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道路が完全に地割れを起こしていた。岩手県陸前高田市 〔PHOTO〕岡田康且(以下同)
津波から決死の逃走、そして消えた集落
被災地からの報告 泣くな東北、春が来る
2011年03月28日(月) 週刊現代
一瞬にしてすべてが失われた。財産も家も車も船も、多くの命までも・・・。突如として牙を剥いた自然の猛威に、人間はなすすべもなく惑い、泣いた。しかし我々は、このまま負けるわけにはいかない。
俊足自慢も津波に勝てず
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船が浜から1km内陸まで運ばれた。岩手県大船渡市
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最も激しい被害を受けた街のひとつ、岩手県陸前高田市。避難所となった小学校の校庭から、惚けたように海を眺めている女性がいた。顔も腕も傷だらけだ。
「地震がきた時、私は父親のオムツを買うためスーパーにいました。あまりの揺れの大きさに、買い物袋を放り出して車に乗り、逃げようとしました。『津波が来るぞー!』という叫び声が聞こえました。道路に出ると車が渋滞して動けない。降りて前の車を覗くと、誰も乗ってなかった。
その時、背後から音がしたんです。これまで聞いたことのない、ゴウォォーという地鳴りのような音でした。振り返ると、スーパーの先のホテルが津波にのみ込まれるのが見えた。誰かに『逃げろっ!』と言われて、我に返って高台に走りました。水がどんどん迫ってきて、気づいたら腰の高さで、次の瞬間、私は津波にのまれていました」
意識を回復したのは、民家の屋根の上。全身ずぶ濡れだった。
「目と鼻の先にあるはずの父親の家が、なかった。中には父と犬がいた。知らない人に救助された時、初めて脚から出血していることに気づいた。夫とも連絡がつきません。職場の人にきいてもわからないって。どこかで寒くて震えているのでしょうか。私はどうしたらいいのでしょうか。悲しいはずなのに、気持ちが昂ぶって悲しみさえ感じられないのです。夫も父も小太郎(犬)も、みんないなくなってしまった」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2322
同じ陸前高田で、手をつないで歩く兄妹がいた。瓦礫の中、あちこちでしゃがみ込み、土を掘り起こす。兄は10歳くらいか。動きは緩慢で顔にも生気がない。
「お母さんを捜しています。どこにいるのかわかりません。たぶん、このあたりだと思うんです」
人々の命を奪ったのは地震そのものではない。津波だ。現場に立つと、それが痛いほどわかる。海沿いのエリアは更地に。海から少し離れると、ヘドロまみれの瓦礫と車と船。そして視線を丘の上に向けると---そこには平時と変わらず整然と住宅が並んでいる。
わずか数百mの差が天国と地獄を分ける。それが津波災害なのだ。
逆に言えば、九死に一生を得た人は皆、「津波から逃げ切った人」だった。その決死の逃走劇を、いくつかここに記しておこう。
「津波に追っかけられて、こりゃダメだ、と覚悟しました。あんな恐怖生まれて初めてだった」
そう語るのは岩手県宮古市の大倉豊一さん(53歳)。地震が起きた時は、堤防から200mほど離れた自宅にいた。
「これまで津波警報が出てもせいぜい1mだったから大丈夫だろう、と堤防に向かった。そしたらどデカい津波が沖からやってくるのが見えた。堤防には他にも人がいたけど、クモの子散らすように逃げ出した。今もサッカーやってて脚には自信がある。でもその脚が震えてしまって自分の脚じゃないみたいだった。
堤防を軽々と越えて、津波が追っかけてきた。全速力でダッシュしても波のほうが速い。追いつかれる、もうダメだ! と思った瞬間、自宅へと曲がる横道が見えたので夢中で駆け込んだ。そしたら、ゴワーッて音立てて水が大通りを流れてったんだ。横道に水が入ってくるまで、たぶん数秒だけど時間があった。そのスキに家に飛び込み、2階に駆け上がったんだ」
助かった今だからこそ、「津波にフェイントかけたったよ」と笑うが、あと数秒、いや1秒曲がるのが遅ければ、大倉さんはここにいなかった。
車のドアは水圧で開かない
車に乗ったまま、津波に巻き込まれ命を落とした人も数多い。宮城県気仙沼市の消防団員・菅原寿則さん(41歳)の話をきこう。
「地震直後に海岸まで行き水門を閉め、マイクで『危険ですから高台に避難してください』と叫んでいました。他人を誘導していたくせに、津波への危機感が足りなかった。川が見る間に溢れて、慌てて車に戻ったんです。今考えると自殺行為でした。乗り込んでキーを回し、バックさせて発進しようと思ったら、すでに水に囲まれていた。そのまま流されて、ハンドル切ってもアクセル踏んでもどうしようもない。逃げようとドアを力一杯押しても水圧で開かない。もう、恐怖に潰されそうだった。
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瓦礫だけが広がる町で遺体の収容作業が粛々と進められていた。大船渡市
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その時、何かがぶつかったのか、助手席の窓がガシャンと割れた。大量の水が入ってきたけど、無我夢中でそこから這い出すことができたんです。軽自動車だから狭い窓だけど、どうやって出たのか、もう思い出せんね。車の上に乗り、横を流れる家の屋根に飛び移った。
四つん這いになってしがみついたよ。一面洪水の状態で、助かるためには山に流されるしかない。無意識に『山へ、山へ!』って大声で叫んでました。願いが通じて山に流され、杉の木にしがみつき、枝から枝を猿みたいに伝って高台に避難しました」
彼とは別に「パワーウィンドウは開かないけど、手動でクルクル回す窓だったから開いた。古い車に乗ってて良かった」と語る生還者もいた。生死の境は、かくも微細なところに宿る。
船が無惨に陸に横たわる光景が、テレビでも数え切れないほど流れた。津波の時、「船を沖に出す」のは漁村の常識だという。だが、そんな時間もない漁師がほとんどだった。
岩手県山田町の平野正雄さん(63歳)が語る。
「朝から漁をして、岸壁に船を着けたかどうかの時に地震があった。サイレンが鳴って『津波が来る』という無線も入ったので、船を出さねば、と慌てた。
仲間4人を集め、沖に向けて進み始めた瞬間、海がモコモコと盛り上がって押し寄せてきたんだ。船は木の葉のように揉まれ、湾の中をグルグル回った。
海のことは知りつくしてるつもりだったが、俺の経験がまったく通じない波に初めて遭った。波を読んでエンジンを開いたり緩めたりしながら、なんとか沖を目指した。振り返ると、浜に津波が襲いかかるのが見えた。ドーン、ドーンと音がして、家が崩れて煙が舞い上がった。ただこっちも必死だから、とにかく沖に出なきゃいけない。なんとか落ち着いた頃には、もう浜が見えなくなっていた」
津波警報が出ている間は浜には戻れない。結局、船上で夜を明かし、翌朝9時に港に戻った。
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「集落が消えていた。防潮堤がサイコロみたいに寸断されていた。何人もの漁師が行方不明になった。港は壊滅だ。ただでさえ後継者がいないのに、網も流され、漁はもうできねえ。でも、助かっただけでありがたいと思うしかない」
これまでの談話にもあったが、三陸沖の人々にとって津波は「身近」な存在だった。古くは明治29年の三陸大津波。そして昭和8年3月3日、3000人以上の命を奪った昭和三陸大津波。三陸の小中学校では3月3日に避難訓練を行うところが多い。
今回、この身近さが仇となった側面がある。前出の大倉さんが振り返る。
「小さい頃から、『地震が来たら山に逃げろ』って、耳にタコができるほど親や祖父母に言われてきた。我々のようなハマの者にとって地震=津波というのは常識なんです。だから、堤防も補強してある。
実はあの大地震の2日前にも地震と津波があった。津波は20~30cmだった。あれがよくなかったな。11日も、『揺れは大きいけどせいぜい1mか2mだろう。それなら大丈夫だ』と高をくくった奴は多かったと思うよ」
なぜなら、大倉さんの住む宮古には「自慢の堤防」があったからだ。
昭和三陸大津波の教訓を活かし、宮古では住民の寄付を募って防波堤を造ることにした。少しずつ建て増しをしていき、昭和53年には、港をすっぽりと覆う総延長2433m、高さ10mの日本一の防波堤が完成。その町の地名をとって「田老万里の長城」と呼ばれ、スマトラ沖地震後には各国から視察団が訪れた。住民たちは誇らしく思った。
大津波はその誇りもろとも、宮古の人々の命をあっけなく流し去った。
「昭和35年のチリ地震でも、田老の長城はビクともしなかった。私たちは『絶対に大丈夫。この堤防が越されるわけがない』と思っていた。今思えば安心しきって逃げない人がいたことが、被害の拡大につながったと思います」(地元消防団の佐藤勝行氏)
最近は三陸大津波やチリ地震を知らない若者も増えていた。佐藤氏が続ける。
「彼らは堤防の外、海側に家を建てるんです。地価が安いからでしょうね。宮古市も宮古市でなぜか建築許可を出してしまい、最近では50軒以上の民家がありました。そこは跡形もない更地になりました・・・」
テレビが映さない被災集落
もう一つ、三陸地方の特徴を挙げるなら、その入り組んだ湾の形だろう。風光明媚なリアス式海岸---平時は観光の目玉となったその地形が、今回、深刻な情況をつくり出した。
孤立集落、である。
'70年の岩手国体を機に海沿いの国道45号線が整備されたものの、各湾の先端に行く道路はまだまだ脆弱だ。津波によって45号線が瓦礫に覆われ、各湾への道もズタズタになると、報道陣はもちろん、自衛隊からも見捨てられた集落が生まれてしまう。
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本誌は車を降りて道なき道をゆき、いくつかの孤立集落まで辿り着いた。
岩手・陸前高田市から宮城・南三陸町に南下していると、農道で水汲みをしている男性に会った。彼の案内で通行止めの国道を外れ林道を抜けると、集落が現れた。気仙沼市本吉町だ。
「この町は、被害の状況は見ての通りです」
その男性、菅原正さん(42歳)はため息をついた。見渡す限りのヘドロに瓦礫の山。住民の半分以上が行方不明だ。
「でも気仙沼中心部や陸前高田と違って、これまで報道されたことがほとんどなかった。たしかに目立たない小さな町です。でも、ここだって、町が一つなくなったんです。こうして報道の方が入ることで、少しでも水や食料が届くと嬉しいです。子供たちだって日に2回のおにぎりだけでは参ってしまう。励まし合って何とかやってるけど、現実は深刻なんです。本吉のことを伝えてください。お願いします。本当にお願いします」
振り絞るように言って、菅原さんは我々に深く頭を下げた。
岩手県山田町の船越半島にも200戸あまりの孤立集落がある。地震の2日後、本誌記者は瓦礫の中に生存者を捜す消防団の若者と言葉を交わした。
「携帯はまったく通じないし、ライフラインはもちろんすべて止まっている。おまけにラジオの電波も弱いので情報が何もない。自衛隊員も来ないし、警察官も来ません。こちらの情報を伝える術もない。衛星電話や食料や水をヘリコプターで投下してくれたら非常に助かるのですが、それを伝えることもできないのが残念です。
昨日は壊れた家の下から3人の遺体を収容した。一体何人が亡くなっているのか想像もつかない」
それだけ語ると、彼はまた作業に戻り、黙々と瓦礫との格闘を続けた。
救援に当たる人員も物資も無限ではない。現段階ではすべての被災地に手が回らないのも、仕方がないのかもしれない。しかし、NHKが取材に入る避難所にばかり救いの手が差しのべられるのは、あまりに不公平ではないか。菅原さんもこの若者も、背中でそう訴えていた。
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避難所には安否確認用名簿を見にくる被災者の姿が絶えない
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少し視点を変えると、孤立はしていないが、完全にメディアから忘れ去られている被災地があることに気づく。千葉県旭市。海沿いが全滅して10人以上の死者を出した。
東北ではない。死者の数も比較すれば少ない。しかし、だからといって見捨てられる道理はあるのか。被災者たちは、記者を取り囲んで言った。
「東北と原発、そればっかり。千葉と茨城は完全に忘れ去られている」
「テレビ見てると給水車が来てどぼどぼ水を出している避難所がある。ここにそんなの来ないよ。役場に言ったら、1Lのペットボトル持って取りにこいって。ウチにはそのペットボトルがないんだ」
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もう一つ、彼らは隣人である東京都民の一部に対して、心底ガッカリしたのだという。
「なんでガソリン買い込んでるの? 電車が走ってるんだからいいじゃない」
「東京に住んでる親が、東京じゃもう米が買えないって、うちの近所で注文してました」
被災地の支援格差。これは阪神大震災の時も問題になった。そして、今回の災害範囲の広さと甚大さは阪神の比ではない。当然、格差も阪神どころではない。
「あるのは借金だけだ」
すべてを失い、とてつもない悲しみに沈み、支援すらされない。
だが、そんな極限状況でも、人間は光明を見いだすことができる。それを証明してくれる孤立集落を、本誌は訪ねた。
「海岸に1000体以上の遺体」と報じられた宮城県牡鹿半島の付け根、石巻市にその避難所はあった。
名前は明友館。元々は市のコミュニティセンターだった。実はここ、行政が指定する避難所ではない。そして、本吉町や山田町と同じく、道なき道を進まないと辿り着けない。だからマスコミは来ない。
被災者たちは記者を招いて言った。
「これ食べなせ。あんたらも、寒い中何も食べてないんだろう?」
カセットコンロで温めた雑炊を差し出してくる。「あんたたち、初めて取材に来てくれたから」と記者の手を握る。
明友館のリーダーは32歳の青年・糸数博さん。同センターの職員だった。
「他の避難所では、やはり家族単位でかたまって窮状を訴えるケースが多いときいています。ここは違う。皆が家から食料を持ち寄って、それをすべての人が分け合うのです」
もちろん電気も水道もガスもない。真っ暗な夜には氷点下まで冷え込む。それでも人々の心に温かい火が灯っている。
雰囲気作りに一役買っているのが、「社長」と呼ばれる今野雄夫さん(56歳)。地元名物「かき飴(牡蠣のエキスが入った飴)」を製造する会社を経営していた。ヘドロに埋まった在庫を掘り起こし、洗って避難所に持ってきた。
「工場も壊れた。もう二度と作れん。気張って登録商標とったのに(笑)。せっかくだから持ってけ」
そう記者に押しつける。
「もう何もない。家もない。会社もない。車もない。あるのは借金だけだ(笑)」
でも、と社長は続ける。
「俺らには命がある。せっかく生き残ったのに、下向いてちゃダメだ。さっきも『みんなで居酒屋でも始めるか』って盛り上がってたとこなんだ」
明友館の2階には酒も置いてある。記者が訪ねた震災6日目、それを祝ってというわけでもないのだろうが、彼らは被災後、初めて酒を飲んだ。
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町長以下、行政幹部がほとんど津波にさらわれた岩手県大槌町では、役所職員で一人残った佐々木健さん(53歳)が避難所のトップとして毎朝集会を開き、岩手県庁に意見を伝えている。
「夫に死なれた若い妊婦がいたり、どこも極限状態。でも誰かが指揮をとるしかありません」
命があるだけ、自分は幸せだ。そう語る被災者に何人も会った。もう一つ、誰もが思っている。
あなたが生きてさえいてくれたら---。
暗く沈んだ避難所が、花が咲いたように明るくなる瞬間。それは、愛する人との再会劇だ。
「なんで連絡くれなかったの! もう死んじゃったかもしれないって・・・。この子を抱いて」
岩手県大船渡市の盛小学校。生まれたばかりの赤ん坊を、母親がおじいちゃんに抱かせる。祖父の目からとめどなく涙が流れる。
生まれたのは地震のわずか2日前。退院を待ちきれなかったTさん(62歳)は、11日、県立大船渡病院に孫の顔を見に行った。
地震に襲われたのはちょうどその時だった。泣きわめく娘と孫に覆い被さる。ようやく揺れが収まると、院内に津波を報せるアナウンスが流れた。
「その瞬間、自宅にいる妻と幼稚園にいる上の孫のことが心配になった。娘に『病院は安全だから、ここにいなさい。お父さんは家に帰ってお兄ちゃん(上の孫)を保護する』と伝え、なかば放置するような格好で病院を去ったのです」
自宅に戻る途中、津波に行く手を阻まれ、車を捨てて逃げた。娘は行方不明になったTさんを「死んだ」と思っていた。
盛小学校の避難所には新生児室がある、という情報を知ったTさんは這うように小学校を訪ねた。そして最愛の娘と孫に再会した。
妻と上の孫は無事だったが、実は娘の姉、つまりTさんのもう一人の娘は、いまだ行方不明。孫との再会の直後、Tさんは「最悪のケースも考えている」と表情を曇らせた。
東北に育ててもらったから
避難所にいる以上、歓びだけを持っている人はいない。家を失い、家族を失った。だからこそ、再会を果たして流す涙にはかけがえのない価値がある。
そして、そうした歓びを見守る人がいる。
避難所となっている、陸前高田市立第一中学校の総合案内を務める、30代の女性はこう語る。
「私は市役所に勤務していて、職員は屋上に駆け上がった数十人以外、全員亡くなりました。生き残った私たちは皆、こうして避難所を運営する役割についています。私たち役所の職員の多くも、まだ家族の安否を確認できていません。私も母がまだ見つかっていなくて・・・」
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避難所には幼児や乳児の姿も見られる
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彼女が座る総合案内机の前で、毎日何人かの人が歓びの声を上げる。あるいは泣き崩れ、手を握り合いながら、無言で見つめ合う二人がいる。
彼女は母親が生きているという希望を捨てているわけではない。しかし新しい一日が過ぎゆくたび、希望の光はか細くなっていく。
それでも彼女は言う。
「でも・・・、こうやって動いているほうが、楽な部分があるんですよね」
彼女には「地域に育ててもらった」という気持ちがある。それは大半の東北人が持っている、都会人が失ってしまった感覚だ。
この地域のために、東北のために、悲しみをこらえて顔を上げる。取材を通して、本誌はそんな数多くの東北人に出会った。
地震から6日目の16日、各被災地は降り積もる雪で白く染まった。夜の気温は氷点下を下回った。被災者たちは身を寄せ合って寒さを凌いだ。
おそらく、この冬最後の寒波だろう。もうすぐ東北にも春が来る。
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