12. 中川隆 2012年9月14日 23:02:49
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狂気の裁判員裁判 裁判員裁判を貶める「最悪の判決」 2012年9月号 DEEP
姉を殺したアスペルガー症候群の男性に、求刑を4年も上回るとは、どうかしている。
姉を刺殺したとして起訴された42歳の男性に対し、懲役20年を宣告した裁判員裁判の大阪地裁判決が司法や医療・福祉の関係者から「偏見に満ちている」と袋叩きにあっている。生まれつきの発達障害とされるアスペルガー症候群という事情を酌量しないばかりか、再犯のおそれが強いから長く刑務所に入れておくべきだとして検察官の求刑を4年も上回ったからだ。 始まって3年が過ぎた裁判員裁判で「最悪」(司法関係者)と評されるが、裁判官だけの裁判より量刑の幅が広がっている裁判員裁判の現状を知るいい機会なのかもしれない。 偏見強い裁判員が主導?
大阪地裁の判決が言い渡されたのは7月30日。小学5年から不登校となった男性は、引きこもりを姉のせいと思い込み、恨みを募らせた末、昨年7月、自宅を訪れた姉を包丁で多数回刺し、殺害したとされる。 最も批判されているのは次の部分だ。 「健全な社会常識という観点からは、いかに病気の影響があるとはいえ、十分な反省のないまま社会に復帰すれば、被告人の意に沿わない者に対して同様の犯行におよぶことが心配される。被告人の母や次姉が同居を断り、社会内でアスペルガー症候群に対応できる受け皿は何ら用意されておらず、許される限り長期間刑務所に収容することが社会秩序の維持にも資する」 翌日の各紙朝刊で、まず兵庫県自閉症協会の会長は 「再犯の恐れがあるとの根拠を障害に求めるのは納得できず、障害を持つ人が事件を起こしやすいかのような偏見を持たれるのではないか」 と憤慨したコメント。また判決は「受け皿」はないとしているが、実は、発達障害者支援法が2005年に施行され、各都道府県には支援センターが開設されている。刑務所や少年院から出た障害者の社会復帰を助けるための地域生活定着支援センターも各地にあり、支援団体の「共生社会を創る愛の基金」は「受け皿を各地で拡充する取り組みは進んでいる。隔離の論理だけが罷り通っている」と非難した。 大阪弁護士会の会長も声明で 「(発達障害は)本人の責めに帰すべきことではなく、刑法の責任主義に反する」 と指摘。責任主義は、ある人が罪を犯し、正当防衛などの事情もないが、その人を道義的に非難できなければ刑罰は科さないという考え方で、刑法は14歳未満と精神障害による心神喪失者の責任能力を否定し、罰しないと定めている。責任能力を一部欠く心神耗弱は刑が減軽される。在阪の弁護士は 「発達障害の場合、刑の減軽が検討されるべきなのに重くするとは、法に基づかない判決だ」 と会長声明を解説し、呆れ返る。朝日新聞は8月4日朝刊の社説で「前提を誤った判決は控訴審で是正してもらいたい」と主張した。 問題のアスペルガー症候群とは、生来の脳機能障害から対人関係が苦手で、限られた人や活動に執着するとされている。記憶力など際立った能力を発揮する人がいる一方で、対人関係の障害や高じた執着心から、事件を起こすケースも少なくない。 たとえば、 京都府宇治市の学習塾で小6女児が殺害された事件(05年)や 奈良県田原本町の母子3人放火殺人(06年)、 岡山駅で男性がホームから突き落とされて死亡した事件(08年) などの加害者はアスペルガー症候群と認定され、裁判で一定程度は酌量されてきた。09年から裁判員裁判が始まったが、東京、山口、岐阜地裁などでアスペルガー症候群の被告人は同様に裁かれ、大阪地裁のような判断は示されていない。 「大阪地裁の裁判員6人の中に障害者への偏見が強く、しかも評議で声の大きい人がいたのだろう。判決は裁判官1人以上を含む過半数で決まるから、裁判官3人のうち最低1人は抗しきれなかったではないか」 とベテランの司法記者はみる。河原俊也裁判長は家裁や最高裁家庭局で少年事件を担当したことがあり 「発達障害には詳しいはず。同種事件の判決がベースの求刑をほとんど無視する判断には与しないだろう」 (元裁判官)という見方もある。とはいえ、裁判員裁判で求刑を超える判決は26件(7月20日現在)もあり、判決は求刑の八掛けが相場とされてきた裁判官の裁判と状況は異なっている。 気の弱い裁判官も問題
主な求刑超え判決を表にまとめたが、大阪地裁では、傷害致死事件で殺人罪並みの懲役15年の判決も出ている。 これは1歳8カ月の娘を虐待死させた両親に対するもので、裁判員は判決後の記者会見で「個人的には殺人罪より重いと考えた」と打ち明けた。 大阪地裁では、少女2人に覚醒剤を外国から密輸させた男性も求刑より3年重い判決だった。 東京地裁の殺人は再犯者なのに求刑が軽すぎるとして、強盗致傷では、共犯者より年少なので求刑は軽かったが、共犯者と同じ刑が宣告された。 さいたま、宇都宮、徳島地裁と静岡地裁沼津支部は性犯罪。 裁判員は会見で「これまで刑が軽すぎた」と口々に述べている。 「性犯罪は厳罰化し、求刑も次第に重くなっている。ただ強姦致傷は被害者にけがをさせたものの、途中で逃げて強姦が未遂でも成立する。こうしたケースは、裁判官だけだと酌量してくれたが、裁判員裁判では、精神的被害は同じとして既遂に近い刑になるのはおかしい」 と前出の弁護士。 残る沼津の危険運転致死は、知人のバイクを車で追走し、あおり立てて知人を事故死させたケース。求刑を2年上回る判決では、あおり行為の危険性が強調され、車の同乗者に口止めしていたことが非難された。 反対に求刑を大幅に下回る判決もある。病気の子供を救うために覚醒剤を密輸したと認定された被告人は求刑の半分の懲役6年(千葉地裁)。家庭内で暴力を振るう長男を殺害した男性は懲役13年を求刑されたが、懲役5年(佐賀地裁)にとどまり、裁判員は「自分に置き換えて考えた」と感想を語った。 「量刑の幅が広がることは予想していたし、それ自体はいいことだ。しかし偏見による判決や殺人と傷害致死の区別がつかないような判決は信頼を損なう。気の弱い裁判官が与して、今後も続くようだと、裁判員は有罪か無罪かだけを判断し、量刑は裁判官という意見も出てくるだろう」 と前出の元裁判官は警告している。 http://facta.co.jp/article/201209006.html http://facta.co.jp/article/201209006002.html 法に則ったリンチと化した裁判員裁判 2011/7/21(木)
無期懲役の判決となるのは、100%確実だった。 しかし、この判決は決して裁判員によって出されたものではない。 主に商業マスコミの扇動により作り上げられた世論(のようなもの)が、極刑やむなしの空気を作り上げ、それに基づいて裁判員が判断したにすぎない。 それにしても、例えば「逃亡期間が長かったから反省してない」などという与太が罷り通るようでは、この国の司法も末期症状を呈しており、裁判などやるだけムダ。時間と費用の浪費である。 前に述べたように、理解不能の最高裁判決に象徴される、司法の機能不全は、そもそもなんのための法であったのかという原点を忘れ去り、金と力を持つ者 のための道具となり果てた。 裁判員裁判は、ちゃんとお前たち庶民に決めさせてるじゃねえかという体裁のために、ドシロウトに専門的な仕事をさせるという暴挙であり、その当然の帰結としての厳罰化は、結果的に金と力を持つ者を利することにしかならない。 庶民が庶民を痛めつけるの図を、高みの見物することほどの楽しみもなかろう。 世の人々は納得の上で、少しずつ自分で自分の首を絞め続けている。これについて、心ある人々、ジャーナリストにしろ有識者にしろが、沈黙を守っているのは、一体なぜなのだろうか。 法治国家の崩壊は、即ち民主主義の自殺である。 http://blogs.yahoo.co.jp/r21if36z/64991618.html 裁判員制度は市民に唯一合法的殺人を認めてやる制度だと思う
6/30、千葉地裁は千葉大女子学生殺害で死刑判決を出しました。これで裁判員裁判による死刑は8件目となりました。 かつて「裁判員制度は死刑を減らすのではないか」という淡い期待がおもに裁判員制度を推進する弁護士側から主張されました。 しかし、市井の人間が死刑判決を躊躇し、死刑が減る、というのは幻想にすぎないことがどんどん実証されてきています。 猪野亨弁護士が次のようなエントリーを書いていらっしゃいます。 ますます自信を持つ裁判員? http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-348.html 2011/06/24(金) 18:49:57
横浜地裁は、2011年6月17日、津田寿美年被告に対し、死刑判決を下しましたが、判決後に語っている裁判員たちの感想が異様に感じます。 前回、横浜地裁で死刑判決が下されたとき、裁判長は、控訴を勧めていました。その後の裁判員の感想も同様でした。 しかし、今回の感想は、神奈川新聞2011年6月18日配信によると、 「会見に出た6人のうち、5人が「控訴しないでほしい」と語った。」 とあります。 前回の死刑判決とは、180度の違いです。 この自信は、どこから来るのでしょうか。 しかも、その理由は、「罪と向き合う」だそうです。 しかし、手続きとしては控訴は当然の手続きであり、権利保障です。それが罪と向き合うと何故、重要な控訴権を行使するな、ということになるのでしょうか。そこにある発想は、適正手続きとは全く無縁です。犯罪を犯した以上、何をされても文句を言うなというものであって、このような発想の人たちに裁かれること自体が問題といえます。 ますます自信を深める裁判員 松戸女子大生殺害死刑判決 http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-353.html
2011年6月30日、松戸女子大生殺害事件で、千葉地裁は、死刑判決を下しました。 ここで問題となっているのは、いわゆる「永山基準」です。 被害者の数も考慮すべき事情とされ、被害者が1人の場合には、死刑回避の根拠にもなることもありました。 さて、そのような中で、裁判員、補充裁判員の感想が報道されています。 産経新聞2011年6月30日配信 判決に裁判員ら「自分たちの意見反映された」 毎日新聞2011年7月1日配信 検証・松戸女子大生殺害判決 上 「裁判員を務めた女性は 「他の死刑判例とは殺害された人数が1人のみと異なるが、事件の残忍性などを見ると同じように比べることはできない」 と述べた。永山基準については「指標としては揺るぎない柱」としながらも、 「(項目の)一つ一つに事件内容を当てはめて判断する必要はないのでは」 とした。」(産経) 要は、「感覚」の判断なのでしょうね。一体、何を検討したのかというよりも、全体の印象で決めてしまったという感があります。 また別の補充裁判員の感想は、 「補充裁判員の男性も 「死刑を判断する事案については(永山基準に)こだわることはないと思う」 との考えを示した。」(産経) 「裁判員経験者と補充裁判員経験者計3人が記者会見に応じ、永山基準が死刑判断に影響しなかったことを明かした。3人は「基準にはこだわらなかった」と口をそろえ、補充裁判員を務めた男性は「それぞれの判断で決めていくのがいいと思う」と述べた。」(毎日) だそうですが、要は基準ではなく、自分の感覚だと言ってはばからないということです。 基準などあってないようなもの、という次元以前に基準すら要らないということでは、本当に公正な裁判が実現できるのでしょうか。 さらに死刑判決については、 「裁判員を務めた男性は「本当にこれでよかったのか疑問が残る」と戸惑いを口にする一方、裁判員を務めた女性は「評議を重ねた結果で結論に悔いはない」と言い切った。」(毎日) 最初に裁判員裁判で死刑判決が下されたときは、控訴して欲しい、悩むという感想だったものが、先日の横浜地裁での死刑判決では、控訴するなとまで言い、そして、今回もまた、悔いはないと言い切ったということで、ますます裁判員裁判における死刑判決が常態化しています。 今回の事件でも記者会見に応じたのが、3人だったということもあり、非常な自信家だけが応じたのかもしれませんが、全体の状況としては遠からずだと思われます。 そういう人ばかりが、裁判員として選任されていくのではないかという危惧感も拭えません。 そのような評議の中に身を置いてしまったとき、堂々と死刑には反対であると言える雰囲気はもはや残っていないでしょう。上記裁判員の感想からは、そのような雰囲気が強く伝わってきます。まともな感覚があれば、このような中に身をおけず、裁判員となることを拒否するでしょうし、それが裁判員をやりたくない国民が8割という数字に現れているのだと思います。 ところで、産経新聞は、以下のように主張しています。 2011年7月1日配信 「千葉大生殺害死刑「永山基準」を再考したい」 「個々の事件にはそれぞれの事情があり、軽々に比較することはできない。しかし、1人殺害での死刑判断が2例目であることや、昨年11月には仙台地裁で2人を殺害した犯行時18歳の少年に死刑を言い渡したことなどを照らし合わせると、国民は残虐非道な事件に対し、厳罰を支持する傾向にあることは疑いようがない。」 一部の自信家の裁判員の判断が全体を支配していく風潮を作り出す、煽るマスコミ、8割の国民が裁判員になりたくないという声には一切、耳を傾けない。 裁判員制度がファシズム思想に基づく制度たる由縁です 「犯罪を犯した以上、何をされても文句を言うな」 「控訴するな」 「死刑を判断する時、一定の客観的な基準に基づく必要はない」
という、犯人憎しの感情に裁判が支配されることを正式に許すようでは、とても十分な審議を尽くした「公正な裁判」とは言えないし、およそ適正手続きが保障されているとはません。被告人には「公正な裁判を受ける権利」がありますが、裁判員裁判はそれを侵害するおそれがあると警鐘を鳴らされてきました。その懸念が現実化してきているとひしひし感じます。 そもそも司法改革とは適正手続保障の強化を指すものでなければなりません。司法改革の一環である裁判員制度だってそれが目的とされねばならないはずです。 しかし裁判員制度は適正手続保障の理念を裁判にも市民にも浸透させるどころかその逆であることが実証されてしまいました。どこが司法の「改革」なのでしょうか。司法の退行ではありませんか。 死刑判決とは唯一の合法的殺人です。かつてその合法的殺人は以前は司法という国家権力の特権でした。どんなことがあっても市井の人間が殺人が合法とされることはありませんでした。 しかし、裁判員制度によって一般市民もその特権を行使できる機会が与えられるようになりました。それが裁判員制度です。 凶悪犯罪者に対し合法的に殺人を宣告できるのは、一種「蜜の味」です。 この味を覚えることは、 「そんなやつは殺してしまえばいい。直ちに抹殺しろ!」 という風潮の強化、死刑制度の更なる強い支持に必ずフィードバックされるに違いありません。 次の猪野弁護士のエントリーもお読みください。
翼賛市民団体の企画 2011/06/19(日) 10:16:57 http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-344.html
朝日新聞2011年6月17日配信 「裁判員候補者になった人らでつくる大阪の市民団体「裁判への市民参加を進める会(裁判員ACT)」が、神戸市長田区のコミュニティーラジオ局「FMわぃわぃ」(77・8メガヘルツ)で、裁判員を務める意義や制度の課題などを発信する番組「裁判員さしすせそ」を始めた。」 「初回の5月7日には、日本弁護士連合会裁判員本部事務局次長の西村健(たけし)弁護士(52)=大阪弁護士会=が出演。川畑さんが 「裁判官が市民感覚を取り入れて裁判をすれば、市民参加の必要はないと思うのですが」 と問いかけると、西村弁護士は 「私たち自身が、私たちの社会の治安について判断することが大切です」 などと答えていた。」 日弁連の裁判員本部事務局次長の発言が極めつけです。治安維持のための制度だという裁判員制度の本質を見事なまでに語ってくれました。 そうです。裁判員制度は、「市民感覚の反映」とかいうことではなく、司法権の行使の中に国民を組み込むための制度なのです。 ましてや、一部の「左翼」弁護士や「左翼」学者が言っているような「冤罪防止」のための制度ではありません。 それを日弁連の裁判員本部事務局次長が本質を語ってくれたのです。 治安維持のための国民動員。 提灯持ちに成り下がった人たちに惑わされてはいけません 「統治主体意識」というやつですね。これが在野であるはずの弁護士(西村弁護士の方です)の口から語られるとは残念です。 (以前「現代思想10月号より、裁判員制度を考えるー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」というシリーズ1〜6まで書いたことがあります。統治主体意識についてはそこをお読みください。カテゴリー「裁判員制度」の中に入っています。)
ぽむさんから的確なコメントを頂いたことがありますので、最後にご紹介しましょう。 (裁判員制度は)市民による市民の監視ですね。圧倒的な死刑制度支持、人権意識の低さを考えればこういう結果になることは自明の理でした。EU加入の条件が死刑制度廃止ということも知らない人がほとんどでしょう。正規軍より民兵のほうが残忍であったりするように、こんな社会ではプロの裁判員より一般市民のくだす判決のほうが苛酷になるということです。 村野瀬玲奈さんも裁判員裁判の死刑判決について書かれていらっしゃいました。 説得力のある内容ですので、お持ち帰りさせていただきます。
裁判員制度によって制約されそうな『裁判を受ける権利』
人三人を殺害したわけですから(※私註:横浜地裁の死刑判決の方です)、重罰に値する重大な結果であることに間違いはなく、遺族の方々の心痛を想像して心が痛みます。 しかし、裁判を受ける権利は誰にでもあるはずであり、それは憲法にも明記されています。控訴や上告による上訴審は、罪状をめぐって新たな検証をする機会でもあるはずです。重罰、特に死刑判決が視野に入る裁判であればなおさらのこと、法の支配を旨とする民主国家では上級審によってさらにていねいな審判を尽くし、少しでも緻密な裁きをしていくことが必要なはずだと思います。 そもそも、死刑というのは特別な刑罰です。とにかく死刑にすればよいという性質の刑罰ではないと思います。また、現実に死刑廃止国は増加しており、死刑存置国でも実際に死刑を執行した国は必ずしも多くないという世界の趨勢からしても、執行されないにこしたことはない刑罰です。ですから、死刑が視野にはいる裁判では審理は慎重であるべきである、といっても問題はないはずなのです。 しかし、この裁判に参加した裁判員のうち5名があえて「控訴しないでほしい」と記者会見で述べました。人が特定の事件についてそのような気持ちを持つことを止めることはできませんし、私的な場でそのようなことを述べることは各人の自由です。しかし、判決後の記者会見でそのような発言をすることは裁判を受ける権利の否定につながるのではないでしょうか。 判決後、職業裁判官は記者会見で判決についてあれこれ述べることはしないだけに、裁判員のこのような意思表明は被告弁護側への圧力となり、憲法上も人権原則上も確立しているはずの裁判を受ける権利を徐々に弱めていくと思われます。 「遺族の心痛があるから被告は控訴するな、死んで詫びよ」 というのは気持ちとしては理解できます。しかし、裁判後の記者会見で 「控訴しないでほしい」 と発言するのには違和感を持ちます。「早く死ね」と被告に言うに等しい内容だからです。 なお、誤解しないでいただきたいですが、ここではそのような遺族の心痛が正しいかどうかの話をしているのではありません。そのような遺族の心痛は自然なことであって、正しいも間違っているもありません。ここでの話は裁判の手続きについてです。 で、もし、そういう遺族の「心痛」の前に「裁判を受ける権利」や法的な手続きを否定しなければならないのであれば、そして、それを日本人が正しいと考えるのであれば、いっそ 「純粋な過失であれ意図的であれ人を死に至らしめた者は殺した人数や状況にかかわりなく全員死刑に処することによって遺族感情の慰撫をはかる」 と刑法を改正すべきだ、ということになるのではないでしょうか。遺族感情と制度を一直線に結びつけるというのはそういうことなのですが、はたしてそれでいいのでしょうか? その問いへの私の「気持ち」をごく簡単に書くなら、「遺族の心痛」と「法的手続き」は混ぜるべきではなく、遺族感情の慰撫や遺族へのいろいろな支援は犯人を死刑にすること以外のあらゆる方法で行うべきであるということです。 この報道を見て、裁判員制度の帰結や日本の法意識の行く先に危ういものを感じてしまいました。 (中略) (略)裁判を受ける権利を否定する方向で裁判員制度が動き始めたように感じました。 そのことをとても残念に思います。なぜなら、「裁判を受ける権利」を否定してはならないからです。 それと同時に、被害者遺族の支援とは犯人を死刑にすることであると単純に考える風潮も強まるという危惧を持ちます。日本は死刑を廃止している多くの国よりも犯罪発生率は少ないのに死刑を維持し、死刑判決や死刑執行を増やし続けることになると思われます。それは犯罪予防への取り組みを減らすことにもつながってしまいそうで、心配です。 被害者遺族感情の慰撫や被害者遺族へのいろいろな支援は、犯人を死刑にすること以外のあらゆる方法で行うべきだと私はもう一度言いたいと思います。 http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-726.html
裁判員制度はアメリカの要求
郵政民営化のときは、批判や反対があったのに、共産党、社民党を含め国会は全会一致、司法権力も協力、日弁連翼賛、メディアも一切批判しない裁判員制度や法曹人口の拡大。 実はこれは、郵政民営化と同じように、アメリカの年次改革要望書によるものであった。 アメリカは一体なにを狙うのか。 裁判への国民参加などと喜んでいて良いのか。 アメリカの法曹関係者が、アドバイスと称して我が国の検察庁、裁判所、弁護士会に多数訪れている。司法が米営化される懸念はないのか。 _______
米国にとって日本は「実験場」なのですよ。 「核実験」の結果も追跡してるし、「財閥解体」「長男の相続の破棄」に始まって。 「群集心理」に弱い私たちをテストしてます。 米国内でも原住民の居留地で核実験を繰り返して、癌等の発生率を「データ」にしているのですから。 中近東も同じ目にあっています。 アポロが(本当か嘘か知らないけど)月に降り立った時に「世界中は喜んだ」と思うのは「世間知らず」! 中近東では「悪魔が聖地を土足で踏みにじった!」との認識だと聞いたことがあります。 陪審員ならぬ裁判員もその一環。 安保条約に従って魚釣島の件で中国に対抗した場合にどうなるか?も実験です。 核ミサイルが飛んでくるのは米国でなく日本だから高みの見物です。 北朝鮮のケースも同じ、、 因果な国に生まれたと諦める他仕方が無いでしょう。 no.57 ( 記入なし 10/11/03 21:33 ) --------------------------------------------------------------------------------
米国にとって日本は「実験場」なのですよ。no.57 ( 記入なし 確かにその傾向があります。今度のロシア・中国の問題も、水面下でアメリカの工作があったかもしれません。なぜならグアム移転費用の増額・思いやり予算増額・沖縄基地問題すべてに難色を示している日本への圧力と思われます。これで日本がすべてにおいてokと言わざるを得ないでしょう! 戦後の児童に対するミルク(脱脂粉乳)パンは、コメ文化の日本が将来アメリカの小麦を買い付けるのが目的であったと聞きます。彼らは何十年先を読んで行動します。 no.58 ( 記入なし 10/11/05 11:05 ) http://musyoku.com/bbs/view/1200299363/ アメリカ裁判事情 (2004.09.02 Thursday) ●アメリカの裁判制度:陪審員
アメリカは訴訟大国と呼ばれており、日本では信じられないような裁判がたくさん起きたり、そればかりかムチャクチャな裁判で勝訴をして多額の賠償金を取っている場合もあります。何でヘンな裁判が起こって、なおかつ勝訴するかは色々理由があるのですが、理由の一つとして、アメリカが陪審員制なため、企業に不利で一般人に有利な判決が出やすいというのもあるでしょう。 日本ではアメリカの陪審員制度を改良した裁判員制度という新たな司法が検討されています。この裁判員制度は、アメリカの陪審員が日本から見たら受け入れがたいものであるために、反発もかなり多いようです。 ▼マクドナルドとコーヒー
アメリカの変てこな裁判として有名なのが「マクドナルドのコーヒー訴訟」です。 大雑把に説明すると、アメリカのドライブスルーでマクドナルドのコーヒーを購入した(当時)79歳のステラという老婆が、マクドナルドのコーヒーを膝にこぼして火傷を負ってしまい、それを「コーヒーが熱すぎたから」と訴えたのが始まりです。 裁判は紆余曲折がありましたが、陪審員はマクドナルドに対して約300万ドルもの賠償金の支払いを命じました。 これは、アメリカがおかしな訴訟大国であることを日本人に知らしめるための事例として広まりましたが、より悪質であることを強調したいがために、一般に流通する話は実際の裁判内容と剥離したものに変質しています。 まず、この火傷は8日間の入院をして、傷の面を切除し皮膚移植をしたうえで、傷や運動障害を回復するまでに2年間の治療が必要だったほどひどいものだったということ。 また、この裁判の賠償金はかなりの高額になりましたが、それはアメリカの司法判断がおかしいわけではなく、上記のように火傷が酷かったのに加え、マクドナルドが悪質だと判断されたというのが大きな理由として挙げられます。 当時のマクドナルドのコーヒーは通常よりもかなり熱く、80度以上のものでした。この熱さのお湯を2〜7秒受けただけで3度の火傷(半永久的に外観的な損傷が残る重大な火傷)を負ってしまいます。 さらに、マクドナルドは700件の同様のクレームと、従業員の間でも火傷をしたという事例があるにも関わらず、特に対策も立てずに放置していました。 そして賠償金に関しても、火傷自体の賠償金は20万ドルで、そのうち20%は過失相殺ということで、実際は16万ドルだったということも語られることはほとんどないでしょう。何故なら、金額が高ければ高いほどアメリカの訴訟社会が異常だと主張が際立つからです。 さて、どうして300万ドルという数字が出てきたのかでという理由については、アメリカでは日本にはない「懲罰的損害賠償金制度」というものがあるからです。 これは、悪質な行為によって損害を受けた場合、現行の法では賠償金が低額すぎるため、損害自体の賠償金以外に、懲罰として賠償金を支払うべきだという考えから生まれました。法を守るよりも法を破る方が金がかかるということを加害者に伝え、被害者を守るために制定された法律です。 この懲罰的損害賠償制度によって270万ドルが加算され、300万ドルという判決ができました。つまり、300万ドルという金額の90%は悪質な行為のための懲罰的金額であって、火傷による賠償金ではありません。
また、これもいくらなんでも金額が大きすぎるということで最終的には48万ドルに減額されました(その後、両者で和解が行なわれたため最終的な金額は不明)。 ちなみに、「それでも金額が大きすぎる」と思う人も当然いると思いますが、懲罰的損害賠償というからには、当然懲罰に値する賠償である必要があるわけです。ですので、一般的な金額で計算はできません。 このマクドナルドのコーヒー事件は首相官邸のHPに掲載されている司法制度改革審議会でも議題としてあがり、 ただ、この金額が、ではマクドナルドにとって負担なのかというと、マクドナルドのコーヒーは年間10億カップ生産されています。それで1日で130万ドルを超える収入があるわけです。それから言いますと、この懲罰賠償というのは、マクドナルドの総売上げ2日分の制裁金を課したということですから、全体から見ると、そんなに企業がつぶれるとか、それほどの懲罰ではありません。ですから、金額だけをもって、だからけしからぬというのはいかがなものかと思っております。 第20回司法制度改革審議会議事録 という結論になっています。
▼電子レンジと猫とプードル
このマクドナルドのコーヒー裁判と同列に語られることが多いのが、「電子レンジと猫」の都市伝説です。 こちらは作り話ということが広まっていますが、アメリカが訴訟社会であるということを表す為にあっという間に広まりました。 数十年前では電子レンジではなく、オーブントースターがこの手の話の主役でした。 ロシアに住む老婆が、オーブントースターでペルシャ猫を温めようとしたところ、オーブントースターが爆発したという都市伝説がありました。 そういえば、ちょっと前にネット上で「猫は都市伝説だが、本当の事件としてプードルが電子レンジにかけられた」というのがありました。 しかし、日本で有名なのは猫の話だけですが、実はアメリカでは同様の都市伝説として、猫が「赤ん坊の頭」に変わったり、そのまんま「プードル」の話も流通しています。 多分これは、日本の都市伝説「ミミズバーガー」の中身が、猫の肉だったりカラス肉だったりカピバラだったりする話があるのと同様で、中身を変化させただけの都市伝説でしょう。 実際、アメリカで発売された「WHY PEOPLE BELIEVE WEIRD THINGS(邦題:なぜ人はニセ科学を信じるのか)」という本に、この電子レンジプードルの都市伝説が記載されています。 都市伝説やなかなか消えない噂話は、いたるところに存在している。ここに挙げた例はそのほんの一部だ。 ●ドクター・ペッパーの秘密の成分はプルーンのジュースである。
●飼っていたプードルを電子レンジで乾かそうとして殺してしまった女性がいる。 ●月面着陸はでっちあげで、ハリウッドのスタジオで撮影された。 (中略) あなたはこのうちいくつを耳にしたことがあるだろうか?しかし、ここに挙げたものはどれも事実ではないのである。 なぜ人はニセ科学を信じるのか
この二つの話の共通点は、アメリカ訴訟の異常さを語るための物語であり、そしてそれを強調するために、実話の方が都市伝説にそって歪められ伝わったという点で非常に興味深いと思います。 ▼食べ過ぎて肥満になったのは会社のせい
だからといって、アメリカにヘンな裁判がないわけではありません。2002年に「マクドナルドのハンバーガーを食べ過ぎて肥満になった。肥満になったのは企業側の説明不足だ」という集団訴訟が起こりました。 日本人がすぐに「世の中が悪くなったのは自分じゃない誰かのせいだ」と思うと同様に、アメリカ人は「自分がこうなったのは説明を怠った会社のせいだ」と考えたがります。 ハンバーガーとフレンチフライの食べ過ぎで肥満になったのは企業側の説明不足だとして、米マクドナルドの親会社を訴える集団代表訴訟が20日、ニューヨークの米連邦地裁に提起された。損害賠償額は不明。原告側の弁護士は、代表のうち1人の娘(14)が、ニューヨーク市ブロンクス地区にある2店舗に通った結果、身長146センチながら体重77キロに達する肥満体になった例を挙げ、高カロリー食品への注意を呼び掛けた同社側の警告が「目立たなかった」と、責任を追及する姿勢を示した。 これに対して、同社側の弁護士は、ハンバーガーなどを長期間にわたって食べ過ぎたら太ることは「世界中で知られている」常識だとした上で、「ある日目覚めたら、突然、太っているわけではない」と消費者側の非常識を問題視し、審理前の却下を求めた。 読売新聞2002年7月27日
14歳の娘というと世のロリコン子ども好きにヒットする大人とも子どもともつかない微妙な年齢ですが、それが77kgになればそりゃ両親は大変心配ですね。教授的には77キロになるまで放置しておいた親の頭の中身の方が大変心配ですが。 まあ、これだけならばただの笑い話なのですが、訴訟の影響で、マクドナルドでは超低カロリー・セットメニューの発売の他、ハンバーガーのスーパーサイズやフライドポテトの「特大サイズ」が廃止されることになりました。 米マクドナルドは15日、歩数計のおまけが付いた超低カロリー・セットメニューの発売や、フライドポテトの「特大サイズ」を段階的に廃止するなどの総合的な肥満対策を正式発表した。 コーラやハンバーガーの代わりにボトル水やサラダを中心にしたランチボックス「ゴー・アクティブ!」を5月6日から全米で発売するほか、栄養表示を徹底するなど「消費者教育」を一段と強化する。高カロリーのファストフードが肥満の元凶として批判が高まり、同社に対する訴訟さえ起きているため、健康志向をアピールする狙いだ。 京都新聞2004年4月16日 訴訟自体の結果はどうなったかは分からないのですが、意味不明な訴えが実際に社会に影響を与えることになったのです。 ▼ハンバーガーにまつわるアホな実験
他のハンバーガーにまつわる話として、アメリカで行なわれた大変アホな実験があります。 「一ヶ月間マクドナルドの商品を食べ続けたらどうなるのか」と疑問に持った人々が、 1:マクドナルドで買えるものだけを食べる。 2:スーパーサイズを勧められたらそれにする。 3:全ての商品を最低一回は食べる。 4:以上を一ヶ月間続ける。 5:健康状態は3人の医師によってチェックされる。 というルールで暮らしてみるという実験を思い立ち、本当に実行に移しました。
この実験を始めてから一週間で、実験者は食べたハンバーガーを受け付けなくなり、鬱や健康不振に悩まされ、それでも頑張って一ヶ月を経過させたところ、肝臓がボロボロになりコレステロールは悪化して、顔には斑点までできました。 この実験は「Super Size Me」というタイトルでドキュメンタリー映画として作品化され、映画祭では「肥満が個人と社会に与える影響に警鐘を鳴らす社会派映画」と絶賛されドキュメンタリー映画賞を得たそうです。 教授はこの実験を聞いて、真っ先に「ジハイドロジェン・モノキサイドの恐怖」と「買ってはいけない」のエピソードを思い出しました。 日本でベストセラーとなった「買ってはいけない」という本には、「桃の天然水を毎日一本飲めば体の健康を害する」と書き、だから「おすすめできない」と結論をつけています。 しかし、毎日砂糖の含まれた清涼飲料水を飲み続ければ健康を害するのは当然のことです。 ハンバーガーも同様です。確かにハンバーガーは栄養成分的にあまり優れているものではありませんが、どんな食品であっても一ヶ月間も似たような食品を食べ続ければ健康を害するのは当たり前なわけで、どのへんが社会派でどのへんが社会に警鐘を鳴らしているのかさっぱり分かりません。 日本の主食である米ならば、どうでしょうか。一ヶ月間米だけで過ごせば栄養失調を起こすので、米を食べてはいけません。一ヶ月間水だけで過ごすと体は痩せ細り、大量摂取すれば水中毒も起こすので水を飲んではいけません。一ヶ月間、パンだけで過ごせば・・・。 この理屈だとこの世の全ての食品が有害になるというだけの話であり、ハンバーガーだけが特別視される理由はどこにもありません。こんなアホな映画が絶賛されるアメリカって一体。 「ジハイドロジェン・モノキサイド恐怖」とは、アメリカで14歳の少年が講演を行い、50人の大人たちにジハイドロジェン・モノキサイドという化学物質の性質について、 1:異常な発汗や嘔吐の原因となる。 2:酸性雨の主成分である。 3:気体の状態では強烈な爆発を起こす。 4:吸入すると死ぬことがある。 5:腐食を促進する。 6:大量に摂取すると死亡する。
と説明し、この化学物質の使用禁止に賛成か反対か回答を求めたところ大多数が賛成し他は回答を保留。この化学物質が「水」だということに気づいた人はほとんどいませんでした。
ジハイドロジェン・モノキサイドも映画「Super Size Me」も、アメリカ国民がいかに騙されやすいアホかということを暴いた点で、良質の社会派作品であると言えるでしょう。
http://psychology.jugem.cc/?eid=54 Heavens Fall(未)
公開:2006 監督:Terry Green 地域:アラバマ州 出演:Timothy Hutton、David Strathairn、Leelee Sobieski、Bill Sage、B.J. Brittほか 【Part 1】 これは1931に起きた'Scottsboro Boys'として知られる事件の裁判を、かなり事実に即して描いた物語です。
ジョージア州からアラバマ州を経てテネシー州に向う貨物列車で旅するルンペンや渡り労働者たちに混じっていた二人の若い白人女性が、九人の黒人青年たち(年齢12〜19歳)にレイプされたと申し立て、九人の黒人青年たちはアラバマ州Scottsboro(スコッツボロ)で逮捕され、白人ばかりの陪審員たちによるスピード裁判によって死刑を宣告されました。 州最高裁は第一審においては被告の人権が損なわれていたとし、再審理を命じました。この映画はその第二審を描いたものです。 当サイトでは、登場人物のイメージを掴みやすくするため、通常は一貫して俳優の名前で物語を説明するのですが、実話であるこの映画に関しては俳優の名前は最初だけにし、後は実際の人物の名前で通すことにします。
冒頭、貨物列車の無蓋車に乗っている白人女性二人と白人・黒人のルンペンたちの喧嘩や地元民に取り押さえられる黒人青年たちの映像が、目まぐるしいまでの編集で紹介される。 1933年。Timothy Hutton(ティモシー・ハットン)演ずるニューヨークの弁護士Samuel Leibowitz(サミュエル・リーボヴィッツ)は、殺人事件を担当して必ず勝利している有能な人物。彼のところへ全米共産党の一部門である国際労働者弁護組織がやって来て、 「アラバマ州の'Scottsboro Boys'事件では、陪審員たちがたった20分で九人の青年たちに死刑を宣告した。とんでもない話だ。金は払えないが、是非弁護してくれ」 と頼む。弁護士Samuel Leibowitzはアラバマ州入りし、国際労働者弁護組織の弁護士と共に調査を開始する。 二審の陪審員選任の前に、Samuel Leibowitzは、David Strathairn(デイヴィッド・ストラザーン)演ずる裁判長James Horton(ジェイムズ・ホートン)に、裁判が行われる郡の陪審員選任委員会代表への質問を要請し、了承を得る。Samuel Leibowitzは 「なぜ陪審員候補者名簿に一人も黒人がいないのか?」 と問い、 「黒人は正しい判断が出来ないからだ」 という答えを得る。彼は続いて 「黒人の聖職者、助祭、教師などもそうか?」 と聞き、 「黒人にもいい教育を受けたものは多い」 と云わせる。 「しかし、この名簿に黒人の名はない?」 「その通り」。 彼のポイントは、全米にアラバマ州の陪審員制度が人種的に偏ったものであることを示すことだった。
しかし、州検事とSamuel Leibowitzによる陪審員選任の結果は、全て白人男性となってしまう。弁護側には苦しい闘いである。黒人青年たち九人の容疑は個別に審理されることになっており、先ず最初はHaywood Patterson(ヘイウッド・パタースン)の裁判である。 検事側の最初の証人Leelee Sobieski(リーリー・ソビエスキ)演ずるVictoria Price(ヴィクトリア・プライス)は、テネシー州生まれ。彼女は女友達一人と顔馴染みの青年らと共に貨物列車に乗っていて、アラバマ州からテネシー州に向う途中だった。彼女は「九人の黒人にレイプされ、その一人はHaywood Pattersonだ」と証言する。反対尋問に立ったSamuel Leibowitzは、Victoria Priceが姦通の容疑で州内で告訴された記録を提出し、彼女の顔馴染みの青年とは刑務所で知り合った事実を暴露する(証人の人格不適格を示唆)。
喫茶店軒雑貨屋で偶然裁判長James Hortonと出会った弁護士Samuel Leibowitzは、「なぜこの事件を担当する気になったのか?」と尋ねる。裁判長は「真実を知り、正義を貫くためだ」と答える。 次の検事側の証人は、事件の後Victoria Priceの身体を診察した医師であった。検事は
「九人の男性が彼女を性的に陵辱した可能性はあるか?」 と聞き、医師は 「可能性はある」 と答える。Samuel Leibowitzは反対尋問で、 「精子は何時間生き続けるのか?」 と聞き、 「24時間である」 「あなたは当日顕微鏡で調べたのか?」 「イエス」 「精子は生きていた?」 「ノー」 「死んでいた?」 「イエス」 「では、何人の男の精子か、いつ性交が行なわれたのかも云えないのでは?」 「その通り」 弁護側の証人の一人目は、Victoria Priceが貨物列車で同乗していた白人青年。彼は黒人たちが白人女性二人をレイプした事実はないと証言する。
弁護士Samuel Leibowitzと、Bill Sage(ビル・セイジ)演ずる検事Thomas Knight, Jr.(トーマス・ナイト二世)は同じホテルに泊まっていた。南部で生まれ育った検事は 「われわれには親代々教育された黒人観がある。北部の人間には分るまい」 と云い、弁護士は「私はリンカーンのゲティスバーグ宣言を11歳で暗唱し、その意味を考えた」と語る。 ある夜、町の住民多数が銃を持って被告Haywood Pattersonをリンチにかけようと押し掛ける。検事Thomas Knight, Jr.は
「リンチではなく法律で被告を処刑するのだ。リンチで片をつけるのであれば、検事も判事も法廷も要らないではないか。必要なのは、銃と棍棒とロープと縛り首の木だけということになってしまう。われわれに任せて、帰ってくれ」 と説得する。 弁護側の最後の証人が現われた時、法廷はどよめき、検事はショックを受ける。その証人はVictoria Priceの女友達で、一審でVictoria Priceと一緒にレイプされたと証言した女性だった。その彼女が弁護側の証人とはどういうことか…。 実話の映画化というものは、勝手にストーリィをでっち上げるわけに行かないので、得てして単調になりがちなものです。この映画は法廷でのやり取りも興味深い上に、主役の弁護士だけでなく裁判長と検事の個性もきちんと描いていて、結構味わい深く仕上がっています。検事も素直に弁護士の力量を認め、敬意を表します。弁護士が被告を証言台に上げると、裁判長は折り畳み椅子を持って被告の顔が見える位置に座ったりします。こんな場面はかつて観たことがありません。
弁護士を演じるTimothy Huttonは、この映画の製作総指揮の一人でもあります。David Strathairnは、誠実で良心的な判事(裁判長)という儲け役を滋味豊かに演じています。検事役Bill Sageも、南部の男でありながら法を守り、正義を貫き、弁護士Samuel Leibowitzに一目置くという、これも儲け役を過不足無く演じています。検事側の証人Leelee Sobieskiは、一見Helen Hunt(ヘレン・ハント)にそっくりなので驚いてしまいます。彼女はいま売れっ子で、出演映画の数も多いようです。 'To Kill a Mockingbird' 『アラバマ物語』(1962)の原作者はこの'Scottsboro Boys'事件にヒントを得たのではないか?と取り沙汰されたそうです。彼女は否定したそうですが、被告の数が異なるだけで枠組みは非常によく似ています。黒人の冤罪、リンチに押し掛ける群衆、法廷、黒人に同情する裁判長など。観ているこちらも、ついつい『アラバマ物語』と比較したくなりますが、それはちと酷というものでしょう。 原題の意味ですが、これは陪審員たちに裁判長が最後に話しかける言葉"Let justice be done though the heavens fall."(天が落ちようとも正義を貫くべし)というローマ時代の格言に由来します。彼は陪審員たちに「被告が黒人であるか白人であるかは度外視し、純粋に証拠によって判断さるべきである」と説き、最後に上の台詞を付け加えます。 (April 02, 2008) http://www2.netdoor.com/~takano/southern_film/fall.html 【Part 2】
先ず、冒頭で目まぐるしく提示される事件のイメージ(これは、後にもう一回出て来ます)について。なぜ、目にも止まらぬ速さで編集されているのか? 私の推測ですが、何が「事件」なのかは、一応観客に画面で見せなくてはならない。しかし、告発側の云う通りストレートに描いたのでは事実と思い込まれてしまう。そこで、何がどうなっているのかよく分らないほど急速にカットを刻んで、 「とにかく貨物列車に便乗している渡り者たちの間で暴力沙汰があった」 というイメージだけを出すことにしたのだと思います。よく見ると、この一連の映像の中にはレイプはおろか、女性たちと黒人たちの遭遇すら混じっていません。監督とすれば、両者の間に何もなかったと観客に思わせてしまうのも避けたかったのでしょう。何かあったのか、なかったのか、それがこのドラマの焦点なのですから。 製作総指揮も務めるTimothy Huttonが適役だったか、ちと疑問です。彼の歩き方がガニマタで妙に軽く、有名な敏腕弁護士という感じがしません。彼の台詞廻しも問題です。時々、もの凄く低い声(呟くような声)で話すので聞き取れないのです。彼とすれば一本調子じゃない芝居をしているつもりなのでしょうが、聞き取れないのでは仕方がありません。第一、法廷では速記者に聞き取れるように証人尋問を行なうべきであって、囁くような質問をしていい筈がありません。彼の芝居は妥当とは思えません。 普通なら、こういう場合、私はDVDの「字幕」をONにするのですが、このDVDにはスペイン語の字幕しか用意されていないのです。スペイン語じゃ、「シ、セニョール」ぐらいしか解りません:-)。 ついでですが、このDVDはワイドスクリーンの筈なのに、左右両端を詰めているのです。この映画には何回か人物を左右両端に配置した画面が出て来るのですが、顔が見切れています。こういう撮影がある筈はありません。こんな処理をされちゃ撮影監督が泣くでしょう。 映画にはシカゴの新聞記者(黒人青年)が登場するのですが(何度も出て来る)、彼の役割が何なのかさっぱり解りません。意味ありげに出す必要はなかったと思います。 さて、物語の続きです。裁判の経過では弁護側が圧倒的に優勢だったのに、白人ばかりの陪審員たちは被告は有罪・死刑と結論づけます。弁護士Samuel Leibowitzはショックのあまり、口もきけず、立ち上がることすら出来ません。負けを覚悟していた検事でさえ呆気に取られ、弁護士の方を気の毒そうに見やるほど。被告の無罪を確信していた裁判長も、(『アラバマ物語』の裁判長同様)腹立たしそうに裁判終了を宣し、ドアの前でSamuel Leibowitzを見返りながら残念そうに退廷します。 事実、第二審はそういう結果だったので、映画も忠実に描いているわけです。『アラバマ物語』の弁護士Gregory Peck(グレゴリィ・ペック)も証人調べでは圧倒的に優勢だったのに、レッドネックで黒人蔑視の陪審員たちが黒人被告を有罪にしました。どちらの映画も、根強い人種偏見を告発していると云っていいでしょう。ま、この映画が製作された2006年に、そういう告発の意味があったかどうかは疑問ですが。 後日談ですが、第二審の裁判長James Hortonは陪審員たちの有罪判決を無効にし、弁護側の再審理要請を認めるという異例の挙に出ます。これは彼の死後、合衆国大統領から「勇敢な行動」として讃えられることになるのですが、当時はアラバマ州民の不信をかい、James Hortonは二度と判事の座につけませんでした。しかし、彼の息子によれば、James Hortonが彼の行動を後悔したことは一度もないと漏らしていたそうです。 結局、この事件は四審まで行きましたが、どれでも黒人たちには有罪・死刑が宣告されました。中には知事権限で赦免されたり、終身刑に変更されたり、レイプの嫌疑を減免されたりして社会復帰出来た者もいれば、脱獄を繰り返して病死したりした者もいたそうです。当時のアラバマ州で白人女性をレイプした黒人には死刑が普通で、終身刑や刑の減免はこの'Scottsboro Boys'事件が初めてだったそうです。 検事側の証人Victoria Priceは、1982年に亡くなるまで終生「レイプされた」という自説を変えなかったそうです。実際には、彼女とその女友達はどちらもテネシー州の売春婦だったことが分っています。彼女たちは、当時のレッドネックたちに利用されたのでしょう。白人たちは黒人が自分の妻や娘をレイプするのを恐れ、「黒人が白人女性を犯せば死刑」という鉄則を確立しておきたかったのだと思われます。 (April 02, 2008) http://www2.netdoor.com/~takano/southern_film/fall_2.html 「エメット・ティルの死」
章のタイトル、「エメット・ティルの死」は、実はわたしが考えたものではありません。これはボブ・ディランの歌のタイトルから引用しました。
1955年の夏に起きた、エメット・ティルのいう名の黒人少年リンチ事件は、 (1)全米中に報道されたこと、 (2)殺人犯の裁判が当時の南部の人種差別制度、ジム・クロウ制度の残忍さをまざまざとみせたこと、 (3)それにもかかわらず黒人大衆が反抗の姿勢を明確にしめし、その後の公民権運動につながるスピリットの醸成を示す画期となった、で大事件になりました ((3)は歴史の後知恵です)。ディランの歌はこの実話に基づいているのですが、わたしはいわゆるドがつくほどのプロテストソングは大嫌いなので、これには深入りしません。が、この事件に関しては、年配のアメリカ人のひとに訊ねれば、たいていの方はしっていらっしゃいます。そして後の60年代に公民権運動の世界に飛び込んでいく青年たち、全世界的人気を博するリズム&ブルーズシンガーたちにとっては、「黒人」という同じ人種に属しているということで、ある種の共同体験になっています。
そのリンチ事件の顛末をお話するのがこの章です。
さて右の少年が、この事件の犠牲者、エメット・ティル少年です。
この少年はシカゴで生まれ、事件当時は14歳でした。つまり前の移動時期でいうと、大移動の時期に両親が南部からシカゴに移住していたのです。しかしシカゴへの移住は、南部との関係が切れるということを意味しませんでした。その実、ティル少年の親戚の多くはまだミシシッピ州にいて、彼は学校が夏休みになったのを機会に、親戚の家(祖父の家)にやってきていたのです。 しかし北部で育った彼は南部での「人種間のエチケット」を知っていませんでした。それはだいたいこのようなものです。
・白人と話すときには、Sirをつけろ、つまり日本語の構造でいうと、敬語を使えということですね。
・何をするにも白人が優先、前から白人がきていれば道をあけろ とここまでは世の「差別」というものにある程度普遍的にみられることのので予想もつきます。ところがアメリカ南部の「人種間のエチケット」には、ひとつ独特のものがありました。1940年代初頭にカーネギー財団から膨大な予算を得て、スウェーデン人の社会学者、グンナー・ミュルダールが行った調査報告「アメリカのディレンマAn American Dilemma」は、白人がもっとも激しい抵抗を示すものの一番に、異人種間の性交渉・結婚をあげています。
つまり南部の「人種間のエチケット」でもっとも大切なのは ・黒人男性は白人女性をロマンスまたは性の対象とみなしてはならない
というのがあったのです。それですから、リンチで殺された黒人男性の多くが、レイプなどの冤罪に問われたものであり、殺害の儀式のなかにはペニスを切るというものがあったのでした。
これは異人種間の交流を促したロックンロールがなぜ弾圧されたのかの理由のひとつであります。
そこでティル少年は、南部のなかでもこの「エチケット」へのこだわりがいちばん厳しいミシシッピで、やってはならないことをやってしまいました。キャンディを買いに行った店で、その店のレジ係の女性に対し、口笛を吹いてしまったのです。 [一説には「バイ」と言ってしまったというのもあります。] そうです、たったこれだけなのです、彼が犯した過ちは。 上のエチケットの具体例ミシシッピ版では、黒人男性は白人女性を直視してはならない、ことになります。女性に「ベイビー」と呼びかけることは、当時のシカゴではごく普通のことなのですが、これはミシシッピの環境におかれたとき「ねぇ、かのじょ、かのじょ」と呼びかけたことを意味したのです。 この決定的過ちがおきた1955年8月28日、そのレジ係の女性のいとこロイ・ブライアントはJ・W・ミラムという友人とともに、ティル少年の祖父の家に押しかけ、少年を拉致します。もう祖父には何が起きたのかわかっていました。ティルは殺されるとわかっていました。ミシシッピで白人に抵抗しても殺されるだけ、ともわかっていました。
ところがシカゴにいる彼の母は違っていました。彼女の発言あって、ミシシッピ州警察もそれなりの捜査を行い、9月1日にはミシシッピ川でティル少年の死体が発見されます。川に死体発見されたといっても、ティル少年が溺死したわけではないのは明らかでした。なぜか?。 それは、幼い少年とはいえ、性器が切断されており、顔は見るに耐えられないほどの暴行を受けた痕をとどめていたのです。 ティル少年を拉致した二名は、すぐさま逮捕されます。異常な事態がおきたのは裁判の過程でです。ミシシッピ州の刑事裁判は陪審員制で行われます。
この陪審員選定の過程で、黒人はすべて除外されました。 黒人が陪審員になるどころではなく、裁判所自体、劣悪で汚い「黒人席」ときれいな「白人席」がはっきりとわかれていたのです。 そして陪審員が討議に入る前、この事件を担当した判事は、何とこう言ったのでした。
「誇りあるアングロ・サクソンに属する陪審員の方々はティルが行ったことの重大さをよくご存じであろう」。 つまり越えてはならない一線を越えたからティルの殺害は自業自得だ、むしろ被告の行為は尊き血を守ったとして讃えられるべきだ、と言ったのです。そうして下された評決は被告無罪でした。 これに怒ったのはシカゴにいるティル少年の母親です。彼女は 「ミシシッピの残虐さを全米の人びとに知ってもらるため」に、棺を開け、叩きつぶされたティル少年の顔が見える形で葬儀を行います。さらには黒人向けの雑誌Jetにティル少年の顔の写真の掲載を許可しました。(年配の黒人の方々の多くはこれを見たときの衝撃をいまでもわすれていらっしゃいません)。汚い手口で殺された彼の墓はシカゴ近郊にあります。 こう述べてくると、南部という土地の「後進性」が際立ってくるように見えますし、同地で人種関係は奴隷制以来何の改善もされていなかったような印象を受けます。しかし、ここには重要な変化も見られたのです。それは以下の通りです。
(1)かつてのリンチは、リンチの場所と日時が新聞で発表されて行われる儀式であった。ティル少年の殺害者は、自分たちが行っていることを、(判事の見解とは異なり)「アングロ・サクソンの血」を守るという理由では説明できない「殺人行為」であると知っていた。なぜならば彼らは罪状認否で「無罪」を主張した−−
しかしその後写真週刊誌のインタビューに応え、リンチの模様を詳述した、それでもミシシッピの検察は再起訴しなかった−−し、ティル少年の死体が簡単にわからないように死体遺棄を行っていた。 (2)ミシシッピに北部からの世論の圧力が加わり、それが事件の展開に強く影響を与えた。 (3)裁判の過程では、ティル少年の祖父が犯人を指さし、「あいつがやった」と発言した。つまりもう白人優越主義者の支配はうんざりだ、という姿勢を誰もがわかる形でしめした。つまり公民権運動を支えるスピリットが醸成されつつあったのを示した。(実際に、老人のこの行為に、この裁判の傍聴に来ていたミシシッピの黒人たちは驚いたそうです)。
互いに異なる生活慣習をもっていると思われるところでも、実はコミュニケーションの回路が存在している場合があります。このときのシカゴとミシシッピの関係がまさにそうでした。ここでもう一度、前章での緑の部分をご覧ください。これらの場所は、離れていつつ、つながっていたのです。
さて、次回こそ、これを踏まえたうえで、経済環境の説明を致します。
2004年春、アメリカでこのリンチ殺害事件をテーマにしたドキュメンタリー が制作されました。驚いたことに、その制作チームは、リンチが2人「だけ」の仕業ではないことを突き止めました。それに併せ、連邦司法省が捜査を再開、約40年という時間を乗り越えて、「正義の裁き」が降りる可能性が高まっております。がんばれ司法省。 http://www.fujinaga.org/r_and_b_politics/chapter04/vol_4_07/vol_4_7.htm 裁判員制度はこれから日本に中国人移民を2億人入れるのを想定して実施したものだよ。 中国人移民は放っておくといくらでも犯罪を重ねるので厳罰化が必要なんだ。 裁判官だとどうしても、日本人と中国人を公平に扱ってしまうから社会が大混乱してしまう。 日本人は一人殺しても懲役20年、中国人の場合には火炙りで時間をかけて殺す様なシステムにしないと安心して移民と同じ町で暮らせないんだ。 中国人移民が増えると日本もこういう社会になる:
メキシコの激しい殺戮の社会の中では、女性も無事ではない。多くの女性がレイプの恐怖に怯えている。
レイプと言えば、巨大麻薬カルテルのひとつフアレス・カルテルは、女性たちを適当に拉致しては、どこかの屋敷に監禁して性奴隷にしている。 アメリカのテキサス州の国境警備隊によると、麻薬カルテルのボスに誘拐してきた女性をプレゼントとして差し出すような例もしばしばあるのだという。 四肢切断され、レイプされる女たち 正真正銘のレイプビデオや、例のスナッフビデオを作っているのも彼らだ。女性をレイプし、手足を切断し、殺される女性は、14歳から20歳くらいまでの若い女の子ばかりである。 上記の死体は髪を剃られ、手足が切断されて見つかった女性の死体だが、まだティーンエイジャーほどの若い女性であることが分かる。切断痕からすると、これはチェーンソーで切り取られたのだろう。 切断のときに飛び散ったであろう大量の血液はきれいに水で洗い取られているが、単に切断して捨てるだけならそんな手間は必要ない。手間をかけたのは当然、「撮影」するためだったはずだ。こういったケースがメキシコで横行している。 また、こういった正真正銘のレイプ・スナッフビデオを愛好する変質者も世界には多くいるようで、然るべき筋に売られている。 メキシコの女性たちは、レイプされたあとは殺されることが多いようだが、その殺害場面や死体の切断場面まで記録されて出回る。人権侵害どころではないのは言うまでもない。 また、死体は臓器売買で有効利用されることも多い。臓器売買での顧客は麻薬と同じく先進国アメリカである。 日本では公開するかどうか未定らしい「Inhale」という映画は、娘が深刻な肺の病気にかかって肺の移植が必要だと言われた父親が主人公の映画だという。 娘が日に日に衰弱していく。しかし、ドナーが現れない。死にかけている娘を目の前にして、父親はついに違法でもいいから肺を手に入れようと決意する。 彼が向かったメキシコの地域がフアレスだった。暴行、レイプ、抹殺(スナッフ)、何でもありの暴力都市フアレスに君臨するのがフアレス・カルテルである。主人公はそこで人間の「インヘイル(呼吸器)」を求めてさまよい歩く。そんな映画らしい。 金さえ払えば臓器が手に入ると思うアメリカの男。金さえもらえば臓器でも売り飛ばすメキシコの男。
この場合の需要と供給は、先進国に住む人の生命と、後進国に住む人の生命の交換である。メキシコには、このような臓器売買も平然と行われている。 被害者の下着が舞うレイプ・ツリー チワワ州では多くの外資が進出している。その林立する巨大工場で膨大な数の女性工員が働いているが、これらの女性が拉致されたりする現状は、映画「ボーダータウン 報道されない殺人者」で描かれた通りだ(関連記事)。 10年に渡って500人以上の女性が行方不明になっていると言われているが、それは犯罪組織と癒着した警察の矮小された数字である。 実際には3万人とも4万人とも言われる女性がレイプされ、殺され、砂漠に埋められたり、ゴミ箱に捨てられたりしている。 拉致し、暴行し、用済みになったら殺してバラバラにして「ごみ」としてゴミ箱に遺棄するのだから、被害者の尊厳などどこにもない。もちろん、その中には未成年も多く混じっている。行方不明のままの女性も多い。 死体が発覚されたくない場合は、酸(苛性ソーダ)で溶かすケースもあって、2009年1月に逮捕されたサンディアゴ・メザという男はそういう仕事を10年間続けていたという。処理した死体は300体。 一週間で600ドルをもらって、死体を溶かしていたという。この男の通称が「シチュー・メーカー」だった。この男の「職場」の画像もあるが、ドラム缶の中は見ないほうがいいだろう。 シチュー・メーカー、サンディアゴ・メザ
人権団体の報告書では、これらの女性に対する暴力を、州当局が「真剣に捜査した形跡がない」と批判しているのだが、真剣に捜査して犯人が麻薬カルテルのメンバーであるところまで辿り着くと、次の犠牲者は警察官自身になる。 これとは別に、アメリカに密入国しようとしている女性を狙って、麻薬カルテルが片っ端からレイプしている事実もある。 彼らは女性をレイプした印に、被害者のパンティーやブラジャーを木に引っ掛けて誇示しているのだという。このような木を現場では「レイプ・ツリー」と呼ばれている。 レイプ・ツリーは途切れることなく延々と続き、何年も何年もそれが繰り返されている。被害に遭った女性たちの話では、夫が隣にいるそのすぐそばでレイプされる女性もいるということだ。 メキシコの麻薬妻たち また、あってはならないことだが、メキシコ軍まで麻薬組織掃討の際に、目についた女性たちをレイプしているという告発もあった。 麻薬組織が囲っている女性たちは、ミス・メキシコなどで出てくるような美しい女性だ。彼女たちは麻薬カルテルの王に犯され、敵に犯され、軍にも犯されるという運命にある。 しかし、逃れる術はない。運命に逆らっても、流されても、常に危険と死がまとわりつく。 2008年にはメキシコのミスコンテストの優勝者ラウラ・スニガという女性が、麻薬密売人たちと一緒に逮捕されている。ピストルや弾丸やライフルや多額の現金が車の中に積んであった。 ラウラ・スニガ
2010年にはアンジ・バレンシアという女性が大量のコカイン運搬で逮捕されている。彼女はメキシコの麻薬カルテルの元妻だった。ファッションショーに出演する女性に声をかけては麻薬カルテルに誘っていたという。 アンジ・バレンシア
逮捕時 2007年に逮捕されて、スター気取りで逮捕写真に写っているのはサンドラ・アヴィータ・ベルトラン、「太平洋の女王」と言われていた女だ。逮捕されても笑っていられるのは、警察でさえ彼女の言いなりだということが分かっているからだ。 コロンビアからアメリカに9トンものコカインを運ぼうとして失敗して2007年に逮捕されているのだが、彼女の身柄を引き渡せというアメリカの要求をメキシコは断った。なぜなら、彼女は「証拠不十分で無罪」になったからである。 逮捕されているのに余裕たっぷりのサンドラ
刑務所の中でボトックス手術さえできる余裕。 そのあげくに無罪で釈放された ロイターは2009年2月の記事で、「メキシコの麻薬妻たち」という題名で彼女たちにスポットを当てた記事を書いている。
シナロア州で美人コンテストが行われるが、そういったところに出場する女性たちが「しばしば誘拐されて、山間の隠れ家に連れ去られる」と書いている。 しかし、そこで女性たちは豪華な暮らしをしているのだという。もっともそれは命と引き換えで、元愛人だった女性が殺されて、胸や腹部、臀部を切りこまれて「Z」のメッセージが入れられていたということだ。 もちろん、それはゼタスの「Z」だ。 また、他の記事では、囲われた女性たちの中には武器弾薬の使い方の訓練を受けていて、殺し屋をしていた女性までいたという。これは2010年8月に発覚している。 ラ・リネアというギャング団の一味なのだが、このギャング団を支配するのがフアレス・カルテルだ。レイプビデオ・スナッフビデオを作っている例のカルテルだ。 末端の娼婦たちも常に麻薬や暴力と関わり合っており、殺される女性も多い。 頭部を撃たれて死亡した女性。失禁しているのが分かる
肌が紫がかっているのは仰向けで死んでいたことによる瘀血
メキシコは、現在、世界でも最悪に近い治安の状況であり、カルデロン大統領が麻薬撲滅戦争を宣言した2006年12月から、暴力と殺戮はエスカレートしていく一方だ。 女性が暴力国家に置かれると、どのような状況になるのか、メキシコを見るとよく分かる。 女性の時代というのは、平和と安定という非常に脆弱な薄氷の上に成り立っていて、暴力の時代が来たらすぐにでも消し飛んでしまうことが分かるだろう。 では、これから世界は平和がやってくるのだろうか。先進国が軒並み経済破綻していく中で、平和は保たれるのだろうか? これを真剣に考えなければならないのは、暴力の時代がやってきたら有無をいわさず生贄になる女性のほうかもしれない。 家族を殺されて泣き叫ぶ女性たちの姿が目に染みる。 追記になるが、2010年12月21日も、メキシコ南部のオアハカ州で列車に乗っていた中米諸国出身の移民女性約50人が、武装集団に誘拐されるという事件が起きている。報道記事にはこう書いてある。 メキシコで移民女性50人誘拐か、エルサルバドルが捜査要請
同地域では、仲介業者に1万ドル(約83万7000円)もの金額を支払って、米国に不法入国する移民もおり、特に女性は米国に向かう途中で性的暴行事件などに遭うことも多い。また、誘拐された後に売春を強要されるケースもあるという。 http://www.bllackz.com/2010/11/blog-post_5173.html 中国人移民が増えると日本もこういう社会になる: 経済破綻・貧困がやってきたとき、女たちの人権はまったくない
2000年頃、コロンビア人娼婦が「スペイン人」だとか「ロシア人」だと紹介されて日本のホテル街に出没して売春を持ちかけていた。その頃のことをまだ覚えている人もいるかもしれない。 ちょうどその頃、コロンビアは麻薬のメッカだった。シンジケートは女性の膣に麻薬を隠して日本に運ばせ、うまくすり抜けられればそのまま夜の街で売春ビジネスに従事させていた。 人身売買大国だったコロンビア
送り出す女性はコロンビア人娼婦だけではなく、パナマの女性なども含まれていた。当時、池袋の北口では黒人が立ちん坊をしていたが、彼女たちの中にはパナマ人も含まれていた。 「日本人にはアメリカから来たと言ってるわ。そういうとお金をいっぱいくれるから。でも、たまに英語ができる日本人もいて困るときもある。そんなときはママはブラジル人でスペイン語を話すと言うわ」 そう言って笑っていたのを今でも思い出す。 彼女たちは絶対にコロンビアだとかパナマという国籍は出さないように言われていたらしいが、それは日本人を怖がらせないためだったのだろう。コロンビアの麻薬カルテルは日本でも知られていたからだ。 しかし、日本人が知らなかったもうひとつの側面もある。それはコロンビアがラテン・アメリカで有数の人身売買国家だったことだ。 2009年12月、コロンビアでふたりの上院議員が人身売買と戦うための法案を教授していた。 これは、売春斡旋業者(Pimps)を取り締まると同時に、被害に遭った女性をシェルターに保護して、カウンセリングを受けさせることを法律で援助するものだった。 つまり、今までコロンビアではそのような法律がなく、女性たちは常に人身売買の格好の標的だったことを意味している。 子供はレイプの対象 もちろん、中南米では、どこの国も状況は似たような状況にある。昨今では麻薬の集積地としてメキシコが猛烈な暴力国家になっているが、そのメキシコでも今や人身売買が吹き荒れている。女性の拉致・監禁・殺害・レイプも絶えない。 かつてメキシコ南部は政府でさえ制御できない武装組織が存在した。農民暴動もよく起きて殺傷事件が耐えない地域で、バスが銃撃されて蜂の巣になっているのが新聞に載っていた。 私がメキシコにいたのはその頃だったが、南部にさえ行かなければ安全だと言われた。 しかし、今では毎日殺し合いをする麻薬組織の犯罪がこれでもかと言わんばかりに報道される。どこも血まみれだ。 メキシコ人は朝、血まみれになって死んでいる麻薬組織のメンバーの死体をを新聞で見ながら、コーヒーを飲んでいる(殺戮大陸メキシコの狂気)。 メキシコとグアテマラの国境地帯は、兵器の密輸がさかんに行われており、この地区の子どももまた両親を殺さたり、人身売買されたりしている。 犠牲になっているのは女の子ばかりではない。男の子もまたレイプされ、売り飛ばされる。 ハイチでもほとんど目立たないが、非営利団体によれば貧困者の子ども(ほとんどが若い女性)は金持ちの家に、メイドという名の「家庭内奴隷」として強制労働されており、その数は22万人以上にのぼるという。 彼女たちは、しばしばホスト・ファミリーにレイプを受けることが報告されている。子供はレイプの対象だ。 メイドもまた格好の犠牲者 若い女性が金持ちの家にメイドで雇われて、性的被害に遭う話は、それこそ膨大にある。 ある女性が中東にメイドで雇われたが、仕事は老人の性介護(セックスの相手)であり、そのうちその家の息子たち全員の性の玩具にされてしまったという凄惨な話があった。 中東の出稼ぎはフィリピン人も多いが、やはりホスト・ファミリーにレイプされたり、性的ないやがらせを受けたり、虐待されたりしている。 ブラジャーだけやトップレスで掃除することを強要されたり、レイプされそうになって雇い主を刺殺したら、正当防衛に関わらず死刑の判決が下ってフィリピン全土が大騒ぎになったりした。 マレーシアでもインドネシアの女性が凄まじい虐待を受けた例もある(ぼろぼろになるまで虐待され、レイプされていく現代のメイドたち)。 インドネシアと言えば、最近はサウジアラビアで起きた事件でメイドとしてサウジに働きにいくことを禁止するほどの大事件が起きているのはご存知だと思う。 雇い主に追いつめられたインドネシア人のメイドが雇い主のサウジアラビア人を殺したのだが、政府は彼女に死刑を宣告し、インドネシア政府に何も知らせないまま断首刑を執行した事件である。 サウジアラビアで母を勝手に断首刑にされて嘆く娘
ユドヨノ大統領は激怒してサウジアラビア政府に最大限の抗議を行っている。
インドネシアの女性が国外で虐待に遭う事件が続出していて、メイドがいかに危険な仕事なのかを国民はもう知っている。しかし、それでも出稼ぎに行かなければ食べていけないのがインドネシア国民の悲哀でもある。 虐待を受けたメイドがどんな状況になっているのか、以下を見ればその深刻さが分かるだろう。 これは今、私が愛してやまないインドネシアやフィリピンの女性に起きている現実である。 雇い主に暴行(というよりも拷問)を受けたインドネシア人メイド
自国の女性に振るわれる暴力に抗議する人たち 平和が消滅すると女性の人権も消滅する
貧困国・貧困家庭の子どもや若い女性は、どこの国のどんな地域でも、必ず人身売買や性的搾取のターゲットとなっている。人種、宗教、地域問わず、すべてそうだ。 女性の時代というのは、「平和」と「豊かさ」と「教育」が維持されているときだけに囁かれるものであり、そのいずれかが消え去ると同時に女性の時代も簡単に消し飛ぶ。 特に「平和」は、「女性の時代」という幻想を築く上ではなくてはならないものである。 平和でなくなった瞬間、女性の時代もなくなる。女性の時代どころか、女性の地獄が出現するだろう。 人身売買の横行する貧困国を見ているとそれはよく分かる。戦争や内乱がそれに加わると、どうなるかはコンゴの例を見ればいいかもしれない(戦争とレイプ(3)コンゴのレイプ地獄から逃げて国境でも輪姦)。 今年に入ってからはリビアもカダフィ政権もまた中東民主化の波で内乱状態のようになってしまっているが、政権側は反政府側の女はレイプしても構わないとする「レイプ戦術」を執ったとも言われている。 15人に集団レイプされたと訴える女性
これはもちろん反カダフィ側(つまり欧米側)のプロパガンダである可能性もあって何とも言えないところでもある。
しかし、エジプトでもCBSの女性記者だったララ・ローガンがレイプされているのも周知の事実なので、リビアの女性が無事であるとは私には到底思えない。 内乱の際、レイプは暴徒にとっての最大の「楽しみ」になっているという醜い事実は隠しようがない。 エジプトでレイプされたララ・ローガン
次の標的は先進国の女たち
では、これは貧困国だけの問題で無視できるのだろうか。先進国には拡散しないのだろうか。 今後、先進国が激しい経済金融危機で破綻することによって、この人身売買問題・女性に対する人権侵害が広く拡散していくと私は考えている。 世界はグローバル経済になって久しいが、そのグローバル経済がアメリカと共に倒れそうになっている。 各国政府が湯水のごとく低金利でマネーを供給して、なんとかグローバル経済が助かっている。 しかし、もう限界に近づいているのは先月までのアメリカの債務上限の問題を見ても分かると思う。アメリカは問題を「先延ばし」にしただけで解決したわけではない。 何かのきっかけですべてが水泡に帰したとき、世界はすべての国を巻き込んで大混乱の極みに落ちて行く。 すべての国の国民が結果的に貧困に落ちて行き、暴動や内乱が発生するだろう。 国対国の衝突や戦争も起きる。そのような混乱に巻き込まれたとき、国は貧困を加速させることになる。 人身売買はなくならない。暴動・内乱・戦争によって、それはさらに拡散していく。 ここであなたはよく考えて欲しい。日米欧が経済的に破綻していこうとしている今、ベクトルの先には平和があると思うだろうか。それとも、混乱や暴力があると思うだろうか。 もちろん、暴力のほうだ。今の状況が最後まで行き着いてしまったら、待っているのは未曾有の暴力が吹き荒れる事態だ。 次の人身売買やレイプのターゲットは、先進国の女性たちである。日本の女性も、やがてはその波に飲まれていくことになる。 今向かっているのは、女性の時代ではなく、女性が地獄に落ちる時代である。 http://www.bllackz.com/2009/12/blog-post_26.html 詳細は 殺戮大陸メキシコの狂気 被害者の下着が舞うレイプ・ツリー http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/410.html |