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6月4日11時52分配信 ITmediaニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090604-00000026-zdn_n-sci
2006年2月、梅田望夫さんが著した「ウェブ進化論」(ちくま新書)は、インターネットの可能性やGoogleの力をポジティブに語り、国内の「Web 2.0」ブームに火を付けた。
その後も「フューチャリスト宣言」(新潮新書)、「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)などWeb関連の本を立て続けに出版。テレビやネット媒体、新聞などの取材にも精力的に答えていた。
だがここ最近は、Webについて語ることは少なく、昨年11月にはTwitterに書き込んだコメントが炎上するという“事件”も起きた。
一方、今年5月には、最新刊「シリコンバレーから将棋を観る」(中央公論新社)を出版。その名の通り、将棋観戦の魅力を語った本で、帯にはこうある。
「わたしが本当に書きたかったのはこの本でした」
同書で彼は、“指さない将棋ファン”として将棋を語り、羽生善治さんなど第一線の棋士の努力と天才性を「シリコンバレーの技術者と通じる」と賞賛。リアルタイム観戦記を自ら執筆し、Webを将棋という日本文化を広げる媒体として位置付ける。
3年前、Googleを賞賛し、Webの可能性を力強くに語った梅田さんが今、Webについて語ることを休み、一流の棋士たちに魅了されている。
梅田さんは日本のWebに絶望し、将棋に“乗り換え”てしまったのだろうか――記者は新刊からそんな印象を受け、梅田さんに疑問をぶつけた。
●「ずいぶん違う物になっちゃった」
――最近梅田さんは、日本のネットについてあまり語っていらっしゃいません。新刊を読んでいると、「日本のインターネットはGoogleのようにはなれないから、今度は日本の将棋に期待する」と思われているような印象を受けました。
1つ誤解があるのは、僕は去年、「私塾のすすめ」(ちくま新書)という本を出したとき、「サバティカル(長期研究休暇)に入る」と宣言しました。
ウェブ進化論から7冊の本を出し、累計80万部出た。その間、取材も受けるしブログも書いた。2年半ぐらいたくさん書いた。取材もたくさん受けた。対談も山のようにした。誰と会っても何を書いてもどっかでしゃべったことと同じになっちゃうという危機感があって。
その時点で考えたこととかは相当書いた。何を書いてもどこかで書いたことのリフレインになってしまうというぐらい、完全燃焼と言うぐらいに激しく仕事したので、しばらくものを書かないと。
僕はかなり長期的なトレンドや議論に興味があるんです。「この会社が出てきて面白いですよ」という個別の話は、僕以外の人が書けばいいと思ってます。今もサバティカルで、お休み中。この本(シリコンバレーから将棋を観る)が出たので「サバティカルに入っていない」と勘違いする人もいるんだけどこの本が出たのが間違いなんです。
今のネット空間について、意図することがあるから語ってないわけではありません。
とはいうものの残念に思っていることはあって。英語圏のネット空間と日本語圏のネット空間がずいぶん違う物になっちゃったなと。
僕自身あんまり評論家ではないからね。評論家と思う人もいるかもしれないけど、僕自身ははてなの経営にも関わっているし、基本的には行動する中で思考していく人間なので。
客観的にものを見ているようで、自分の好みとか、こうなってほしいなぁという願望とか期待を込めたものの書き方をする人間でありますから。
仮に今のWeb空間がネガティブなものになったとしても、それを分析しようというモティベーションがそもそもないんですよ。
●日本のWebは「バカと暇人のもの」?
――日本と米国のWeb空間は何が異なり、梅田さんの言う「ネガティブ」とは、何を指しているんでしょう。
そうですね……。「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書、中川淳一郎著)という本が出たでしょ。まだ全部は読んでいないんだけど、前書きを読んだら僕のことばかり書いてあってね。
「梅田さんのウェブ進化論を否定するわけじゃないけど、彼が書いているのは頭の良い人の世界。わたしがこれから書くのは普通の人とばかな人の世界」という書き方があったの。その上で、日本語圏のインターネット空間で、著者の方が経験した物語みたいなのが書いてあって。
ウェブ進化論が出て以来、アンチの本とかずいぶんたくさん出ていて。全部は読んでいないんだけれど、彼の書き方はフェアだなという感じはちょっとしたんですね。そう言われればそういう切り分け方はあるんだろうなと思った。
そういう意味で、ぼくが将棋に魅せられるというのも、ものすごく優れた人たちが徹底的に切磋琢磨するプロフェッショナルな世界に惹かれるから。そういうところでやってる人がものすごく努力して至高の世界に行く。そういう中で最高峰の世界をみせてくれるじゃない。そういうのに惹かれるから。
英語圏ネット空間は地に着いてそういうところがありますからね。英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。途上国援助みたいな文脈で教育コンテンツの充実みたいなのも圧倒的だし。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。
SNSの使われ方も全然違うし。もっと人生にとって必要なインフラみたいなものになってるわけ。
●日本のWebは、自分を高めるためのインフラになっていない
――日本のSNSは、人生に必要なインフラになっていない、という意味でしょうか。
なってないんじゃないんですか? 職を探すとか……。人生のインフラ、学習、生計を立てる、キャリアを構築する、みたいな。
――上に上がるためのインフラにはなっていない、と。
上に上がるため、自分を高めていくため、という流れがあるかというと、部分的にはあるかもしれないけれど、比較論で言えば英語圏と日本語圏とずいぶん違うと思いますけどね。
――英語圏のそういったあり方が方が好き、という、好き嫌いの問題だということでしょうか。どっちが優劣、といった意識はあるんでしょうか。
好きだというのはあるよ。人間だからね。ただ、客観的に見て違うよね。ここはどうだろう。そこについて「事実認識が間違っている」という論は立たないんじゃないかな。
――その「違い」に対して、日本のネット空間にはある種、がっかりしたと。
アメリカにだってダメなところはいっぱいあるけれど。
ネットはすごくニュートラルなものでしょ。道具だから。上から下まで正規分布みたいになるよね、普通。ニュートラルなものって。
ニュートラルなものって相対化されるじゃない。いいことから悪いことまで全部出てきて、悪いところは相対化されるじゃない。いいとこもあれば悪いところもあるよね。
日本のネット空間もそうなんだけど。その比率がずいぶん違う感じがするなあ。
●日本のネット空間の「悪いところ」
――日本のネット空間の「悪いところ」って例えばどういうところでしょう。
(15秒間沈黙)
――はてブコメントの問題(Twitterで、「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」などと書き、炎上した件)とか?
ああ、あれ? うーん、そうですねぇ……。
こういう話はしにくいんですよ。何でしにくいかというとね、僕はいま、個人としてインタビューを受けているけれど、はてブコメントについて言うとね、「僕は日本語圏ネット空間について発言することを許されていないんだな」と思った。
僕はあのとき「はてなの取締役であることを離れて言う」と言ったんだよね。それで自分のブクマコメントの非常に限定されたことについて、Twitterでひとことつぶやいたというか、そういうことをしたわけだよね。はてブコメント事件、というのは。事件でも何でもない話で。
だけどやっぱり、日本語圏のネット空間において、ユーザーが100万人とかいるはてなの取締役であると。そうすると、日本語圏のネット空間について、何かネガティブなことを語るということは、「おまえは自分の利用者を批判するのか」というコメントがあったわけ。
それについてコメントすることも、僕はやめようと思ったんだよね。新聞なんかにも取材を受けたけど。「僕がはてなの取締役を辞めたらその質問に答えます」と。
僕自身がはてなの取締役でいる限り、「(ネットユーザーに対して)お前たち、こうしろよ」とか「こういうこと言ってるやつはよくない」と言うことは許されないんだなと思ったんです。
識者の人からすれば「はてなの制度設計がよくないからそういう発言があるんだ」と。そんなこと言う前に直せというふうに言うよね。
だから、分かりました、と。僕も近藤(社長)たちと一緒に努力してますよ。一般的に僕の考えというのは言えないんだなということを、すごく思ったんですよ。
●はてなが大好きだから
――言えないんでしょうか。どう批判されても、言えばいいのでは。
それは僕の構え方の問題だね。やっぱり僕は、はてなが大好きだし、近藤には相変わらず期待しているし、みんなの批判を受けたように、「おまえたちが制度設計し、日本語圏のネット空間が良くなるようにすればいいんだろう」と言われればその通りだし。そういうことを思ったよ。
今、近藤もブログ書いてないじゃない。彼だってアメリカから帰ってきてブログ書かなくなっちゃったじゃない。近藤に聞かないと真意は分からないけど。
はてなって特異なポジションにあるじゃない。最初のうちは無邪気にみんなやっていた。僕も含めて、ウェブ進化論にはてなのことを書いたし。そういうことをやってきた。
そのサービスというのは非常にニュートラルなものだから。確かに制度設計といわれても、できる限りオープンにしたいというのがあるからね。
強権的に何かを削除するとしても、ほかのブログなら何も考えずに消すけれども、うちはむしろ、もうちょっと違うところを目指したりするじゃない。そこが原点になって何か問題が起きたときに、直接的に利用者に対して「君たちがこういう使い方をしているのは良くない」と主観でものを言うのは、はてなの取締役を辞めるまでしないということを、あの事件の時に思ったんですよ。
そしたらさ、新聞記者が、「辞めてくださいよ。辞めて、その発言を日本のためにしてください」と言ったんだよ。僕は「ふざけるな」と。「どうしてそんな失礼なことを君は言うの?」と僕は言ったわけですけどね。
●良いインターネットとは
――はてなに日本のネット空間を良くしてほしい、とおっしゃいましたが、「良い」インターネットとはどういうものでしょう。
それもなかなか言いにくいところではあるが……。
ウェブ進化論で書いたような世界というのは、あれは理想郷であるとか空想であるとか言う人もいるよね。日本語圏のネット空間はぜんぜんああなっていない、と。「ウェブはバカと暇人のもの」によると、(ウェブ進化論は)「頭のいい人の世界だ」という。
ウェブ進化論の中では「総表現社会」という言葉を使っている。高校の50人クラスに2人や3人、ものすごく優れた人がいるよね。そういう人がWebを通じて表に出てくれば、知がいろんなところで共有できるよね、というところまでは書いている。
そういう、「総表現社会参加者層」みたいなのが、人口比で言えば500万人とか出てくると。少なくとも英語圏ではそういう層が分厚くて、そこがある種のリーダーシップを取っているわけだよね。
今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合。「アルファブロガー」的なものも、最初のうちにぽーんと飛び出した人からそんなに変わってないじゃないですか。それが100倍、1000倍になり、すごく厚みをもって、という進展の仕方と違う訳じゃない。
●日本のネットは、能力を生かし切れていない
良いインターネットと悪いインターネットというというと善悪の基準が1つあるみたいで良くないけれど。それは僕の好みだと言ってもらってもかまわないけど。
英訳のプロジェクト(梅田さんが、「シリコンバレーから将棋を観る」を翻訳してWeb上にアップすることを自由と宣言したところ、有志が短期間で英訳して公開。仏語版プロジェクトも進行している)も、僕が好きだからやってるんだよね。
やる気のある若い人たちが、日本文化の将棋を世界に広げたい。この本(シリコンバレーから将棋を観る)を読んで、こういう日本のすばらしいことを英訳したい、仏訳したいとか、そういうような人たちのエネルギーを集める能力を、ネットというものは持っているんだよね。
僕はウェブ進化論でそういう可能性について描いた。それを高校生で読んだという人が大学の初年ぐらいになってて、かなり多くの人がそういうことにわくわくした経験があって、日本語圏ではなかなか起きてないねと思っているわけですよ。
英訳プロジェクトのリーダーシップ取った子が書いた文章を読むと「日本のWebをポジティブにしたい」と。そういう“良い”じゃなくてもいいけどさ、こういうことが起こるという可能性を自分はネットに期待してたというからそれをやってくれて。そういうのは僕は好きです。個人的に。
そういうような世界が僕は好きで、人間だから、有限の時間で英語圏で何を見ているんだ、英語圏の悪いところをどこまで知っているんだと言われるけど、少なくとも自分が見たい世界はものすごくたくさんあるよ、英語圏には。大学の教材が全部出てくるとか。
――ニコニコ動画では、ユーザーが作った音楽に、別のユーザーが動画を付けるなど、ユーザー同士の協力によって新しいものができています。
サブカルチャー強いよね、日本は。それも全然否定してないよ、日本のサブカルチャー。日本発グローバルでさ。ただ僕自身がサブカルチャーはそんなに……。僕は漫画読まないしアニメみないしさあ。志向性がちがうだけで。
日本のサブカルチャー領域でのWeb文化の隆盛は十分に分かっていて、敬意を表しています。だから、今さらそういう事例について議論しても、日本のWeb文化が特に変化したとは思えないんだよね。
ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです。