http://www.asyura2.com/09/jisin16/msg/879.html
Tweet |
スリランカ(04年)
2011/4/7 15:59
【ASIA TODAY】
日本の震災は先進国型、スマトラ沖地震との比較
2004年のインド洋津波の被害を受けた農地は復旧に数年を要した。建物が多い日本はがれきの量も膨大で、復旧にさらに多くの年数が必要になる見通しだ。また、職住近接型ライフスタイルだった東南アジアの被災地と異なり、日本は家族同士が離れていたケースが多く、頼みの綱の携帯電話も概して通じなかった。WSJ日本版の小野由美子編集長と山口肇記者が2つの震災の違いを語る。
先進国の被災、困難伴う――スマトラ沖地震との比較
2011年 3月 30日 17:11 JST
http://jp.wsj.com/Japan/node_213086
【仙台】カメヤ・ヨシさんは、西側世界の居心地のよい都市郊外にいても場違いには見えないだろう。彼は、自分の冷凍食品会社があったがれきの近くに立ち、明るいブルーのNorth FaceのジャケットからiPhone(アイフォーン)を取り出し、自分が写した津波被害の写真に目を通す。
自信に満ちたこの43歳の国際人は、食料は十分にあると話す。しかし、海苔を巻いたおにぎりが配られると、彼の手は、お礼の言葉が口から出るよりも早くそれをつかみ取った。
カメヤさんのこの飢えた手は、日本の悲劇が持つ多くの不安な面のひとつを象徴している。今回の震災は、世界で最も富裕な一国の基盤を揺るがし、豊かだった被災者を失望に陥れるとともに、最も準備の行き届いた場所でも天災は免れないことを浮き彫りにした。住民の家やポケットに装備されていた先進国の技術も、たいして役には立たなかった。
本稿の記者は、2004年のスマトラ沖地震の際もウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の取材にあたったが、当時の震災は今回とは違っていた。スマトラ沖地震の犠牲者数は、インドネシア、スリランカなどを中心に約20万人を数え、東日本大震災をはるかに上回った。
しかし、ほかの意味においては、スマトラ沖地震はまだ与し易かった。実際、多くの地域で、見かけほどの損害はなく、携帯電話や車、複雑なサプライチェーンといったテクノロジーへの依存が比較的低かったことが、生存者に有利に働いた。
スリランカでは、海辺のリゾートと漁村が失われた。しかし、地域社会が小規模で貧しかったため、損害は海辺の集落にとどまる場合が多く、復興も容易だった。しかし日本では、車や家屋などがれきの山が内陸に向かって何キロも続く。なぜなら、大津波の到達がスリランカよりも早かったこと、また、スリランカの被災者は、車やテレビ、二階建ての家、キッチンテーブルや衣服で満杯のクローゼットなど、豊富な物に恵まれていなかったことが挙げられる。
エコノミストの予想では、日本の津波による被害額は最大で3000億ドル(約25兆円)にのぼる。インド洋津波の被害額は100億ドル程度だった。
スリランカのコッガラに住む当時24歳だったロスマンド・ウィクラマナヤケさんは、巨大津波の後、父と母、妹と弟を砂に埋葬しなければならなかった。1年後、残された家族の生活は基本的に通常に戻った。
車一台分のサイズの小屋を建て直し、小さな店を再開するには、政府から支給された2、3千ドルで十分だった。家族の悲しみを推し量るのは不可能だが、経済的には彼らの簡素な生活を元に戻すのは比較的簡単だった。
また、ウィクラマナヤケさんのような被災者は、当初の緊急事態を過ぎて、食料についてあまり心配する必要はなかった。彼と生活物資の生産者の間には、仲買人が1、 2人いるだけだった。魚商が死んだり、市場が流されたら、彼はほかを当たればよかった。津波被害を免れた地域の鶏肉、ココナッツの農家は決して遠くはなかった。
ところが日本では違う。ほかの富裕国と同様、住民は、衣食を満たしてくれる農家や工場から切り離されている。先進国の消費者は、りんごやミルク、コメ、靴、石けんといった品々がどのように店の棚に並ぶのか考えないことが多い。今、停電や高速道路の閉鎖、鉄道運行の停止などで、絶え間ない製品の流通は遮断されている。
たとえば、コンビニエンスストアのセブンイレブンでは1日に3回以上配送が行われている。この「ジャストインタイム」配送が、限られた陳列スペースでのより多くの物品販売を可能にする。
震災からわずか2日で、福島のセブンイレブンは、アイスクリームとアルコール度数の強い酒を除き、商品棚がほぼ空になった。3日目までには、大半のコンビニが閉鎖し(沿岸から約30キロ地点でも)、数少ない営業中の商店には長蛇の列ができた。今も被災地の店はほとんどが休業している。
携帯通信端末への依存度が高い日本にとってのもうひとつの問題は、連絡を取れない辛さだ。スリランカでは、生存者の大半がすぐに再会を果たした。若干の移民労働者を除けば、親戚や友人は近くに住み、家から遠くに出掛けることはまれだった。
震災から2週間以上が過ぎた今でも、日本では多くの人々が家族や友人の安否がわからない状態が続いている。津波が襲った時、家族は、家から何キロも離れたところ――車や交通機関で行く場所――で働いたり、買い物をしたりしていた。
交通機関が被害を受け、多くの人はがれきの中の帰宅が困難となった。携帯基地局の停電で、携帯電話もつながらない。震災後間もない頃、大切な人の安否を確認するため、携帯の電波のアンテナが1本でも立つことを祈りながら携帯電話を見つめる多くの人が路上に溢れていた。
そして1週間後、携帯電話も消えた。電池が切れてしまったのだ。
日本では、人々の帰宅や通信手段の改善が進むなか、再会のストーリーはまだなお続いている。しかし、この苦しい別離は、津波が単に人々を遠く隔てたのではない。彼らの生活が、貧しい国よりもさらに遠く、彼らを散り散りばらばらにしたのだ。
とはいえ、日本の高度な経済発展がすべて裏目に出たわけではない。日本で過去最大級の地震であったにもかかわらず、津波に呑まれなかった建物はほぼ無傷だった。日本の建築物の耐久性は、日本の建設業界の厳格な建築基準の証しだった。
また、04年のスマトラ沖地震と異なり、多くの日本人が小さい頃から地震が起きた時に何をすべきか教えられてきた。彼らは何年間も避難訓練を行い、市町村の防災マップに書かれた高台に避難する練習をしていた。このような訓練がなければ、さらに数千人の命が失われたことだろう。
しかし、日本経済を立て直すには、高い建築基準と震災教育以上のことをしなくてはならないだろう。橋やボート、家の再建でほぼ事足りるスリランカと違い、日本は、何万もの家屋・車のみならず、道路、電力網、港湾を修理・再建する必要がある。そのうえで、携帯電話、ケーブルの接続、インターネットが必要になる。キリンビールからソニーのビデオテープまで、様々な製品の生産工場も修復しなければならない。その次に、ラジアルタイヤからおにぎりまで、あらゆるモノを運ぶ複雑な物流網を徐々に復旧させる。
27日の仙台で、日本の消費者に予想外のニーズがあることが示された。近くのスターバックスとマクドナルドの休業が続くなか、営業を再開したミスタードーナツの前に長い行列ができたのだ。しかし、人々が求めていたのはドーナツそのものではない。ひと休みするために喫茶店に立ち寄るという、日常のありふれた経験だった。
また、宗教の役割も、スリランカと日本の津波に対する反応で対照的な違いをみせた。
スリランカでは、人々は津波を避け、寺院やモスク、教会に逃げ込んだ。宗教指導者らは毎日、新聞に津波が何を意味するのかについて話した。日本では、寺や神社に逃げた人はほとんどいない。
400年の歴史を持つ仙台の寺の僧侶であるミウラ・マサト氏は、人々は、現実的な必要性から、仏に助けを求めないと語る。ミウラ氏は「彼らはただ、店に群がるだけ」と語った。
原文: Two Tsunamis
記者: ERIC BELLMAN
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。