04. 2011年3月13日 16:02:14: rFQAz0RaSE
東日本大震災:深刻な被害、次々と 各地で懸命の救助「無事でいて」祈る人々 /宮城 東日本大震災から一夜明けた12日、東北地方の太平洋沿岸を中心に深刻な被害実態が明らかになってきた。死者が相次いで確認された一方、各地で懸命な救助作業も続けられている。家族・知人と連絡がつかない人も多く「なんとか無事でいて」。祈りをこめた思いが被災地を包んでいる。 【塩釜市】地震発生時、記者(渡辺豊)はたまたま塩釜汽船に乗っていた。浦戸中学校の卒業式を取材した帰りだった。塩釜港に着く直前、船が奇妙に縦揺れを始め、海面には豪雨にたたかれたような泡が湧いた。中学生をはじめ約30人の乗客から悲鳴が起きた。 船は数分停止した後に着岸。慌ただしく上陸し「マリンゲート塩釜」3階のレストランに、乗客や住民らとともに避難した。 約1時間後。「水位と潮の流れが変わったな」と思ってから感覚的には数秒のうちに、猛烈な津波が仙台塩釜港を襲った。瞬く間に津波は岸壁を越え、防潮堤を越え、マリンゲート周辺の駐車場や同市中心街に侵入した。大洪水のように海と陸の区別がなくなり、波はどんどん厚みを増して数百台の車を自在に流し、観光船を乗り上げさせ、廃屋をなぎ倒した。そのエネルギーのすさまじさに背筋が寒くなった。 約15分後には波が引き始めた。家具や樹木、段ボール箱などが流されていく。車が沖に流されるのも目撃した。恐ろしい、という感覚しか浮かび上がらない。 一夜明けた12日、塩釜市の海辺に広がる中心街は泥水とがれきの街と化してしまった。海から約300メートルほどのJR仙石線本塩釜駅周辺はスクラップ工場のように車が散乱し、大型ショッピングセンターでは入り口の扉を破って車が突っ込んでいた。歩道は液状化のため各所で敷石がめくり上がり、倒壊したり壁に亀裂の入った建物が散在していた。 【仙台市若林区】名取川河口に近い二木(ふたぎ)地区は泥海そのものだった。津波に流された車が多数、泥海の中に埋まっていた。 「泥海の中に車から放り出された人が埋まっているかもしれない」。車の陸送会社を営む大内久雄さん(62)は「二木より名取川河口部にある同区藤塚地区は90戸のうち残っているのは2戸と聞いた。隣の種次(たなつぎ)も同様だ。避難するより早く津波にのまれた車が何台もいる可能性がある」と話した。 二木地区では自衛隊仙台駐屯地の特化部隊、県警機動隊とともに若林区消防団六郷分団などが泥海の中を捜索。分団員の佐藤孝則さん(46)は「名取川にかかる閖上大橋で地震直後に大型トラックが立ち往生し、長い渋滞の車列ができたところに津波が押し寄せた。人が乗っていた車が流された不安が強い」と話した。 泥海は深さ1メートル前後あり、12日午後4時現在、人の姿は発見されていない。 自宅が泥海につかったという50代主婦は「90歳のおばあちゃんが一人で留守番していて行方不明になった。地震当日は自宅で戻れる状態ではなく、今日再び見に来た」。 【岩沼市】仙台空港に通じるアクセス道路は泥にまみれていた。津波のエネルギーに根こそぎ倒された直径40センチほどもある防風林が横たわっていた。中央分離帯に流された車が乗り上げ、プレハブ事務所が片側2車線の道路を封鎖していた。 「助かっただけでも喜ばなければ」。間一髪で津波を逃れた自営業男性(41)が言った。男性はエンジンをかけた車のバックミラーに水しぶきが映るのを見た。防風林が一緒に流されていた。津波だった。「思い切りアクセルを踏んだ。映画の中にいるようだった。死ぬかと思った」 津波が襲う直前に猛スピードで海岸方向に向かう車を何台か見たという。「ピストン輸送で避難させようとしていたと思う。でも津波から逃げられたのは私が最後」と顔をしかめた。 仙台空港に隣接する航空大学校仙台分校では学生らが屋上に避難、岩沼消防団などのボートで救出された。同校非常勤職員の郡山奈々さん(23)は「大津波警報で2階に上がったが、津波はあっというまに地面をのみ込んでいった。怖かったけど、仲間がいたので心強かった」。 【気仙沼市】高台から湾を望む美しい町並みは見る影もなく一面焼け野原と化した。家々は津波に流され、燃え朽ち、黒焦げの車が山積みになっていた。 夜通しの消火活動で12日朝に火はほぼ消し止められたが、津波が引いた後の道は泥でぬかり、ゴミや木材、畳やタンスなどが散乱する。 × 宮城県警は行方不明者に関する電話相談窓口を開設した。番号は022・221・2000。【高橋宗男、渡辺豊、小原博人、鈴木一也】 毎日新聞 2011年3月13日 地方版 http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20110313ddlk04040008000c.html
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