02. 2011年3月30日 02:52:11: SZwJuiHZ9o
被災地で続く肉親・友人捜し2011年 3月 29日 18:30 JST ウォール・ストリート・ジャーナル 【宮城県名取】「空港ボウル」は、閉鎖して数年のボウリング場だ。しかし、28日、駐車場は自動車で一杯になり、一台の霊柩車が止まっていた。 --------------------------------------- 遺体安置所となった空港ボウル(23日) http://jp.wsj.com/var/plain_site/storage/images/media/images/missing/4467288-1-jpn-JP/missing_image_Col3wide.jpg ------------------------------------- 今、「空港ボウル」の25本のレーンの仕切りの上には、100以上の白い棺(ひつぎ)が置かれている。人々は棺が置かれていないレーンを行ったり来たりして、愛する者を確認するために棺をひとつずつ覗き込む。 地震と津波がこの地域を襲ってから17日間が経つが、まだ何千もの人々が父や母、親友、そして結婚相手の行方を探している。 28日時点で、この震災による死者は1万0901人、行方不明者は1万6621人となった。日本政府は死者・行方不明者ともさらに増えると予想している。一家全員が犠牲になれば行方不明者の登録も行われないため、遺体の回収がさらに膨らむのは明らかだ。ただ、行方不明とされていた人が、他の地域で生存が判明するケースもある。 オオニシ・カズヤさん(31)は、「空港ボウル」で母親を探したがみつからなかった。オオニシさんは、母が奇跡的に生きていると信じたい、としながらも、こんなに時間が経ってしまっては不可能に近い、と語った。彼は、今まで「有難う」と言えなかったので、最後にもう一度、母の顔を見たいと話した。 遺体を発見し、確認する長く辛いプロセスは、多くの人にとって終わることのない作業かもしれない。大地震の後、がれきが撤去されれば、遺体の発見が容易になるケースもあるが、津波によって遺体は遠く広範囲まで運ばれる。永遠に戻って来ない遺体もある。今回の津波では、自宅から離れた場所で何トンもの土砂に埋もれている遺体もあるとみられ、生き残った家族が見つけるのは不可能な可能性がある。 「空港ボウル」は、仙台に隣接するこの地域を通る幹線道路沿いにある。入り口にある飛行機とボウリングのピンの看板は、数年前にネオンが消えた。壁には縦横無尽の落書きがある。 「空港ボウル」で肉親捜しをしている多くの人々と同様、オオニシさんはまず、肉親を近所で探そうとした。しかし、彼はすぐにあきらめた。彼が母、妹、妻と暮らしていた海辺の町にはほとんど何も残っていない。巨大な津波で多くの住宅が押し流され、500人以上が犠牲になった。 1週間前、オオニシさんは「空港ボウル」で妻の遺体を見つけた。それ以来、彼は日に二度、ここに通っている。葬式とお墓で「母を妻の横に眠らせてあげたい」からだ。 「空港ボウル」には、毎日、遺体が運び込まれる。ボウリングの靴貸出カウンターの前にいたボランティア関係者によると、大体、1日の遺体搬入数は25から30で、10程度が身元確認後、搬出されるという。 「空港ボウル」と、車で15分ほどの名取市役所は、無料のシャトルバスが運行している。市役所では、人口約7万人のうち多くの住民の捜索が始まっている。市役所の1階は、避難所の分厚いリストを閲覧したり、掲示板に貼られた手書きの数百のメモを見たりする人々でごったがえしている。 -------------------------------- 瓦礫となった自宅から見つけた所持品を横に呆然と座る男性(岩手県山田町) http://jp.wsj.com/Japan/node_212391/(tab)/slideshow ------------------------------- エンドウ・カツミさん(73)は津波で家を失い、名取市文化会館のロビーで他の数百人の避難者と生活している。エンドウさんは、友人や近所の人の安否を調べるため、市役所と「空港ボウル」を毎日訪れている。 地震が起きた時、エンドウさんは津波が来ることを知らせるために近所の家々を走り回った。約1kmも内陸のこの場所に津波が来ることを信じない人もいた。もちろんエンドウさんの知らせを受けて逃げる人もいた。エンドウさんは津波にのまれたが、松の木につかまり、一命を取りとめた。その後、津波に3km以上流されてきた漁船まで泳いで行った。彼の妻は、家の車で命からがら逃げた。 文化会館でエンドウさんは小さなノートを取り出した。彼はそれに友人や近所の人から聞いた内容を書き留めている。彼はページをめくりながら、約15人が死亡か行方不明となっている、と教えてくれた。 エンドウさんは、医師から、血圧が高く、静養が必要だと言われた。しかし、以前農業を営んでいたエンドウさんは、住民の情報集めに一日を費やしている。 11日午後の地震発生時、エンドウさんと妻は親しい友人とお茶を飲んでいた。一緒にお茶を飲むのが日課だったその友人は、自分の車で逃げた。友人がその後どうなったのかはわからない、とエンドウさんは涙をぬぐいながら話す。 多くの人々の肉親・友人探しは、被災地に点在する急場しのぎの遺体安置所で結末を迎える。「空港ボウル」の入り口の、オレンジ、黄、緑のボールの列の側には、新しい遺体がどのレーンに置かれているかを示す掲示板があった。28日分の遺体はFレーンとGレーンだった。 「Amusement Space」と英語で書かれた古いプレートの下には別の表示があり、遺体に関する情報が書かれている。遺体の多くは名前や住所が判明しているが、判明しない場合は「女性、20歳前後、身長155cm」や「女性、60歳前後、セーター着用」など、簡単な情報が添えられている。 ショウジ・カズヒロさん(37)とその兄弟は、両親の捜索をあきらめた後、4日間かけて隣人を探した。彼らは結局、母親の遺体を確認することができたが、父親はまだ行方不明となっている。彼らは「空港ボウル」に毎日足を運ぶ。会社員のショウジさんは、父親が見つかるまで休みを取ったという。 「父を見つけるまで探し続ける」とショウジさんは言う。 ショウジさんの横を搬出される白棺が通り過ぎる。その後を、肉親捜しを終えたばかりの家族が追って行く。 記者: Eric Bellman http://jp.wsj.com/Japan/node_212391 |