★阿修羅♪ > 憲法3 > 141.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: 憲法記念日に日本国憲法を思う 投稿者 AHR666Generation 日時 2009 年 5 月 10 日 05:54:56)
「四方の海みなはらからと思う世になど荒波の立ち騒ぐらむ」と詠んだのは 昭和16年9月6日 帝国国策遂行要領 第3次近衛内閣 の時、開戦までは昭和16年11月5日 帝国国策遂行要領 東條内閣 8 昭和16年12月1日 対米英蘭開戦の件 東條内閣 が行われた。
【 NHKスペシャル 「御前会議」 太平洋戦争開戦はこうして決められた】
http://www.tante2.com/nhk-gozen-kaigi2.htm
は参考になりますが、この件に関しては、新潮新書から出ている、井上寿一著 「昭和史の逆説」を読むことをお勧めする。目から鱗が落ちます。
同じく新潮新書、ビートタケシが東条英機を演じたドラマの原作、保阪正康著「あの戦争はなんだたのか」をあわせて読むことをお勧めします。
昭和16年12月1日 対米英蘭開戦の件のご前会議に出席していたほぼ全員が、天皇陛下を筆頭に対米戦争の無謀さと、敗戦を予想していた。東条首相ですら3年以上は難しい事を十分承知していた。
昭和天皇は、東条を開戦回避の切り札として、組閣を命令したのであった。そして東条内閣は戦争回避の天皇の意思の実行を目的とした布陣であった。軍部を抑制し日米交渉の継続による戦争回避であった。賀屋興宣蔵相、東郷茂徳外相はもちろんのこと、嶋田繁太郎海軍大臣など戦争回避派で占められていた。
軍部も参謀軍令部クラスでは一部を除き皆開戦を回避したかった。プロの軍人は勝てない戦争である事を十分理解していたのである。
AHR666Generation殿の「軍部が青くなった」との書き込みは誤解であります。
であるにもかかわらず、開戦へ流れていったのは実は、世論によるところが大きかった。特に夫や息子を大陸で亡くした女性や、労働者階級は開戦を強く支持し、朝日新聞をはじめマスコミが開戦への世論形成をしていったのである。軍部の若手将校はそういった世論に迎合していった庶民と心情が大差がなかったのである。
開戦をあせったルーズベルトが突きつけたとされるハルノートですら誤訳されたことにより、開戦が不可避となってしまったのである。開戦回避の抜け道もあったにもかかわらず太平洋戦争へ突き進んでいったのは時代の流れとしか言いようが無い。