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電車に乗る。周りを見る。以前はマンガ・新聞を読んでいる人がいたが、今はだいたいスマホ・ケータイを触ってる。取り憑かれたように。
自宅でパソコンを触る・インターネットを見る。ふと気がつくと1時間、2時間経過している。そして心がざわざわして落ち着かない。
何かがおかしい。
そう思っていたこともあるが、ほとんど忘れていた。
先日図書館の返却棚で気になるタイトルを見つけ借りてみた。それがこの本『ネット・バカ』。私の中での久々のヒット本だ。長年の疑問が解決したような気がする。
私の中で、そしてみんなの中で、パソコンとインターネットが何を変えているのかを作者の主観とそれを補強するデータをならべて書いてある本。
メモを取りながら2回目読み。
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長期的に見れば、われわれの思考や行動に影響を与えるのは、メディアの伝える内容よりも、むしろメディア自体である。
メディアが魔法をかけるのは、あるいはいたずらを行うのは、神経系自体に対してなのである。
「重要なのは使い方だ」という考えは、テクノロジーをまるでわかってない鈍感なスタンスである。
「メディアの内容」など、「脳という番犬の気をそらせるため、泥棒が持ってくるおいしそうな肉塊」にすぎない。
(肉塊に対して)インターネットが提供することになる豪華な宴席。
次々にコース料理が提供され、毎回おいしそうになっていく。
息つく暇もなくほおばるしかない。
ネットワーク・コンピュータのサイズがiPhoneまで縮まったため、宴席は携帯可能となり、いつでもどこでもありつける。
あまりに献身的に仕えてくれるものだから、それが身分の低いものであるかのように感じてしまい、ついわれわれは気づかぬままでいるのだけれど、実際のところ、これはわれわれの主人でもあるのだ。
オンラインのときもオフラインの時も、いまやわたしの脳は情報が、ネットから与えられているときと同じかたちで、つまり細分化された断片の迅速な流れとして入ってくるものと思っている。かつて私は言葉の海のスキューバ・ダイバーだった。いまではジェット・スキーに乗っているかのように海面を滑っている。(著者はフリーランス・ライター)
テレビ、ラジオ、新聞がこれまで行ってきたよりも、ネットはずっと強くわれわれの興味を惹く。友だちと携帯メールのやりとりをしている子ども、新着メッセージやフェイスブックのページのリクエストに目をとおしている女子大生、携帯でメール画面をスクロールしているビジネスマン、グーグルの検索ボックスにキーワードを入力し、リンクをたどっている自分。
そこに見られるものは、メディアに食い尽くされている精神である。ネットに接続しているときは、自分の周囲で起きていることに気がつかないことがしばしばだ。さまざまなディバイスを介して現れる大量の記号や刺激を処理するとき、現実世界は影を潜めるのである。
今日のティーンエイジャーたちは、通常起きているあいだ数分ごとにメールの送受信を行っている。
ネットの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考、あるいは創造的思考を行うのをさまたげる。われわれの脳は単なる信号処理ユニットになり、情報を迅速に意識へと導いたり、そこからまた元の場所に戻したりするようになる。
新たなスキルを習得し、新しい能力を身につけるたびに、われわれの脳は物理的にも機能的にも、かなりの規模で変化する。
インターネットやグーグルの検索エンジンを頻繁に用いることで、神経学的に重大な結果が生じる。
(ネットで便利になることで、いままでの面倒な事をやらなくなったことで)旧来の知的機能・知的活動を支えていた神経回路は弱体化し、崩壊を始める。
ネット使用者の脳が広範に活動することは、深い読みなどの集中を維持する行為が、オンラインでは非常に困難であることの理由にもなっている。
読者であるわれわれは、リンクに行き当たるたび、それをクリックするかどうか前頭前野が判断できるよう、少なくとも一瞬、立ち止まらなければならない。特にその切り替えが
繰り返し行われた場合、理解と記憶が妨げられることが証明されている。
注意散漫を除去し、前頭葉の問題解決能力を鎮めることで、深い読みは深い思考の一形態になる。
われわれの脳は2種類の記憶−短期記憶と長期記憶−を組み込んでいる。短期記憶のうち作動記憶が情報を長期記憶への移動する。これが個人的知識の貯蔵を形成する。
長期記憶が理解を行う場でもある。長期記憶は事実だけでなく複雑な概念、すなわち体系的図式=スキーマをも保管しているのだ。ばらばらの情報の断片をパターン化された知識へと組織することによって、スキーマはわれわれの思考を深く豊かなものにする。
作動記憶から長期記憶へと情報を移し替え、概念スキーマとして組み上げる能力にによって知性の深さは決定される。
作動記憶はきわめて少ない情報量しか保持することができない。一般に作動記憶は7つの情報の断片しか保持できない。近年発見されている証拠では2〜4まででたぶん小さい方。
本を読むとき、テキストに集中すればほとんどの情報を少量づつ長期記憶へ移し替える事が可能。スキーマの豊かな結合を生み出すことも可能。
ところがネットの場合、情報の蛇口は多く、しかもそのすべてから猛烈な勢いで情報が流れ出ている。
情報が脳が情報を処理する負荷を超えると情報は保持できなくなり、すでに長期記憶に保存されている情報との関連づけもできなくなる。われわれの学習能力は損なわれ、理解は浅いものになる。
作動記憶が限界に達すると、重要な情報とそうでないものを、つなわちシグナルとノイズを区別することがより困難になる。するとわれわれは、何も考えずにデータを消費する存在になってしまう。
1989年に行われた研究によれば、ハイパーテクスト(ウェブのようにリンクであちこち飛ぶことが可能な仕組み。)を読む人は、「ページを慎重に読むのではなく」散漫にクリックして終わることが多かった。
1990年に実施された実験は、ハイパーテクストを読む人がしばしば「何を読んだのかも、何を読んでないのかも覚えていない」ことを明らかにしている。
われわれは作業が中断されることを求めている。なぜなら中断するたびに、貴重な情報がもたらされるからだ。
ネットによって送り出される、ほぼ連続的な新情報の流れは、「たったいま起こっていることを極端に過大評価する。「新しいことは些細なものであることが多い」とわかっているときでさえ、われわれは新しいものを切望する。
オンラインで絶え間なく注意をシフトすることは、マルチタスクに際して脳をより機敏にするかもしれないが、マルチタスク能力を向上させることは、実際のところ、深く思考する能力、クリエイティブに思考する能力をくじいてしまう。
マルチタスクをやればやるほど、じっくり考える事をしなくなる。考えたり問題を論理的に解決したりすることができなくなるのだ。
そうなれば人は、オリジナルな思考で問題に取り組もうとするのではなく、お決まりのアイディアや解決策にもっと頼るようになる。
記憶をウェブに「アウトソーシング」することを賞賛している人々は、その比喩にだまされているのである。生物学的記憶が持つ基本的に有機的な性質を彼らは見落としている。リアルな記憶に豊かさと特徴を、神秘性とはかなさをもたらしているのは、生物学的メモリーの偶然性だ。
アイディアのアウトソーシングを支持している人々はまた、作動記憶と長期記憶とを混同してもいる。事実や考え、経験を長期記憶に固定化しないとしても、脳のスペースを「空けた」ことにならない。容量に制約のある作動記憶とは違い、長期記憶は無限とも見える収縮性でもって、拡張したり収縮したりする。脳は満タンにはならないのだ。
ウェブは個人の記憶を補足するものとして便利かつ魅力的なものであるが、個人的記憶の代替物としてウェブを使い、脳内での固定化プロセスを省いてしまったら、われわれは精神の持つ富を失う危険性がある。
被験者を2つのグループに分け、コンピュータ上でトリッキーな論理パズルに取り組んでもらった。
Aグループはヒント・ガイダンスで支援するソフトを使用。
Bグループは素っ気ないソフトを使用。
パズルを開始してしばらくはAグループ=ガイダンスソフトを使ったグループがより速く・正確にな動きを行っていた。
実験が進むにつれBグループ=素っ気ないソフトのグループが急速に熟達しはじめた。とうとう最後にはBグループの方が速く・正確にパズルを解けるようになった。
数ヶ月後、このパズルにバリエーションを加えたものに取り組んでもらった、素っ気ないソフトを使っていたグループはそうでないグループの2倍の早さでパズルを解けることがわかった。
ソフトウエアが賢くなればユーザーはバカになる。
ネット・バカ
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