の国々から見れば、戦争と一体の敵対的行為と映った。先般、アルジェリアで起きた痛ましい人質事件は、その恨みが基になっています。日本が自衛隊の運営方針をはっきりさせないから、世界の国々から疑念を持たれるわけで、これでは本末転倒です。 こんなことを続けるより、いっそ憲法をすっきり改正して、(1)「侵略戦争はしない」、(2)「ただし独立主権国家である以上、侵略を受けたら自衛戦争はする」、(3)「そのために自衛軍を持つ」、(4)「国際国家として国際貢献もするが、それには国連決議の他に事前の国会決議も必要とする」と明記すればいいのではないか。そうすれば、日本を狙っている国に対しては牽制になるし、日本を恐れている国に対しては安心感を与えられます。あらゆる意味において、世界は納得するのです。 明治憲法では陸海軍の統帥権が独立していたので、天皇の名前さえ出せば軍隊はどこへでも行けた。だから、陸軍が満州(現中国東北部)で暴走して、勝手に戦争を起こすことができた。アジアの国々にとっては、9条が改正されれば、また同じことが起きるのではないかという不安もあるのでしょう。しかし、あんなことは現憲法下では絶対に起こり得ません。 日本国憲法下においては、シビリアンコントロール(文民統制)が基本です。よその国に間違っても侵略戦争をしかけないと書いてあるのと一緒。心配することはないのです。ただ、それと自衛戦争は別でしょう。自分の国が侵略戦争を受けて、自分で自分を守れなくてどうしますか。 改憲派と護憲派を同席させて もっと論議を活性化させるべき ――ここまで聞いて、これまで行われてきた憲法論議の流れや、今回の自民党案の課題がよくわかりました。とはいえ、改憲論議は硬直化してなかなか進まない印象があります。小林教授は、これまでどのように自説を訴えて来たのですか。 先にも述べたように、私は改憲論者と言っても「護憲的改憲論者」です。だから、私のような意見はこれまでなかなか認めてもらえなかった。護憲派からは「反動分子め、9条改正を唱えるなんて軍国主義者だ」と言われたし、改憲論者からは「明治憲法が正しいと思わないのか。口で護憲だなんて言っても、偽物だ」と言われたりしました。 でも、そういう一方的な見方ではいけない。日本国憲法はいい憲法ですが、やはり戦後の混乱期に慌ただしくつくられてしまったものなので、つくり間違えがあって当たり前だと思う。それを現実にうまく適合させ、国民総体の幸福を増進する国家運営に改めるのが改憲の目的だと思います。 ――これから憲法論議をさらに深め、実りあるものにしていくためには、マスコミを含めてどういう議論をいていけばいいのでしょうか。 まずは、改憲派と護憲派を同席させて、きちんと議論をさせること。これまで両者は交じり合うことなく、思想が同じ者同士で感情的な議論ばかりを続けてきましたから。手前味噌ですが、その際、私のようにどちらの事情も理解している第三者的な人間が、そういう場で意見を言える機会が、もっと増えればいいのでしょうね。 幸い、安倍内閣で憲法改正案が出て、世間で憲法への関心が高まり始めてから、私を取材してくれるメディアも増えたし、理解者も増えてきた感じがします。先日、知らない中年女性にキャンパスでいきなり呼び止められ、「先生、憲法を守ってくれてありがとう」と言われました。嬉しかったですね。 |