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株式日記と経済展望
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岩手県宮古市の丘の上には,明治時代の津波の鎮魂碑が建っていて,
そこには「ここより下に家を建てるな」と書かれていたりします。
2011年3月22日 火曜日
「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな」の石碑
◆明治三陸大津波から110年 2006年6月16日 おだづまジャーナル
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200606160000/
明治29年(1896年)の今日(6月15日)は、明治三陸大津波のあった日だ。今朝(15日)のNHKラジオ第一(7:20ニュースアップ)で伊藤和明さんが語っていた。
綾里村(現在の大船渡市綾里)では、実に38.2mの津波が襲来したという。地震の直接の被害者はいないが、津波による死者2万2千人、流失家屋8千9百戸。人口の7割8割が失われる壊滅的打撃を受けた村もある。典型的な津波地震だ。
今朝のラジオでは、当日は日清戦争から凱旋した兵士を迎えて花火を上げていたとか、結婚式が行われていたとか、翌日は地引き網で死体を集めた、など、さまざまな実話を紹介していた。
当日は朝から有感地震はあり、夕刻7時32分頃に震度2か3程度の地震があるが人々はさして気にとめない。地震動が小さく警告の役割を果たさなかったために被害が拡大したとも言われる。しかし実際は三陸沖150kmを震源とするM8.5の大地震だった。
津波襲来は午後8時過ぎ。引くべき時間でもないのに引き潮があって、その後、大砲のような海鳴りが聞こえる。まもなく、耳をつんざくばかりの怒号とともに黒山のような波が襲来し、一瞬にして全てを流し去った。
生死を分けた事例として、靴を履かずに逃げた者が助かり、靴を履こうとした者は巻き込まれたのだそうだ。教訓として、津波には個性があるから過去の経験に基づく行動や思いこみが裏目に出ること、生き延びる唯一の方法はカネやモノに執着せず一目散に高所に逃げること、など。
また、37年後の昭和8年(1933年)の昭和三陸大津波では、高地移転の成否が明暗を分けた事例もある。吉浜村は明治津波の教訓から高地移転を実行し、昭和津波では大きな被害を出さなかった。これに対し、唐丹村でも明治津波で人口の8割以上が失われる地区もあり、山腹に移転した人もいたが、日常作業の利便性を求めて、また山火事もあって、再び海浜部に住むようになり、昭和津波ではまた世帯の8割が被害にあった。
ところで、明治三陸大津波を調べていたら、科学技術振興機構(JST)の「失敗知識データベース」というサイトを知った。これは興味深い。失敗学の畑村先生が関わっているそうだ。このデータベース収録のもっとも古いものが、この大津波のようだ。
◆三陸海岸の石碑は警告していた 3月21日 龍公の言いたい放題
http://24438241.at.webry.info/201103/article_30.html
三陸海岸沿いにドライブをすると、過去にここまで津波が来たというマークを頻繁に、しかも信じがたいほどの高さの場所に見ることができる。
また、これより下に家を建てるなという昔の人の石碑も
さて以下は4年前
日経BP 2007/04/11記事から抜粋
人はなぜ「自分は大丈夫」と思うのか,防災研究家の片田群馬大学教授に聞く
もう1つ例を出しましょう。日本にも数多くある「津波の常襲地域」における教育の事例です。まずは,津波の常襲地域の現状を説明しましょう。
岩手県の三陸沿岸などは,有史以来何度も繰り返し津波が襲ってきています。「明治三陸津波」では,釜石地区の6500人のうち4000人が命を落としています。
そんな歴史もあるので,例えば岩手県宮古市の丘の上には,明治時代の津波の鎮魂碑が建っていて,そこには「ここより下に家を建てるな」と書かれていたりします。
しかし現在,この碑を無視するかのように,その碑の下には家が建ち並んでいます。
三重県の錦地区にも似たような事例があります。ここは,昭和19年に三重県志摩半島沖を震源として発生した「東南海地震」で,大きな津波被害に遭った場所です。
実は,この津波で甚大な被害が出た地域は,昭和40年代前半まで復興が進まなかったという事実がありました。これは,当時の人が「今ここに家を建てたら,次の世代が津波の被害に遭って,自分達の世代と同じ思いをする」とちゅうちょした結果でした。しかし錦地区は,昭和40年代後半にブリの養殖で地域の経済環境が良くなって,町が復興しました。
津波は,向こう30年間で見たら「60%」といった確率の問題であるかのように見られますが,100年のスパンで見たら100%やってくる「必ず起こる災害」です。しかし人々は,被害に遭った時の思いを忘れてしまい,記憶を風化させてしまいます。そして風化したころに津波がやってきて,同じ被害が繰り返されようとしています。
津波の碑を建てて警告を残した人々,被害を忘れずに復興をためらった人々−−そういった先人の心を思うとやるせなくなります。今われわれが取り組んでいるのは,同じ事を繰り返さない地域をどうやって作るのか,ということです。そのためには,人々の心に寄り添うことが欠かせません。
(私のコメント)
三陸海岸に行くと高台には多くの石碑が建てられているそうです。大津波で亡くなられた人の慰霊碑ですが、これらの慰霊碑は現代に日本人に対する警告をしていたのでしょうが、今回の東北関東大震災には生かされなかった。「ここより下に家を建てるな」と警告しても、自分だけは大丈夫と考えてしまうのでしょう。
東京だって、関東大震災がありましたが、多くの人は自分だけは大丈夫と考えている。私自身は老朽化した住宅を鉄筋コンクリートのオフィスビルに建て替えましたが、関東平野を一望すれば木造住宅が果てしなく建てられている。木造住宅は火災にも地震にも弱いですが、津波に対しても弱い。30年もすれば老朽化して建て替えるのは不経済だと思う。
にも拘らず日本の住宅の鉄筋コンクリート化はなかなか進まない。なぜなのでしょうか? 平屋でも二階建てでも鉄筋コンクリート住宅なら、火災に強いし地震にも強く津波にも流されない。建てるには多少コストがかかりますが、耐久性を考えれば安上がりになるはずだ。鉄筋プレハブ住宅なら品質的にも確かでしょう。なぜ木造住宅ばかり建てるのでしょうか?
今回の大震災を見ても、助かったのは五階建て以上の鉄筋コンクリートのビルの屋上に逃げた人たちで、四階の窓にまで津波が達していた。なぜ三陸の町は鉄筋コンクリートの高層住宅を建てないのでしょうか? 海岸に防潮堤を建設しても、14メートルの大津波には何の役にも立たなかった。それを明治に建てられた石碑は警告していたのでしょう。
このような大災害が起きても、30年も経てばほとんど忘れ去られてしまうでしょう。関東大震災の記憶もほとんどなくなり、戦災の記憶も遠い過去になりつつあります。阪神淡路大震災も17年経って忘れかかっていますが、老朽化した木造住宅は大きな地震のたびに倒壊しています。火災が起きればたちまち広がってしまいますが、二次災害を大きくしてしまう。
対策としてはいろいろあるのでしょうが、住宅も鉄筋コンクリート住宅しか認めないようにすべきだろう。特に三陸海岸の町は鉄筋コンクリートと住宅にしてあれば、大津波で水没しても建物は流されなくて済む。木造住宅は流されて瓦礫が人を飲み込んで行く。防災訓練もされていたのでしょうが、テレビのインタビューでも被災していた人が言っていましたが、今までは地震があっても数十センチの津波だった。だから油断していたのでしょう。
明治時代に建てられた石碑は風化が進んで、人々の記憶からも消え去られていた。知識としては知っていても、自分が生きているうちは大丈夫と思い込んでしまう。何十年も平穏無事が続くと、これから先何十年も無事だと考えてしまう。東京だってそろそろ大震災が起きると覚悟を固めるべきでしょう。ならば今すぐにでも木造住宅の人は鉄筋コンクリートの住宅に立て替えるべきだ。出来なければ売り払ってマンションに引っ越すべきでしょう。
おそらくこのような事を書いても、ほとんどの人は「自分だけは大丈夫」と考えて何もしないでしょう。無理だと言って私を非難してくる人もいるでしょう。政府は何をすることも出来ず、自分が総理大臣のうちは何も起きないでくれと祈るばかりになっている。菅総理大臣は運が悪かっただけなのでしょう。今となってみれば小沢一郎に総理を譲っておけばよかったと考えているかもしれません。谷垣総裁に丸投げしようとしたら断られた。本当に無責任な総理大臣です。
なぜ「ここより下に家を建てるな」と石碑が警告しても、警告が守られないのでしょうか。東京でもゼロメートル地帯には住宅が一杯だ。大震災が来れば瓦礫の山となって火災が発生する。堤防も壊れて水没してしまうだろう。埋立地にも超高層ビルが建てられていますが、電気が止まっただけで使い物にならなくなってしまう。
昨日も書きましたが、防災拠点の整備が不可欠ですが、最低限の電気の確保が欠かせない。通信や情報連絡に欠かせないからだ。携帯電話も通じなくなるのは基地局が破壊されてしまうからだ。通じたとしても直ぐに電池がなくなって使えなくなる。ガソリンも直ぐになくなり移動も出来なくなり物資も途絶えてしまう。テレビを見ていると自動車がなくては移動も出来ない事情が見える。
原子力発電所も危険性が認識されていましたが、防災対策がいい加減だった。津波に関してはほとんど対策が立てられていなかった。テレビを見ていれば専門家は「想定外」を連発していますが、明治三陸大津波も想定に入っていなかった。「想定外」で済まされるのならば専門家など要らない。来るべき東京の大震災も専門家たちは「想定外」と言うつもりなのだろう。
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