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遺体が物語る津波の「猛威」 法医学者がブログで報告
2011/3/20 18:49 :J-CAST
http://www.j-cast.com/2011/03/20090917.html
関東東北大震災で命を落とした人々の遺体の損傷具合に関し、ヤフーブログにある「法医学者の悩み事」(2011年3月18日付)が詳細を報告している。
法医学者とみられる同ブログの筆者は、今回の震災発生後まもなく岩手県に派遣され、死体検案に立ち会ったという。そこで目の当たりにした遺体は、津波の猛威によって衣服がはがされ、靴下や下着の一部だけ身に着けている状態のものがほとんどで、半数近くは顔面の損傷もひどく、重度の骨折も多数みられたそうだ。
検視・検案には1体あたり、10〜15分程度かけたという。解剖をしていないため死因の断定はできないとしながらも、口から泡を吹いているのは一般的にみて「ほぼ溺死」とか。そうした遺体は1割程度だったが、あとは、鼻や口に泥混じりの液体や泡沫があるかどうかで大まかに判断するしかなく、結果的には9割以上を溺死と判断せざるを得なかったようだ。
遺体の捜索と検査はまだ数か月続くといわれているため、筆者は
「今後は継続的に支援できる体制を整え、再度支援に向かおうと思う」
とブログを結んでいる。
◇
銀河鉄道の夜 法医学者の悩み事
http://blogs.yahoo.co.jp/momohan_1/51798924.html
2011/3/20(日) 午前 7:37
震災で岩手に派遣される途中、閉鎖中の東北道を通った。宮城、福島を通過するときは、道もがたがたで停電の場所が多かった。そのため、途中、真っ暗なサービスエリアで休憩をとった。その時、夜空を見上げると、満天の星空だった。天の川を見たのは何年ぶりなのだろう。
地震と津波で多くの方が行方不明になっている中、人の営みとは無関係に、自然は、地震・津波や寒さといった厳しい表情と、満点の星空などの美しい風景といった優しい表情、いずれも見せつけている。自然の大きさを感じると、人間の無力さを感じないでもない。しかし、一方で、我々人間は、昔から、お互いがよりそいあって、社会を形成し、時には厳しい自然と戦い、それにより生き抜いてきたのだ。
考えてみれば、普段の我々は、狭い人間社会の中で、個人的になるべくよい生活を得ようなどと、贅沢な悩みを抱えているような気がする。しかし、現在は、自然に放り出されたような状況に立たされているといえる。今こそ、我々人間は原点に立ち返るべきなのかもしれない。
満点の星空を見ていたら、銀河鉄道の夜に出てくる「本当のさいわい」という言葉を思い出した。
銀河鉄道の夜では、よだかの星のよだかと似た話ではあるが、さそりの話が出てくる。さそりはいたちに食べられそうになり、逃げたところ、井戸に落ちておぼれ死んでしまう。死ぬ直前に、自分がこれまで様々な迷惑をかけて生きていたことを悔やみ、どうせ死ぬなら、いたちに食われ、いたちの役に立てたほうがよかったと考える。そして、ジョバンニとカムパネルラはさそりのように、皆の幸いのためになら、自分を犠牲にしてもよいと願う。しかし、話の最後の部分では、実はカムパネルラは他の子供を助けようとして、川に入りおぼれて死んでおり、ジョバンニはそれを知り、胸がいっぱいになってしまうという話になっている。
人間は、社会の中で、人に迷惑をかけつつ生きていることを悔やんだり、人のために死ねるなら本望と思う一方で、自分が人のためとはいえ、死んでしまうことが、本当の幸いなんだろうかと悩みながら生きている。そうしたことが、銀河鉄道の夜やよだかの星に書かれているように思える。
宮沢賢治は岩手県出身で、生まれる直前あるいは、生まれて間もなく、母親ともども津波に遭遇し、母親に胎内で、あるいは母親に連れられ、生き抜いた人物だそうだ。さらには、岩手の厳しい自然の中で、皆と協力して農業を興そうと生きた人物でもある。今回の災害で岩手に来たことで、宮沢賢治の作品の背後にある何かを感じたような気がする。
いずれにせよ、「本当の幸い」は、生きてこそ得られるものなのだと思う。生きてこそ、皆と協力し、自然と立ち向かうこともできれば、楽しく時間を過ごすこともできるのだ。
人間が、原点に立ち戻るとするなら、今こそ、なんとか、今後も皆が生き抜く方法を考えださねばならない。傷病で苦しむ被災者を助けることもその一助だし、死因をある程度はっきりさせておくことも、その一助になるのではなかろうか。
阪神大震災のように、大半の方が圧死したとわかるのなら、建物を強くすればいい。
しかし、大半の方が、溺死したなら、想定を超えた津波が来ても溺死しないで済む方策を考えるべきだ。
車の中や、避難所で亡くなったかたは、致死的と考えられる損傷を負っていない方がほとんどだった。こういう方は水を吸いさえしなければ助かった可能性がある。津波の想定される地域では、水が入ってこないような被り物を車に積んでおくとか、避難場所になるホール等では、建物全体が水に沈んでも、洗面器のように空気を蓄えられる構造にするとか、対策を練るべきなのかもしれない。英知を皆で集めあえば、自然の猛威からある程度影響を受けない安全な生き方もできるのではないか。
そう考えると、どれだけの方が溺れて死んだのか、圧死だったのか、解剖なしでははっきりわからないが、この状況では少なくとも推定していく作業は大事なのだろうと思う。生き残った私たちが、一人でも多く生きて、本当のさいわいを得るためにも。
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