09. 2011年3月23日 15:04:56: mHY843J0vA
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110321/219071/ビジネス オンライントップ>アジア・国際>中国新聞趣聞〜チャイナ・ゴシップス 疑う中国人、信じる日本人 中国人記者が続々と帰国する心理深層 * 2011年3月23日 水曜日 * 福島 香織 ニンニク 東日本大震災 中国 放射線 帰国 記者 取材 「僕たちが逃げるように帰るのをみて、君たちは気分を害しただろう。僕はこのまま取材を続けるべきだと思うのだが、同僚がパニックを起こしていて…」 19日、知り合いの中国人記者Yは福岡空港から帰国する直前にかけてきた電話で、後悔をにじませた沈んだ声で言った。 11日に東日本で未曾有の大地震が起きてから、知り合いの中国人記者らから次々問い合わせがあった。13日夜には何人かが現地取材のために東京入りした。その中で大手週刊誌のY記者はガイド兼通訳を探しており、当初は留学生を紹介してほしいということだったが、余震が続き2次災害の危険が伴うところに留学生を連れて行き、万が一のことがあれば責任が取れない。ならば、私が自己責任で同行しようということで、14日夕夜、一緒に上越新幹線で新潟に入った。それが前回のこのコラムの締め切りの時である。今回はその続きについて書こう。 若い女性記者は軽いパニックに Y記者は30代若手記者ながら、2008年の四川大地震、2010年の青海省玉樹地震の取材経験があり、英語も堪能だ。日本語はできないが、日本での出張取材経験はあった。編集長からこの大災害の際に現地取材のキャップを任され、若い女性記者、カメラマンを伴い3人で東京に来た。 15日から新潟で車を確保したので、一緒に来てくれないかと連絡が来たのが14日昼だった。14日夜はともに東北新幹線で新潟に行き1泊し15日午前に、総領事館のアドバイスを得て地元県警に取材用の緊急車両証の発行を掛け合うつもりだった。 ところが14日夜、新潟に着いてから雲行きが怪しくなった。福島第一原発の事故の状況がかなり深刻だという情報が北京の本社経由でY記者にもたらされたからだ。 「チェルノブイリに匹敵する事故のようだ」「大使館から日本にいる中国人の退避勧告が出ている」…。 この情報に若い女性記者は軽いパニックになり、仙台にいくべきではないと主張した。彼らは一晩、締め切りも抱えながら、北京本社とのやり取りを繰り返し、取材を続行すべきかどうかの議論を行っていた。 「仙台がダメなら岩手に入るルートを探ってはどうか」 「しかし、その長距離を運転できるだけのガソリンの確保もむつかしい」 そんなやり取りが続いていた。 私は日本の新聞やテレビの会見内容を説明するにとどめ、彼らの判断に口出ししないように気をつけたが、福島第一原発から仙台まで90キロあまり、新潟は 150キロある。たとえ原発がメルトダウンを起こしても、今すぐその距離に放射能性物質が飛来して健康被害を引き起こすほどではないと考えていた。だがその考えは、中国人記者たちにもたらされる情報とかなり温度差があったようだ。 あまりに素早い帰国の判断 議論は翌朝には、仙台ルートで現地入りするか岩手方面に行くかというテーマから、東京に退避するかどうかということへと争点が変わっていた。結局、彼らは15日午後に東京への一時退避を決めた。 この時、Y記者が「君ならどう判断した?」と尋ねたので、「私なら、仙台くらいは放射能をあまり問題視しない。判断を迷うとしたら、危険な場所に運転手を伴うこととガソリンの問題だ。被災地では救援物資の輸送ですら大変な時期で、貴重なガソリンを使うに値する取材ができるかどうかだ。でも、東京に帰る選択はないな。新潟にも取材すべき対象はあるし、新潟で取材をしながら2〜3日待って被災地入りする機会をうかがうこともできる」と答えた。 Y記者は「やっぱりそうかな」と額を押さえたので、慌てて「東京に戻って体制を立て直せばいい」と付け足した。 災害取材は空振りがつきものだとしても、キャップとして高額の取材を使って日本にまで来て取材ができないプレッシャーは小さくない。しかし、さきに仙台入りしていた別のメディアの中国記者からガソリン不足で身動きが取れない状況に陥ったことも聞いていた。その記者は仙台市役所の避難所で、東京からもってきたペットボトルの水1本とわずかなお菓子類だけで2日間取材していた。 この段階ではY記者はまだ被災地現場取材にこだわっていたので、東京に戻ってから山形空港経由で現地入りするルート、青森経由で南下するルートを調べよう、と話していた。 しかし、17日に東京・新宿から仙台への直行バスが開通するので、それを使ってはどうかとY記者に連絡を入れた時、既に彼らは福岡経由で帰国することを決めていた。あまりに素早い帰国の判断にこちらが面食らったくらいだ。 Y記者らが特別なのではなかった。潤沢な取材費でヘリなどをチャーターして縦横無尽に取材する国営メディアもあったが、ほとんど取材できないまま短時間の滞在で帰国した中国人記者たちも少なくなかった。 「放射能予防にニンニク」売り切れ続出 Y記者は私に聞いた。「日本人はどうして、こんなに落ち着いているのか。中国人が過剰反応なのか、日本人の反応が鈍いのか」。 福島第一原発の被災に伴う事故について、日本人の反応と在日の外国人の反応の差は大きい。特に中国人の反応は確かに過剰と言えなくない。 ちょうどY記者と入れ替わるように17日、中国人作家の王力雄さんが東京入りした。彼は最近、邦訳出版された著書『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎刊)のプロモーションのために来日している間に大地震に遭遇し、著書のプロモーションどころではなくなってしまった。 王さんはウイグル問題をテーマにした同書のような中国当局にとっては敏感な著作を多く出版しているため、投獄はじめ数々の圧力や嫌がらせを受けているが、それに屈することなく果敢に執筆を続けている人物で、自らも数々の危機に遭遇している。その彼が東京に来た時に感嘆したように「この危機に直面しても日本人は冷静で平常心を保っている。中国ではありえない」と言った。 確かに東京ではスーパーなどで買い占め騒動が一時的に起きたが、争奪戦というほどではなかった。この頃中国では、放射能物質の飛来を恐れた中国人たちによる塩の買い占めが全国的に発生し新聞記事にもなっていた。中国の塩はヨードを添加しているので、「放射能予防」になる、という噂が流れたからだ。 同席していた大阪在住の翻訳家の劉燕子さんは「私の故郷の長沙ではニンニクも売り切れている」とあきれ顔だった。中国ではニンニクは食中毒予防など「毒消し効果」に昔から重宝されているが「放射能予防にニンニク」というのは初耳だった。 危機に直面するとバラバラになりやすい やはり同席していた「今日論談報社」編集主幹の吉川端さんはこう言った。「東京中の中国人が大慌てで帰国している。そのために東京から北京までのチケットが通常の4〜5倍にはね上がっている。正直、情けない。中国人は日本で稼ぐだけ稼いで、こういう危機に直面すると真っ先に逃げる」。吉川さんはもともと中国人だが今は日本国籍を取得している。日本人と中国人の中間にあって今回の中国人の帰国ラッシュに批判的だった。 吉川さんは言う。「中国人はチベットのウラン原料を利用して新疆で核実験をして、その時の放射能が東京にもたらした影響は今の福島第一原発の事故より大きかった。中国人はまったく自分のことしか考えていない」 王さんは中国人、漢族がパニックになりやすい点について「厚い信仰もなく、深い思想もなく、強固な共同体もない中国人は、危機に直面するとバラバラになりやすい。もちろん、古い中国には信仰も思想も共同体もあったが、新中国の建国以降、中国共産党はずっとそれらを破壊し続けてきた。さらにいえば、中国人は身体の健康へのこだわりが強い。健康を脅かすもの、それがSARS(重症急性呼吸器症候群)のような未知のウイルスにしろ、放射能にしろ、そういう目に見えない健康をむしばむものへの恐怖は人一倍強いのだろう」と分析した。 歴史を振り返れば、中国人は「逃げる」ことが多い。過去の動乱のたびに香港へ海外へと大勢が脱出した。SARSの時は北京から車で脱出しようとする市民を河北省警察が省境で強引に追い返す場面もあった。少なからぬ中国共産党幹部は家族親戚に外国パスポートを取らせ海外の銀行に蓄財しいつでも脱出できるように身支度している。 日本人は冷静なのか、それとも鈍いのか こういった意見を聞いた時に、私もずいぶん考えこんでしまった。日本人は王さんが言うように冷静なのか、それともY記者が問うように鈍いのか。王さんの来日に合わせて上京していた静岡大学教授でモンゴル族作家の楊海英さんに同じ質問をするとこう答えた。「日本人は信任の国で中国は不信の国なのです」。 中国人は基本的に政府発表を信じず、時に隣人や家族ですら信じないこともある。反右派闘争や文化大革命のような歴史的動乱を経験した結果、人を信じることはできない、人は裏切る、というのが中国人の骨身に刻まれてきたことだろう。 一方で日本人は政府発表、公式発表をあまり疑わないのではないか。私自身も心のどこかに、政府発表や東京電力の会見に隠ぺいやうそがあるのではないかという思いもありながら、これら発表にうそがないと信じたい思いの方が強いのだ。 だが危機に際して、人の良心を信じたいという強い思いが、正常な判断を狂わせることもあるかもしれない。権力者による発表を疑うことが中国人記者の鉄則ならY記者の判断の方が正しかったということになるかもしれない。 息長い取材を続けてほしい 日本人というのは、人を信じやすい性格の人が多く、ひょっとすると疑うべきものを疑っていないかもしれない。しかし、疑うことよりも信じ合うことを美徳としてきた国民性は簡単に変えようとして変わるものでもない。疑うことで個人が自分の身を守りたくましく逃げおおせて生き抜いていくのが中国人なら、信じ合うことで団結し踏ん張って甦るのが日本人なのだと思う。 1カ月、2カ月、半年、1年と時間が経った時、国際社会の関心、いや同じ国内の日本人の関心ですら薄れてくるかもしれない。それでも、被災地の困難は続いているだろうし、新たな問題が続々と起きているかもしれない。しかし、そこでなお、お互いを信じ合い、失われた暮らしを甦らせようと踏ん張っている人も多くいるはずだ。 Y記者からの帰国前の電話に対して私はこう答えた。 「外国人ならば、この場合帰国する判断は間違っていない。気分など害していない。チャンスがあればまた来て取材してほしい。いつでも付き合うから、息長い取材を続けてほしい。中国の人たちの関心と支援を得られるよう一助になってほしい」。彼らのように日本から一度去った外国人も、いずれ再び戻って来るはずだと、私自身が信じたい。 このコラムについて 中国新聞趣聞〜チャイナ・ゴシップス 新聞とは新しい話、ニュース。趣聞とは、中国語で興味深い話、噂話といった意味。 中国において公式の新聞メディアが流す情報は「新聞」だが、中国の公式メディアとは宣伝機関であり、その第一の目的は党の宣伝だ。当局の都合の良いように編集されたり、美化されていたりしていることもある。そこで人々は口コミ情報、つまり知人から聞いた興味深い「趣聞」も重視する。 特に北京のように古く歴史ある政治の街においては、その知人がしばしば中南海に出入りできるほどの人物であったり、軍関係者であったり、ということもあるので、根も葉もない話ばかりではない。時に公式メディアの流す新聞よりも早く正確であることも。特に昨今はインターネットのおかげでこの趣聞の伝播力はばかにできなくなった。新聞趣聞の両面から中国の事象を読み解いてゆくニュースコラム。 ⇒ 記事一覧 著者プロフィール 福島 香織(ふくしま・かおり) ジャーナリスト 松田 大介 大阪大学文学部卒業後産経新聞に入社。上海・復旦大学で語学留学を経て2001年に香港、2002〜08年に北京で産経新聞特派員として取材活動に従事。2009年に産経新聞を退社後フリーに。おもに中国の政治経済社会をテーマに取材。著書に『潜入ルポ 中国の女―エイズ売春婦から大富豪まで』(文藝春秋)、『中国のマスゴミ―ジャーナリズムの挫折と目覚め』(扶桑社新書)、『危ない中国 点撃!』(産経新聞出版刊)、『中国のマスゴミ』(扶桑社新書)など。 日経BP社 |