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誰も予想すらできなかった未曾有の3.11東日本大震災と、4基もの原発事故。
東京電力は平成24年5月、これまでに放出された放射性物質の総量は、セシウム量の換算から、チェルノブイリの4倍、広島型原爆の4023発分に相当すると、海外向けに発表した。
福島第一原発からはいまだに放射性物質が漏れ続け、被災地は勿論、東日本地域は非常に深刻な状況に置かれたまま、政府は一旦全面停止した原発の再稼働を推進。
また、9月11日には、デリケートな領土問題の一つである尖閣諸島を国有化するとしたことから、中国の反日感情に火がつき、中国に進出している日系企業は既に莫大な損害を被り、尖閣周辺はにわかに、日・中・台・米の軍事緊張まで高まる事態となった。
先の大戦では、日本の多くの町は焦土と化し、最後には、開発間もない2種類の原子爆弾によって20万もの命が一瞬のうちに奪われるという、あの想像を絶する全面降伏の最期に、誰ひとり納得のゆく説明をできる者もなかった。多くの日本人は焼け野原に茫然自失し、心の空白を抱え、日本人たる誇りとアイデンティティーを喪失したのである。その空虚な心にあったのは、金や物資が豊富にあったなら、こんな惨めな敗北は無かったろうにという想いであったのかも知れない。そのため、戦後は復興を目標に掲げて必死に働き、奇跡といわれる経済大国・技術大国を実現し世界中を驚かせた。
しかしながら、かつては貧しくとも高貴であると称賛された日本人も、その多くは精神性を回復できないまま、結局全ては金・物・力次第という物質至上主義に陥った。そして、人間の命より金や力を優先する昨今のこの国の異常なあり方が、あたかも問われるかのような膨大な犠牲を伴う大災害が発生した。
日本の原発事故から間もなく、全面廃炉を決定したドイツの英断は示唆的である。同じく資源に乏しい工業立国の日本にこの選択ができない筈はないのだが、今後もその推移は目の離せない課題となろう。
また、放射能汚染の国難に加え、安易な政治判断で国際紛争を拡大し、第三次世界大戦の導火線となるような歴史的愚挙を犯さぬためにも、ここで改めて、憲法問題の核心と、日本という国の特異な立場を再認識してゆくことが肝要と思われる。
先ず、憲法前文の重要ポイントを先に列挙し、後半にその根拠や背景を説明してゆきたい。
■1 憲法前文の問題点について
日本国憲法の前文については、世界平和と民主主義の理念を謳った模範的なものとして、政治学者や憲法学者及び為政者の間でも比較的肯定的な評価が一般的である。
しかしながら、日本古来の国体観及び今後の世界平和に果たすべき日本独自の役割を、その真実の歴史性や霊学的背景とともに考えたとき、そこに大きな誤謬が潜んでいることが指摘されねばならない。
即ち、次の点に、占領軍−GHQによって一週間という短期間で原案作成された憲法の弱点が露呈しており、日本国民が真摯に憲法問題に取り組んだとき、その点が憲法改正の第一の焦点となるべきポイントと考えられる。
―日本国憲法 前文抜粋 (昭和21年11月3日公布)―
『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』
@“国政の権威は国民に由来し”とするのは、欧米の唯物的発想であり、国民統合の精神的主体軸を崩し国政を分断紛糾する結果を招来する。当の米国でも大統領の就任においては、国政の権威が聖書に由来することが表明される。同じく、イスラム圏ではコーランに由来する。
日本においては、権力の行使は国民でよいが、“権威”はこれを神聖権威とするならば、紛うことなく天皇に由来するとしなければならない。よって、以下のように改正されることが必要である。
「その権威は国民に由来し」⇒「その権威は祀り主たる天皇に由来し」 従って、
「これは人類普遍の原理であり」⇒「これは古来わが国の歴史的原理である」と改正される。
A「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とあるのは、日本政府が再び軍国主義へ傾倒することを避ける主旨からもたらされたものと考えられるが、それは結果的に祀り主たる天皇の権威を貶め、然らば国民の精神性及び文化性の荒廃化を招来する。
よって、この文言は以下のように改正されることが必要である。
「われらは、これに反する一切の条約、法令等を排除する」
憲法前文は、以上の二点を修正することによって、国際的な観点からも、日本古来の国体観及び歴史性の観点からも全く問題のない模範的な文章となるものと考えられる。
■2 憲法前文と9条の関連性
憲法前文は、以下のように続き、締めくくられる。
―日本国憲法 前文続き―
『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う』
@上記前文の主旨は、条文として憲法9条第1項及び第2項に具体的な形で集約され、表明されているものと考えられる。
A近代民主主義の大原則は、“政治が国民の自由意志によること”、及び“国家の主権や秩序が他によって侵害されるような時には、人民自ら武器を取って戦いこれを守ること”であって、民主主義とはそれが当然の権利として認められた政治制度である。
B従って、民主主義国家同士において、あるいは異なる信条やイデオロギーに拠って立つ国家との間には、常に利害の対立によって戦いを生ぜしめる危険性が存在する。
C民主主義国家に当然の権利と認められた“交戦権”を敢えて放棄することを表明した憲法9条は、世界諸国の慣例から見て非常に特殊である。今後、日本がこれを改変し他国同様の政体に準じるか、あるいはこれを墨守して独自の路線をとるかは、日本の行く末は無論、人類史の未来をも左右する重要課題と考えられる。
Dシステム機能上、諸々の紛争や戦争の呪縛から免れ得ない今日の世界において、憲法9条は平和への唯一の道標となり得、日本がこれを遵守し世界もその方向へ導くことが、即ち、“国際社会において名誉ある地位を占める”ことへ結びつくものと考えられる。
E“政治道徳の法則は普遍的”であることが期待されるが、現代世界では、“崇高な理想と目的”が見失われ、それぞれ異なる政治法則を追求する複数の国家同士が分裂をきたし、パワーバランスによる緊張関係を保ち、もしくは相争う状態が続いている。
上記の要点を踏まえた結論として、“交戦権”の放棄を謳う日本国の憲法9条が、もし天皇陛下の大詔であった(注釈)としたなら、即ちそれは混迷を極める現代世界において、民主主義という政体を超越した絶対恒久平和への道のりを示す一つの普遍的指針ともなり得る。これは地球全体の未来を決する重大問題であり、日本民族の決意が問われる問題でもある。
(注釈) 昭和21年3月5日、昭和天皇より幣原総理に下賜された勅語には明確に戦争放棄が謳われており、その他、天皇が憲法9条の発想者たりうる決定的資料が複数存在する。(→末尾参照)
■3 防衛・平和問題と日本国民の決意について
現在、尖閣列島を筆頭とする領土問題への対処が日本の喫緊の重大課題となっている。
そして、その対処を間違えるなら取り返しのつかない事態に至ることも十分にあり得、まさに日本国民の良識と覚悟が試される試練の時を迎えている。
さて、その選択肢であるが、大きく分けるなら以下の二つに集約されよう。
第一の選択肢は、日米の互恵関係を強化し、憲法9条を改変し、正規の国軍としての防衛力を整備することである。これには核の保有も勘案される。
第二の選択肢は、日米同盟を尊重しつつ、憲法9条をより厳格に遵守し、さらには日本独自の平和外交路線を官民一体となって開くことである。
第一の選択肢をとることは、自立した民主国家としては当然の権利と考えられるが、いずれは領土及び資源という物量的国家権益の争奪戦を生ぜしめ、双方が譲らないまま推移した場合、戦争をも生起せしめる可能性が大となる。それは、過去に起きた歴史上の種々の戦争の経緯を顧みるなら明白であろう。
第二の選択肢は、ある意味で欧米的な民主国家としての当然の権利でもある軍事・防衛力に関し、その放棄を決意することに等しい。これまで、実際の防衛力としては、日米安保条約により米軍に依存する戦後体制が構築され極東のパワーバランスは保たれてきた。
しかしながら今後、東アジアにおける歴史問題の清算を含めた日本独自の平和外交路線を考えるなら、まさに百を捨てて万を得る、日本国民とその政治の覚悟が問われているものと考えられる。
百を捨てるとは即ち、この度は領土とされる島々のみならず、本土にまで波及し得る難問を前に、国民一人ひとりの命の覚悟が、“清水の舞台”において試されるということである。そしてそれは、決して世界戦争の引き金に日本自ら手をかけないという天皇の大詔を魂で受け止めた、民族としての矜持があってこそ成し得る業であろう。
現代物質文明と民主主義の価値観を超越した存在である祀り主スメラミコトの立場が本源的に有している地球規模においての大公性・絶対的普遍性に、先ずは日本民族が目覚めることが大切なのである。そこでは真の意味で君民の霊的合一が求められる。即ち、“文明の智”ではなく、日本民族のみ為し得る“産霊の命(むすびのいのち)”の選択である。言葉を換えるなら、明治以降百数十年馴染んできた民主主義としての常識的智をよしんば捨て去っても、日本民族には悠久の太古から連綿と護られてきたスメラミコトの祀りと祭政一致の国体の命の灯火が残されるということである。その理が生かされるなら、たとえ幾年の国家的艱難があろうとも、恒久平和の確立が念願される国際社会において、やがてはその崇高な目的を日本民族が主体的に達成していくことになり、まさに名誉ある地位を得ることになるであろう。
万を得るとは即ち、このように日本国民一人ひとりが新しい時代の平和の盟主となる自覚をもって事に対処することにより、今後益々グローバル化し一つとなってゆく地球の、エネルギー・経済・産業・環境・軍事等の諸問題において、目下出口の見当たらない扉の岩戸を開く先導者となり、地球規模の平和政策の主導権を必然的に得るということである。それは日出る国の民族が、世界史の終末において成し遂げるとされた、人類史の形而上的シナリオを完成させることにも等しい。
現代文明のパラダイム・シフトが成し遂げられた暁には、国境や民族や宗教の従来の垣根を超えた世界統一政体が明らかな姿となって現れるものと考えられるが、その道案内役こそ日本民族であるということでもあり、この度の領土問題やエネルギー政策の転換は、その試金石としての第一歩であるものとも考えられる。
防衛問題に関しては、直接国民の命や財産に関わる問題であることから、最も重要な政治課題とされる。そして、国民の命と財産を形而下において護ることは民主国家の最大の責務であるが、そのために起こる果てしない争奪戦の歴史を見れば、この課題は政治家にとって最終的解決のないパラドックスであり、そこに現代民主世界の軍事・平和問題の機構的限界性が認められる。
そして、その世界的難問を解決へと導く資格と条件が、唯一日本という国に与えられているのであって、政治家ではなく日本民族としての覚悟が今問われているということである。
かつて、アジアの一角において大英帝国の植民地であったインドの独立は、全く武力に依存することなく、マハトマ・ガンジーの非暴力=アヒンサーの高度な理念によって成し遂げられた歴史的経緯があった。
人類の崇高な魂の訴えは、広く人々の共鳴を誘って民族の精神的団結をもたらし、それは国家防衛や民族自決を支える物的根拠と一般には考えられている軍事力を超越したパワーを有するものであることが明示されている。
いわんや、アジア大陸の極東、日出ずる処の民とされた日本民族が、その悠久の至高なる国体の理に目覚め、世界平和をご悲願される天皇陛下の大詔に触れたなら、その採るべき道は、百を捨てても万を得る、即ち小事に拘泥せずとも大原則に従い、地球全体の恒久平和樹立の道に準ずることより他にないものと考えられよう。
ことに憲法問題は、ひとり日本国の政体改変や政策転換、一部の領土保有というような次元に留まる問題ではなく、国体の根幹と悠久の神聖権威に触れる問題なのであって、それは今後の地球文明全般の未来の動向をも大きく左右し、わずかでもハンドル操作を誤るなら世界中を火の海にさせ、前代未聞の破滅をもたらしうる重大な国家責任を伴う問題であり、もはや後戻りのできない時に入りつつあるということである。
よってこの問題は、一部政治家の識見に依拠せず、国民の全体的議論を喚起することが肝要であって、まさに日本民族総和としての歴史的決算、“魂と命の覚悟”が問われている問題であることを真摯に受け止めねばならないものと思われる。
■4 日本国の特異性−その目覚めと世界の未来
では、なぜ日本が今日、このような歴史的責務を果たさなければならないような展開を迎えたのか?
なぜ日本民族には、他の国々とは違った特別な試練が与えられてきたのか?
その答えを一言で表すなら、霊的な意味において日本が世界の元国であり、親国であるからである。
古来、日(霊)の本、あるいは“黄金の国”とも呼ばれてきた所以である。
幾何学のフラクタル理論では、あらゆる宇宙現象には相似したパターンが認められるとされるが、地球上に広がる世界地図の縮図が日本ともいわれ、日本は世界の雛形国家として見本となるべき宿命を背負った国であったということもできる。たとえ艱難辛苦の道のりであろうとも、世界に先駆けて高い道義を守り通すことによってのみ、真の“岩戸開き”は実現されるであろう。
日本国民が、各々の命にかえてその決意をもつには、人類史が経験したあらゆる政体を超えた所にある日本国家というものの形而上的な深い理が理解されなければならない。天津日嗣のスメラミコトと臣民の関係は、太陽という中心の一点が定まって、初めてそれぞれの惑星が正しい運行の軌道を得るという、宇宙秩序の縮図となっている。
惑星は、太陽を意識せずとも、自然の運行において、自然に太陽の恵みを受け生かされる。しかし、この自然の秩序をおのずから乱したなら、惑星は軌道を外れ宇宙の孤児となって崩壊する他なくなる。
日本の国民が、天皇の大詔を受け賜り道義に準ずることは、当たり前な自然の軌道を守るに等しいと言えるが、これを無視することは、本来の軌道を外れ、やがては崩壊と死滅の憂き目を見ざるを得ない結果となる。日本が崩壊したなら、必然的にその拡大型である世界も破滅する結果を招く。
今日、日本国民の決意が世界を救いもするし滅亡させもする。その目覚めが必要なのである。
「武器をとる者は武器によって滅ぶ」という格言を引用するまでもなく、民主主義という政体が人類の至上の理想郷をもたらすものでないことは明白である。
世界諸国の紛争は、子供たちの兄弟喧嘩にも例えられよう。それも高じると血みどろの修羅の戦いとなる。その繰り返しが人類の歴史であった。日本民族は民主国家の一員として他にならい、我生きんと欲し同列なる子供たちの兄弟争いに参画するのであろうか? それとも、子供たちの拠り所である親国の民として、矜持と忠義に死す道をとるのであろうか? 忘れてならないのは、親国の臣民には、さらに元親たる祖父、即ち皇祖皇宗があって生かされてきたのであって、それらの関係性の中に、実に人類史に秘められてきたシナリオが存在するのだということである。
力に対し力、モノに対しモノという次元では、争いは決して収束せず解決を見ないのである。
そして、これらの認識なくして、人類史終末の“岩戸開き”はあり得ず、新たな大同世界が開かれることもないということ。その目覚めと決断が、今まさに日本国民に問われているということである。
<注釈:昭和天皇が平和憲法9条の原点ー発想者たり得る証拠資料>
●〔勅語 昭和21年3月6日〕
昨5日、内閣総理大臣を宮中に召され、左の勅語を下賜せられたり
『朕さきにポツダム宣言を受諾せるに伴い、日本国政治の最終の形態は、日本国民の自由に表明したる意思により決定せらるべきものなるに顧み、日本国民が正義の自覚によりて、平和の生活を享有し、文化の向上を希求し、進んで戦争を放棄して、誼を万邦に修むるの決意なるを想い、すなわち国民の総意を基調とし、人格の基本的権利を尊重するの主義に則り、憲法に根本的の改正を加え、もって国家再建の礎を定めんことをこい願う。政府当局、それよく朕の意を体し、必ずこの目的を達成せんことを期せよ』
この勅語の下賜は、日本政府とGHQの激論の末、新憲法の『最終草案要綱』が完成した前日にあたる。
●〔国運振興の勅語 一部抜粋 昭和21年1月1日〕
この人間宣言で有名な年頭の詔書には、平和主義に徹すべきことが繰り返し強調されている。
『・・・朕はここに誓いを新たにして国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民拳げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。
大小都市の被りたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等はまことに心を痛ましむるものあり。然りといえども、我国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。それ家を愛する心と国を愛する心とは我国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの秋(=時)なり・・・』
新憲法成立の経緯に関しては、日米双方の代表者が自身の回想記や自伝で詳述している。
●〔マッカーサー回想記 昭和39年 朝日新聞社〕
『昭和21年1月24日正午、幣原喜重郎首相はマッカーサーの事務所を訪れて会談した。幣原は「新しい憲法にはいわゆる非戦条項を含めることを提案したく、日本にいかなる軍事機構をも禁ずるようなものにしたい」と語り始めた。「そうすれば、旧軍部は再び権力を握る手段を奪われ、世界は日本が再び戦争を行う意思を決して持たないことを知る。日本は貧乏な国で軍備に金を注ぎ込む余裕はない。残されている資源はすべて、経済を活性化させるのに使うべきだと思う」と述べた。
元帥は息も止まるほど驚いた。長年「戦争は諸国間の紛争を解決する手段として時代遅れである」と元帥自身感じていた。6つの戦争に参加し、何百という戦場で戦ってきた元帥は「私の戦争への嫌悪感は原子爆弾の完成で最高潮に達していた」と語ると、今度は幣原が驚く番だった。彼は涙を流しながら、「世界は私達を、非現実的な夢想家としてあざけり笑うでしょうが、百年後には預言者と呼ばれることでしょう」と語った』
●〔幣原喜重郎自伝「外交50年」 昭和26年 読売新聞社〕
『あの憲法の中に、未来永劫戦争をしないように政治のやり方を変えた。戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹する見えざる力が私の頭を支配した。よくアメリカ人が日本へやってきて、新憲法は、日本人の意思に反して、総司令部から迫られたのではないかと聞かれるが、私に関する限りそうではない。誰からも強いられたものではない』
*以上、憲法前文及び9条に謳われる戦争放棄と平和主義の遵守は、日本国の特異な立場を背景に、その必要性を痛感する日米両代表の奇しき出会いによって実現した、人類の至宝ともいうべき貴重なものであることが推察される。しかしながら、この成立経緯を、当の日本でもいまだに多くの人々が知らないままである。むしろ、これは日本の牙を抜くために押しつけられた現実性の伴わない理想論に過ぎないもので、独立国家にふさわしい憲法に改変しなくてはならないという風潮が拡大しつつある。
この一文は、旧来の認識で突き進もうとする昨今の政党政治の指針と、諸外国へも影響し得る国の未来目標を抜本的に見直すための参考資料としてまとめたものである。 以上
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