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終戦記念日に寄せてE
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投稿者 PCOG 日時 2009 年 8 月 13 日 12:59:27: QQblZfjbsVI.6
 

遵法精神の涵養こそが、日本国家再建の根本であると言うこと。

21世紀初頭の国会において、KSD(ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団)汚職問題や、要人外国訪問支援室長の外務省機密費横領問題で議論が紛糾しているが、その原因の根本は、遵法精神の欠如である。

更に、福岡地検の次席検事が福岡高裁判事に、判事の妻の脅迫被疑事件に係る捜査情報を洩らすという事案が発生した、捜査情報を漏らすとは、わかり易く言えば、「逮捕に際しては必ずガサ入れ(捜索・差し押さえ)がおこなわれるから事前に証拠隠滅を忘れないように」と連絡した事を意味する。法の厳正な執行者たる検察官の幹部が、刑法104条(証拠湮滅罪)の教唆犯に該当するが如き行為をする事は、主権者である国民としては、誠に堪え難く且つ嘆かわしい限りである。

判事の妻が、夫(判事)の指示により、証拠能力の有る物的証拠(プリペイド式携帯電話機)を廃棄するであろう事は、条理上充分に推定出来る事である。今日の刑事裁判は証拠裁判主義(刑訴法317条)に基づいて行われるので、警察の捜査に重大な支障をもたらす結果となった。

「検察官同一体の原則(検察官の職務遂行上の原則)」の建前から見て、福岡地検の次席検事の意思表示は、個人の意思表示でない事は明白である。つまり、地検・高検・最高検をも含む検察庁の意思表示に他ならない。この事件発生は、遵法精神欠如の悪弊が、法の番人である検察・司法の分野にも蔓延している事の証左である。更に、東京高裁判事が14歳の少女に現金を渡して買春をしていたとして逮捕された事件の発生も亦然り。

なお今日、飲酒運転撲滅運動が展開されているが、基本的にはドライバーが「法律を守って運転して、他人に迷惑を掛けない」という心を持つことが肝要である。つまり、ドライバーの遵法精神と道徳の向上なくしては、種々の対策を講じても、その効果は限定的なものとなり抜本的な対策とはならない。(本項追加2006.09)

戦前及び昭和20年代位迄は、最高速度時速40キロメートルの規制が掛けられている道路を時速40キロメートルで走るドライバーは他のドライバーから尊敬の目で見られていたのが、今日では交通を妨害する非常識なドライバーとして認識されているのが実状である。

日本国民の心の中に、何ゆえここまで深く、遵法精神欠如と道徳欠如の悪弊が蔓延してしまったのか? その理由は、日本国憲法9条の冒涜(ぼうとく)に在る。日本国民はこの点に今こそ覚醒するべきである。

憲法9条(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ここに、従来国際法においては、「国際紛争を解決する手段として」の文言が自衛戦争を留保して用いられてきたことから、自衛戦争は9条1項では放棄されていないが、9条2項により、自衛戦争まで放棄されたものである。そして、国家の自衛権は平和を愛する諸国民の公正と信義によって担保されるものである、とするのが通説である。

更に、戦力とは、戦争を遂行する目的と機能を持つ組織的な武力又は軍事力を指す、とするのが通説である。

「提言1」で詳しく述べているように、法治国家日本の最高の規範が憲法である。今日の自衛隊が戦力を有することは明白な事実である。とすれば、自衛隊の存在そのものが、憲法9条2項に反するという事は、通常の知能を持ち且つ日本語を解する者であれば誰にでも明白に理解出来る事である。

よって、国民の輿論が、自衛隊が今日の世界情勢から見て、必要であるとするのであれば、憲法を改正して、正正堂々と自衛隊を設置運営する。国民の輿論が、必要なしとするのであれば自衛隊を解散する。何れかの方策を執るべきである。(具体的な方策については「提言1」に詳述)

政府の見解が、法哲学を解せずして権力に阿る一部の法学者の学説を盾に、未だに詭弁を弄して自衛隊合憲論に固執し、具体的には、憲法であっても必要であれば無視しても良いとするのであれば、憲法の下位に位置付けられている法律も、必要であれば無視しても良い、法律など自分に都合の良いようにどのように解釈しても構わない、と国民が考えるようになるのは当然の道理(ことわり)である。更に、法律の下位に位置付けられている条例・規則など糞食らえと国民が考えるようになるのも当然の道理である。

更に、実定法は道徳の理念によって規定され、且つ道徳と結合したものであるから、法軽視の風潮が日本国民の道徳の低下を招来するのも当然の道理である。日本国憲法を公権解釈によって冒涜し続けた結果、日本国民の遵法精神と道徳を麻痺させた、内閣法制局の法匪連中の罪たるや万死に値するものと言わざるを得ない。小泉政権は遂に軍隊である自衛隊の海外派兵まで実行してしまった。

遵法精神と道徳の麻痺は、法治国家の崩壊を意味する。国民は精神的な拠所の一つを失い、その結果、今日の日本のような、正に、たがのゆるんだ、芯のない拝金主義国家が醸成される結果を招来する事となった。

その結果、子供は大人の背を見て育つわけであるから、通常の大人並の知能を持ち且つ日本語を解する子供に対して,父兄や教師や大人が、「社会のルールを守りなさい」「成人式で騒いではいけません」「刑法で定められているような悪いことは絶対にしてはいけません」と教えても、子供は心の中で「国の最高規範である憲法さえも誤魔化して守らない大人たちが何を言うか、馬鹿じゃん」と笑うことになる。

外国人から見ても、「自国の憲法であっても、屁理屈をならべて誤魔化して守らない日本は国家に値しない。日本人は倫理観の全くない拝金主義者の集団に過ぎない。」と、心の中で蔑視される事になる。つまり、如何に経済的に協力しても「エコノミック・アニマル」として、国際社会の笑いものになるだけである。

以上は、憲法9条を冒涜し続けた結果発生した具体的な現実の一端を、分かり易く例示したに過ぎない。そしてこの弊害は、今後確実に時の経過に従って増幅される。如何に内容の充実した立派な法律を立法し、公布施行しても、遵法精神の欠如した国家・国民にその効果を期待する事は出来ない。

なお付言すると、個人の尊厳、個性の確立、は民主主義の基盤をなすものであるが、個人にあまりにも重きを置き過ぎると、自分自身だけの為に生きる事になる。公の為に生きる必用がある事を忘れてはいけない。個人が社会を構成するわけであるが、また社会あっての個人でもある。「民主主義は、公共精神(道徳)によって支えられている。」と言うことを忘れてはいけない。(憲法前文・12条・13条)

善悪は別として、戦前は、現人神(あらひとがみ・living god)である天皇を中心にして、日本の国家には一本、筋が通っていた。仮に、例えば現行法上の国政調査権に基づく「国会の証人喚問」で、「私の記憶にはございません」などと、平然と破廉恥な証言をする日本人は居なかったはずである。事前に恥を知って潔く自決するか、刑に服して責任を執るという、道徳に裏づけされた日本国民としての矜持があった。(註、旧憲法の帝国議会の両院には、憲法上明文を以て国政調査権は与えられていなかった。更に直接国民・各機関に対して調査権を行使することは出来なかった。)

天皇の人間宣言により、戦前の天皇に取って代わるべきものが、日本国憲法である事を政府並びに日本国民は肝に銘ずる必要がある。

ところで、現人神(あらひとがみ・living god)である天皇を頂点に戴く選民である日本民族は、他の民族に優越した民族であり、地球(世界)を支配すべき使命を持つという、八紘一宇を夢見る狂信的な神国主義が日本を戦争に駆り立て、近隣諸国に大いなる迷惑を掛けた過去を深く反省した結果、憲法が制定された当時は、憲法9条は絶対的な戦争の放棄及び戦力の不所持を意味するとの解釈について、政府をはじめ国民の見解は一致していた。

ところが、朝鮮戦争(1950〜1953)の勃発により、米国の覇権主義は、理不尽にも自ら押し付けた憲法9条を侵蝕するに至った。即ち、警察予備隊、保安隊、自衛隊が設けられるにつれて、政府の憲法解釈は変更されるに至り、「戦力なき軍隊」から今日では「自衛のための戦力は憲法の禁ずる戦力ではない」と変更されるに至った。

平和条約の締結による日本の独立を、政治の緊急課題としていた、当時の吉田茂首相(1878〜1967)が、警察予備隊を創設せざるを得なかった事情は充分に理解できる。その後の日米間の政治の推移については、国民の一応のコンセンサスが得られて今日に至ったことは日本国民の熟知するところである。

如かしながら、所謂「臭い物に蓋」の例えの如く、姑息な手段で一時しのぎをするような安易な考えで、憲法9条を冒涜し続けることは、上述のとおり、救い難い負の遺産を21世紀に引き摺る結果を招来する。

自衛隊が合憲か違憲かについて論争することは、今日までタブーとされ、裁判所も、札幌地裁が1973(昭和48)年9月7日「長沼事件」で、自衛隊は憲法9条2項によってその保持を禁ぜられている戦力に該当するものであり違憲であるから、防衛庁設置法、自衛隊法その他これに関連する法規は、憲法9条2項に違反し、憲法98条によりその効力を有しないものである旨の判決をした以外は、その判断を回避してきたところであるが、終戦後既に50年余を経過しており、日米防衛協力のための新指針(ガイドライン)関連法が成立し、更に集団的自衛権の行使や海外派兵の問題が論議されている今日、法治国家として決着をつけるべき時であると考えざるを得ない。

経済の浮沈はあって当然であり、日本国民の勤勉性が担保されている限り、過去の歴史が示す通り、将来的には心配の必要はないが、「提言5」で詳しく述べているように、「人間は何の目的でこの世に生まれてきたのか」に係る、「精神性の向上」がなされないと、そして「提言1・2・3・4」で述べているように「政治的な自覚の向上」がなされないと、日本国家のみならず、地球の壊滅を招来する事になる。日本国民の政治的な自覚と精神性の向上が今日緊急に要望される所以である。

ここに、今般「個人情報保護法案」と「人権擁護法案」が今国会で審議されている事に付言すると、法律の目的が「市民が官を監視する」から、いつの間にか「官が市民を監視する」にすり替わってしまっている。戦前の悪法「治安維持法」の轍を踏まないよう、国民は「憲法21条の立法趣旨に違背していないか」について最大限の注意を注ぐ必要がある。なお、メディアは国民の木鐸ではない。国民は培った洞察力でメディアを利用するべきである事は論を俟たない。

更に、本来はテロや不審船に対する法整備が必要であるにも拘わらず、憲法9条に違反する事が明白な、戦争を円滑に遂行する為の法律である「有事法制(有事関連三法案)」の審議が先行してなされている事についても亦然り。

日本国民は、憲法前文1項に謳われているとおり、日本国における最高の主権者は、総理でもない、閣僚でもない、国会議員でもない、裁判官でもない、勿論天皇でもない、我々日本国民一人一人が、最高の主権者であることを忘れてはならない。そこで、主権者である国民は、あらゆる機会を通じて、内閣であれ、国会であれ、裁判所であれ、片時も監視の目を緩めてはいけない。少しでも憲法違反の疑いがあるような行動を採った場合には、直ちに之を止めさせなくてはならない。これは国民の権利であると同時に義務である。権利と義務とは、表裏一体をなすものであるから、権利の行使だけでは駄目である。義務の履行を怠ってはならない。

つぎに、先般国会において、KSD(ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団)汚職問題に係る、私立学校である「ものつくり大学」への公金(助成金)支出問題が論議されていたので、私立学校への公金支出の違憲性について論述する。

憲法89条(公の財産の支出又は利用の制限)
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

「ものつくり大学」は、2000年初頭、当時の小渕恵三首相が施政方針演説で取り上げたものである。ものづくりに直結する実技・実務教育を重視して、日本初のテクノロジストを育成するという大学設立の基本理念は、技能・科学技術・社会経済が国際的にグローバル化する今日、立派な発想ということが出来る。

然しながら、憲法89条は公の支配に属しない教育の事業への公金の支出を禁止している。もとより私立学校であっても、法律によりその設立の規格が定められ、その設立に当たって行政官庁の認可を受けることは通例である。株式会社等最も私的な性格を持つものも亦然り。法令に服することに関しても、行政官庁の監督を受けるのであるから、この程度の公の支配をもって、憲法89条にいう公の支配であるとするならば、公の支配に属さない教育事業(学校法人)というものは、存在しないことになる。

ここに、憲法89条にいう「公の支配に属さない教育の事業」とは、上述した点とかかわりなく、その性格ないし建前が、いわゆる私立の事業として、その私的自主性を維持するところにその特色がある教育の事業であると解される。

つまり、私立学校は、本来、国立・公立学校と異なるところに、その性格ないし建前の特色があるものであるから、たとえ、法律の定める法的規格により設立され、また認可を受け、行政官庁の監督を受けるものであっても、憲法89条にいう「公の支配に属さない教育の事業」に該当するものと解される。

憲法89条を設けた理由の一つは、国費の濫費を防止するためであるが、その他に、学校法人が助成金を受けることにより、私的自主性を失い、国家依存性の強い教育事業に堕すること、つまり、教育事業が国家目的に従属せしめられること、を防止する目的があることを忘れてはいけない。

よって、私立学校(学校法人)に対して、国または地方公共団体が補助金を支出し、または、通常の条件よりも有利な条件で貸付金を出すこと等を認めることとした、私立学校法59条の規定は、憲法89条に違反するものと言わざるを得ない。

今日の社会情勢下においては、私立学校への経済的な援助は、私学振興上必要であるとの理由で、その違憲性を救う為に、助成金を与えることに伴って、行政官庁が一定の監督を加え、それをもって、私立学校が憲法89条にいう「公の支配に属さない教育の事業」ではないとするが如きは、本末転倒の解釈であり、憲法を冒涜するものであり、遵法精神の欠如を招来する事になる。なお、私立学校法59条によって、私立学校が国の決定的な支配力の下に服することとなったとするならば、もはや私立学校ではないことになる。

以上論述したように、憲法上は、私立学校には本来、国及び地方公共団体からの財政的助成は許されないものである。よって、国民の輿論が、今日の社会情勢下において、私立学校に対して財政的助成を必要とするのであれば、憲法を改正してのち、すっきりした形で、財政的な助成をなすべきである。

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