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2011年3月11日、宮城県北部の三陸沖を震源とする大地震が発生した。気象庁によると、マグニチュードは国内観測史上最大の9.0。津波や火災で多数の死傷者が出て、壊滅的な打撃を受けた医療機関も多数に上った。そうした悲劇的な状況の中でも、大勢の医師が、被災者に対する医療に尽力している。前例のない被害をもたらした大地震にも負けず奮闘する医師の、現場からのリポートを紹介する。
3月11日の東日本巨大地震の発生時、八戸市民病院救命救急センターで勤務に当たっていた今明秀氏。同センターはドクターヘリやドクターカーが配備され、災害派遣医療チーム(DMAT)として稼働できる部署。地震発生以降、どのような状況に直面したのか、今氏の許可を得て掲載する。
八戸市民病院救命救急センターのスタッフブログ「青森県ドクターヘリ スタッフブログ」
http://doctorheli.blog97.fc2.com/
3月11日14時46分に発生したマグニチュード9の地震は八戸へも到達した。
地震到達の36分後に、津波の第一波が仙台から順に北上し八戸港に接近した。
さらに29分後の16時51分、最大津波が八戸を襲った。
その70歳代男性は逃げ遅れていた。
男性の住宅は常識では津波が来ないくらい、海から離れていたはずだった。
仙台から順に北上してきた津波だったが、その勢いは失われていなかった。
男性のいた1階に海水と泥が勢いよく侵入した。
あっという間に、胸まで水につかった。
流されないように、踏ん張り、つかまった。
家族も同様に、逃げ遅れていた。
津波の勢いが弱まった頃、家族が男性を探した。
一階で水に浸かっていた。
なんとか男性を2階に引き上げ、そして屋根に出した。
119番通報した。
そのころ、八戸消防は沿岸警備に全職員が出動。
八戸消防団も警備していた。
救急車は八戸市の北はずれの海岸から離れた男性の家に出動した。
住居の一階はまだ浸水中だった。
救急隊は土手からはしごを使って、となりの家の屋根を経て、男性の居場所に近づいた。
・・・・
一方、八戸ERには、徒歩の患者、救急車の患者、自家用車で乗りつける患者など、
徐々に増えていた。
病院玄関の大ホールには、応急救護所用に黄色、緑のシートが敷かれた。
赤いコーンが設置され、一方通行の院内導線の案内矢印が張られた。
ERには17名の救急医が全員集合し、それぞれ災害出動用のつなぎ服に着替え、
安全靴にはき替えた。
院外出動班を3班結成し、それぞれ自己完結できる装備を整えた。準備には数分でOK。
いつものドクターカーバッグ1〜2個と、救急車同乗実習バッグでいいからだ。
ドクターヘリは、岩手県まで視野に入れて、情報収集を始めた。
津波は、病院となりを流れる新井田川に及んできた。
ヘリポートに出されていたドクターヘリEC135に被害が出ないように、高台にある八戸空港に向けて、機長と整備士だけで緊急離陸した。
「赤はERへ、黄色は人数が増えれば玄関ホールに、緑も同じ。トリアージした人数が増えればER前へ」。
すでに、数回大地震を経験している八戸だが、当時とは、大きくスタッフが変わっている。
しかし、津波襲来直後、救急車の搬入は途絶えた。
市民が119番通報する電話や携帯電話の通信手段を失ったからだ。
電話はすべて不通。歩いてくる患者がわずかにいただけ。
ラピッドドクターカーは、地震直後に出動はなかったが、
夕方津波襲来後に数件出動がありあわただしくなった。
夜間のラピッドドクターカー当番は丸橋医師。
夜になり、ダイレクトブルーPHSが鳴った。
丸橋医師は救急バッグを持って、八戸ER前の、ドクターカー1号ラブフォーに飛び乗った。
私もいっしょに乗る。
この少しまえ、ドクターカー2号エスクードは、岩手県にDMAT出動していた。
寝袋を持ち、医師3人、看護師1人、調整員1人で。
ドクターカー1号は、真っ暗な八戸市内を走った。ほとんどの信号機は停電で点いていない。
大きな交差点のみ信号機は健在だった。
国道45号線は、車で渋滞していた。マイクを使い、車に注意を喚起した。
途中、緊急走行の救急車とすれ違う。
「あれっ、あの救急車?」無線で呼びかけたが、別事案の救急車だった。
停電の中で、患者を収容できるのは、自家発電を備えた大病院だけ。
あの救急車も八戸ERへ向かうのだろう。
次に、救急車の赤色灯が200m先に見えた。
ドクターカーのドライバーは、アクセルペダルの踏み込みを緩めた。
救急車は、中央分離帯の向こう側を南下してきた。男性を救助した救急車だ。
我々は、分離帯のこちら側を北上。
20m進んですれ違ったが、次の交差点で、ドクターカーは救急車を追うべくUターンした。
ちなみに、左路肩に停車したその救急車は、まだ真っ白のボディーだった。
これから果てしなく続く災害救急の予感はまだこの時点ではない。
テレビでは、盛んに宮城と岩手の被害を告げていた。
2日後には、白いボディーの救急車が泥とすすで灰色に変わることを誰も予想していなかった。
ラピッドドクターカーは、救急車の後ろに停車した。
2車線の国道はいったん封鎖された。
丸橋医師は左前ドアから、私は、後ろドアから救急車に入った。
入れ違いに、家族が救急車から降りる。
救急隊は、いつもとおりに家族をドクターカーに誘導する。
「救急隊接触時、意識レベルはようやく開眼するJCS10です。しかし車内収容でCPA(CardioPulmonary Arrest;心肺停止)、心電図波形はPEA(Pulseless Electrical Activity;心電図波形はあるが、脈が触れない状態)です。CPR(CardioPulmonary Resuscitation;心肺蘇生法)継続。体は冷たく、偶発性低体温症によるCPAと考えました。血管確保できませんでした」と隊長。
「CPR継続、丸橋医師は気道を確認して」私。
「ラリンゲアルチューブで胸の上がり充分です」丸橋医師。
「瞳孔、首、胸の所見をとって」私。
私は、輸液路確保のため右腕にゴムを巻いた。
しかし、救急救命士がいうように、血管は浮き出ない。
ためしに、針を刺す。失敗。
左にも試みる。失敗。
「丸橋先生、ダメだ。ラインがとれない。内頸静脈を穿刺して、こっちは鼠径からやる」。
車の出発を隊長に上申した。
16G針とシリンジを丸橋医師に渡した。
私は揺れる車内でズボンを切って鼠径部を出す。
鼠径部にあった皺の2cm上で、陰毛の生えている辺りを狙う。
経験から、この辺をと言う具合で。
うまく行った。
暖めた輸液を全開で開始した。
アドレナリンを注射する。
そしてCPRは続けられた。
「アドレナリン入れて2分たちました。チェックパルスです」。隊長が言う。
「頸動脈なし、波形VF」
「車両停止!」隊長が機関員に告げた。
同時に、AEDのメッセージが出た。
「ショックが必要です。オレンジ色のボタンを押して下さい」
救急車は停止する。
波形は目で見てVF(心室細動)。
ショックボタンを隊長が押す。
体全体が5cmくらい持ち上がった。
すぐにCPR開始。
私は、あることを考えて、次に、ソケイ部動脈を狙った穿刺を行ってみる。
ソケイ部は静脈の外側に動脈がある。
反対に、頸部では動脈の外側に静脈がある。
揺れる車内で、動脈を狙う。
しかし、うまくいかない。
こういうときは、蘇生も全部ダメな気がしてくる。
「アドレナリン入れてから3分です」隊長が言う。
「低体温症による、VF。薬剤投与はしない。ショックのこれで終わる。CRPのみで八戸ERへ入れるよ」私。
丸橋医師と目が合った。
携帯で、ダイレクトブルーを鳴らした。
しかし、持っているauの携帯はつながらない。
隊長のdocomoを借りた。
つながった。
実は、このあと3日間auはつながらなかった。
「ドクターカー今です。ERの混み具合はどう?」私。
「いま、空いています」隆文医師。
「それじゃ、CPAに集中治療を開始するから。いいね」私。
「はい」隆文医師。
「PCPS(経皮的心肺補助装置)用意、復温する。接触時JCS10、車内CPA、現在VF」私。
「あと何分ですか?」隆文医師。
「45号線、横町ストアを右折した。あと5分」私。
「はい」隆文医師。
私は、再びソケイ部の動脈穿刺を試みる。
PCPSに必要なラインだ。
うまく行った。
救急車のサイレンが止むのより数秒早く。
サイレンを止めた、救急車は病院敷地内に入った。
内針の処理をする。
テープ固定はしない。もう時間がない。
指で動脈ラインを抜けないように固定する。
後ろのハッチが開くと、5名の救急医が近寄った。
「偶発性低体温症、最初はショック。PCPSの準備は?」私。
「まもなくできます」隆文医師。
19時38分、ER1ベッドに誘導された患者は、顔色が悪く、呼吸は停止。
どうみても、津波で死亡状態の雰囲気。その印象は、極度に冷えた体。
「ソケイ部、動脈、静脈、両方取れている。すぐに、PCPSカテーテルを入れて。ナースは直腸温測定して。チャンスはあるよ。救急隊現着時、レベルJCS10!」私。
吉岡医師と軽米医師はすでに水色の手術ガウンを着ていた。
19時40分、茶色いイソジンが両側ソケイ部に塗られる。
「優先順位は“ABCDE&double I”だぞ」
A)気道、B)呼吸、C)循環、D)意識、E)体温が破綻していて、infection(感染)とischemia(虚血)にそれほどこだわらなくていい。はやめにCとD、Eを持ち上げる。
「直腸温25度です」ナースの声が響く。
「手ごわいぞ。すでに入れている血管留置針に、ガイドワイヤーを入れて、サーとやれ」
「はい」
19時53分、動脈と静脈に小指ほどのチューブが挿入され、人工心臓ポンプと人工肺に患者の血液が流れ出した。酸素で鮮紅色に再生した患者の血液はさらに40度に加温されて体内に入る。
20時3分、「心電図波形が変わった。サイナス(洞調律)」吉岡医師が叫ぶ。
「チェックパルス!頸動脈パルスあり。心拍再開」丸橋医師が言いながら頸動脈を触る。
「エコーして」私。
エコーで心臓の動きを見る。
「左心室よく動きます」ガウンを脱いだ吉岡医師が言う。
「自発呼吸あり」汗びっしょりの軽米医師。
「体温28度」ナースが言う。
男性はICUに入院した。
翌日、バイタルサインはOK。
体温は36度。
意識は開眼し、手を握る。
「おー、すごい。劇的救命だ」河野医師が言う。
「津波で、CPAから救命はめったにないよ。だって、普通はトリアージで黒になるから」私。
「さあ、昨夜はまだ、災害の影響の前だったから、ここまでやれた。今日は、同じ患者が運ばれてもこの治療はできないよ」私。
「今日はどうしましょうか」吉岡医師。
「循環が戻っていれば、PCPSを止めるよ。すでに院内の酸素と電力が危うい。できるだけ普通の治療に下げたい。午前にPCPSを止め、午後にチューブ抜去の手術をやるよ」私。
・・・・
4日目に、気管チューブを抜いた。
患者に笑顔が見える。
災害現場であっても、医療者と患者数のバランスが破綻していなければ全力投球する。
医療材料と患者数のバランスが破綻していなければ、全力投球する。
救急医療と災害医療の区別は、その時、場所で条件が変わる。
「津波で家はダメですが、父が助かりました」娘。
災害時でもこの町にはドクターカーとドクターヘリがいつも通りに走り抜ける。
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