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イエス様が十字架で死なれる間際に叫ばれたことばです。神の御性質を持ったかたが人間の苦しみを受けなければならない時です。しかし、イエス様は家族間で人間としては使わないことばを、母マリアに告げます。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこにあなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。ヨハネ19,26−27
イエス様の神としての御性質はこのように記されています。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も、権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物より先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
コロサイ1,15−17
御子とはイエス様のことです。イエス様は数々の奇跡をおこなわっれました。マタイの福音書に記されているその奇跡を順に追っていくとこのようになります。
らい病人をいやす。マタイ8,2−3
中風やみをいやす。マタイ8,5−13
熱病の者をいやす。マタイ8,14−15
悪霊を追い出す。マタイ8,16−17
風と湖を大なぎにする。マタイ8、24−27
中風の人をいやす。マタイ9,2−6
死人の娘を生き返らせる。マタイ9、18−25
12年間長血でわずらっていた女をいやす。マタイ、9,20−22
悪霊につかれたおしをいやす。マタイ9,32−34
片手のなえた人をいやす。マタイ12,9−13
悪霊につかれた盲人で口もきけない人をいやす。マタイ12,22−23
5つのパンと2匹の魚を5千人に給食する。マタイ14,19−21
イエス様が湖の上を歩く。マタイ14,26−27
多くの病人をいやす。マタイ14,35−36
カナン人の女の娘から悪霊を追い出す。マタイ15,22−28
足なえ、不具者、盲人、おしの人をいやす。マタイ15,30−31
7つのパンと少しの魚を、男だけで4千人に配る。マタイ15,34−38
イエス様がモーセとエリヤと話しをする。マタイ17,1−3
てんかん持ちの息子から悪霊を追い出す。マタイ、17−18
魚の口からコインを取り出す。マタイ17,27
大ぜいの人をいやす。マタイ19,1−2
二人の盲人の目をあける。マタイ20,29−34
予告なしに二人のしもべにロバを用意させる。マタイ21,1−6
いちじくの木を枯らす。マタイ21,18−22
イエスの死後神殿の幕が上から下へ真っ二つに裂け、地が動き、岩が裂け墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。マタイ27,50−53
死後三日目にマグダラのマリアと他のマリアが御使いにイエスの墓で出会う。女たちが弟子たちに知らせる途中でイエス様と出会う。11人の弟子たちはガリラヤの山でイエス様と会い礼拝した。マタイ28,1−20
これだけの多くの奇跡をおこなわれた方が神であられることは、間違いありません。なぜ父なる神はイエスを十字架で殺すことを、許されたのでしょうか。それは主なる神から与えられている律法と関係があります。この律法を人間が守ることが出来なく、神の前では不義なるもとされているからです。律法の時代に神は人の罪の贖う方法を定められています。この贖罪の規定はこのようにあります。
あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。
出エジプト記29,15−16
この雄羊の役目をイエス様ご自身が私達罪人のために身代わりとなって十字架で多くの苦しみを受けて死なれたのです。十字架の刑罰について、良く説明されているのがこれです。
十字架はローマ帝国における刑罰の一つで、奴隷、外国人、ローマ市民権のない下賤な犯罪人に課せられた。これは残虐な時代に工夫された最もむごたらしい、最も屈辱的な死であった。釘は両手両足を刺し貫き、犠牲者は苦悶、飢え、耐えられない渇きやけいれんを伴う激痛にさらされた。死は通常4日から6日の後に来た。イエスの場合は6時間であった。(聖書ハンドブック ヘンリー・H・ハ−レイ著より引用)
パウロは律法と神の義に関してこのように書いています。
なぜなら、律法を行うことにによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ3,21−24
この部分でやはり十字架の贖いのことを説明してます。さらにパウロは神の義についてかく記しています。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を表すためです。というのは、、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、またイエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除けられました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。ローマ3,25−28
十字架の贖いに関して他の個所ではこのようにあります。
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体きよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。ヘブル9,12−14
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。ヘブル9、26
これでイエス様の十字架の死の意味がご理解いただけたはずです。
尊いイエス様の御名を讃えます。
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