03. 2014年11月11日 06:35:06
: jXbiWWJBCA
相川俊英の地方自治“腰砕け”通信記 【第117回】 2014年11月11日 相川俊英 [ジャーナリスト]少子高齢化が極まり「消滅可能性」で日本トップに!悲惨な南牧村が明るく取り組む移住者促進策の手応え 狭い谷に肩を寄せ合う人家 日本で一番少子高齢化が進んだ村 ?JR高崎駅で上信電鉄に乗り換え、下仁田に向かう。2両編成の電車はゴトゴトと走っては無人駅に停車する。12番目の駅、上州富岡駅に着くと乗客の数がぐっと少なくなった。世界遺産となった富岡製糸場を目指す観光客らが降りたのだ。 ?その後、電車を乗り降りするのはお年寄りと学校帰りの高校生ばかり。ゆったりとした時が流れていった。高崎を出てから1時間が経過し、電車はやっと終着の下仁田駅に到着した。 ? ?下仁田駅前に停車していた「ふるさとバス」に乗り換える。目指す先は群馬県南牧村である。乗客席12のワゴン車に7人が乗り込んだ。 ?車窓から街並みがあっという間に姿を消し、紅葉の景色に変わった。バスは、急峻な山の間を蛇行する川沿いをひた走る。右へ左へと曲がりながら、川上を遡っていった。 ?十数分ほどすると曲がりくねった道沿いに人家が現れた。それらはまるで、細い一本道の両側にへばりつくように立っていた。視線を上に向けると、山の斜面にも人家が点在する。狭い谷間に肩を寄せ合うようにひと塊となっていた。いつしかバスの乗客が1人となった。 「ここ2、3日のうちにバタバタと4、5人が亡くなっています。まだ若い方もいました」 ?バスの運転手さんがこんな話を切り出した。 「若いと言っても70代後半ですがね。村の人口はとうとう2300を切ってしまいました」 ?長野県境の山あいにある群馬県南牧村は、人口わずか2233人(2014年10月末)。このうち65歳以上が1302人で、高齢化率58.31%は全国で最も高い数値となっている。75歳以上の後期高齢者は895人で、村民の4割を占める長寿の村である。一方、14歳以下の子どもは73人で、少子比率3.27%もトップである。昨年(2013年)の出生届はわずかに2人。小学生は27人しかおらず、3年生はゼロ。中学生も20人を数えるだけ。つまり南牧村は、日本で一番少子高齢化が進んだ自治体であった。しかも、それだけではなかった。 ?有識者でつくる「日本創成会議」が2040年時点での各自治体の人口予測を発表し、日本中に衝撃を与えた。若い女性の減少率を試算し、それに基づいて896自治体を「消滅可能性都市」として公表したからだ。 ?その中で消滅する可能性のある自治体のトップに挙げられたのが、南牧村だった。20歳から39歳までの若い女性の減少率(対2010年比)は約9割に達し、10人にまで減ると試算された。村の人口は2040年には626人に激減し、消滅可能性でも全国トップという不名誉なレッテルを張られてしまったのである。 ?南牧村は、現時点で少子高齢化が最も進んでいる自治体で、かつ、将来消滅する恐れが最も強い自治体なのである。悲惨きわまりない話としか言いようがない。 消滅可能性のある自治体トップに 「今が逆にチャンスかもしれない」 ?下仁田を出発した「ふるさとバス」は20分ほどで、南牧村役場前に到着した。バスを降り、南牧川沿いに立つ村役場へ向かった。 「みんなが強い危機感を持つようになりました。何とかしなければ、何か行動しなければとなっています」 ?こう語るのは、南牧村の茂木毅恒・村づくり雇用推進課長。厳しい現実を前にして意気消沈しているかと思ったら、そうではなかった。消滅可能性自治体ナンバーワンの発表が、村の活性化にとっては大きな刺激となっているという。また、村が進めている取り組みに手応えを感じているようだった。 ?村の中にはより前向きに捉えている人もいた。村議会議員の茂木栄一さんは、「私は逆に良かったと思います。年配者の中にはあきらめ感もありますが、全国から注目されるようになりましたので、今が逆にチャンスだと思います」と、村の活性化に強い意欲を示すのだった。 ?南牧村は昭和の大合併で誕生した。1955年に磐戸村と月形村、それに尾沢村の3村が対等合併し、産声を上げたのである。当時の人口は1万892人に上った。その後、急速に過疎化が進み、現在の人口は2233人(2014年10月末時点)。人口のピークは自治体誕生直後であり、以来坂道を転がり続け、59年間で約8割も減少してしまったのである。 ?総面積の7割を山林、原野が占める南牧村は南牧川とその支流に沿って集落が形成されている。江戸時代は旗本や幕府領の支配下にあり、山の資源に恵まれた豊かで歴史と伝統文化に富んだ地域であった。特に砥沢地区から産出された砥石は、徳川幕府の「御用砥」となった。砥石を江戸まで運ぶ中継点として富岡新田が開拓され、そこがのちの富岡製糸場となった。 ?地域の主産業は、明治時代から養蚕、蒟蒻、和紙、林業、採石(砥石と椚石)と多種多様であった。その中でも、南牧村が発祥の地と言われる蒟蒻栽培で地域は大いに潤った。急傾斜で水はけのよい特性が蒟蒻栽培に適していたからだ。当時蒟蒻は病気に弱く、栽培しにくい作物だった。 ?そのため南牧村のような特別な山地でしか栽培できず、まさに独壇場となっていた。南牧産の蒟蒻は高値で取引され、「灰色のダイヤモンド」と呼ばれるほどだった。蒟蒻の段々畑が山の上までつくられ、その光景は「天まで続く蒟蒻畑」といわれるほどだった。 天まで続く蒟蒻畑が一転、衰退の一途を辿る 最大の強みだった地域の特性がハンディに ?ところが、品種改良や農薬、農機具の開発などが進み、蒟蒻栽培を取り巻く状況が一変する。平地での機械耕作が可能となり、南牧産は急速に競争力を失ってしまったのである。急傾斜に石垣を積み上げ、猫の額ほどの段々畑で蒟蒻を手づくり栽培する手法では、太刀打ちできなくなってしまった。最大の強みだった南牧の特性が、大きなハンディに変わってしまったのである。 ?蒟蒻で富を手にした昔の味がどうにも忘れられない農家が多く、他の産品への転換がなかなか進まなかった。蒟蒻づくりを続ける農家は村外に農地を借り、そこで「出耕作」したのである。 ?その頃、養蚕も安い輸入品に押されて急速に勢いを失った。和紙はそれ以前に衰退しており、林業も木材価格の下落で成り立たなくなっていた。国策に従ってスギ・ヒノキを大量に植林したが、そのまま放置されている。村の基幹産業が相次いで崩壊し、住民は仕事を求め、村外に転居するようになったのである。 1955年に3村合併で誕生した南牧村は、1971年に過疎地域に指定されることになった。その後の村の歩みは、人口流出との果てなき戦いの歴史と言ってよい。地域の活性化を図るべく、様々な施策を展開させてきた。 ?まずは道路整備だった。都市部(富岡市など)に通勤しやすくし、若者の村外への流出を防ごうと考えたのである。水道や水洗トイレの整備にも力を入れた。都市部と同様の情報を得られるようにケーブルテレビを開局し、インターネットなどの情報環境も整えた。 ?また、子どもを地元で安心して育てられるように行政サービスを充実させた。学校給食費や保育料の無料化、中学生までの医療費無料化、スクールバスの運行や高校生の通学費補助、さらには村内バスの休日無料パスポートなど。メニューには、結婚祝い金(3万円)や出産祝い金(5万円など)も用意された。 ?村の担当者は「やれることは全てやっている。子育てする環境としては最高だと思います」と語る。 空き家を活用した定住促進策で 村外からの移住者がポツリポツリ ?さらに、村外からの転入を促す施策も掲げられた。定住促進奨励金制度である。村に定住するために住宅を新築、増改築した場合、最高で50万円を村が支給するというものだ。 ?しかし、こうした村の「至れり尽くせり」のサービスも良い結果を生み出せなかった。これといった雇用の場がなかったからだ。 ?もちろん、南牧村が企業誘致に力を入れた時期もあった。実際に成功し、工場が進出してきたこともあったが、撤退という憂き目にあってしまった。なにしろ平坦地の少ない、山間部の小規模自治体である。グローバルに活動する企業が食指を動かすような環境条件ではなかった。地域の特性が企業誘致のハンディとなっていたのである。 ?南牧村が現在力を入れているのが、空き家を活用した定住促進策である。村内に点在する入居可能な空き家を村外の人に賃貸し、定住してもらおうという取り組みだ。 ?実は、南牧村に村外から転居する人がポツリポツリと現れていた。年金暮らしや自由業、自営業といった人たちが暮らしやすさを求め、南牧村にやってきていたのである。彼らは色々なつてを頼って村内の空き家を借り、そこに居を構えていた。なにしろ、村に空き家となっている立派な民家はふんだんにある。 ?南牧村の若者たちが2010年12月、移住希望者をサポートする「南牧山村ぐらし支援協議会」という組織を結成した。村の将来に強い危機感を抱き、自ら動き出したのである。行政と協力して、半年かけて村中の空き家を調査した。そして、368軒の空き家を見つけ、入居可能な物件をリストアップ。さらに、所有者が賃貸に出してもよいと承諾した物件などを、村のホームぺージに「空き家バンク」として公開したのである。 ?もちろん、移住生活者への支援も行っていた。南牧村は空き家の所有者にバンクへの登録をお願いし、移住者を増やそうと動いている。2012年10月からは体験用の民家を村が用意し、1ヵ月3万円で貸し出すという事業を始めた。南牧暮らしを実際に体験してもらい、移住につなげたいという作戦だ。 「空き家バンク」を利用して3年間で 14世帯26人が村に転入してきた ?こうした住民と行政による移住者誘致の取り組みが、南牧村に新たに動きを生み出している。この3年間で「空き家バンク」を利用して14世帯26人が村に転入してきた。また、村が用意した体験民家を利用し、その後、実際に村への移住を決めた人も現れ始めた。もちろん、こうしたルート以外での移住者もいる。転出者や亡くなる方がいるので村の人口は減り続けているが、移住者は確実に増えているのである。 「(移住推進のために)お金を出す制度はきっかけとして必要だと思いますが、カンフル剤でしかないと思います。根っこの部分で(南牧のことを)気に入ってもらう、好きになってもらうことが重要だと思います」 ?こう語るのは、「南牧山村暮らし支援協議会」の金田鎮之会長だ。40代の金田さんは、創業140年の老舗和菓子店の4代目にあたる。金田さんは「移住してきた人も協議会のメンバーに加わり、一緒に活動しています。外からの人が加わり、本当に助かってます。発想や捉え方が違うので、とても刺激になります」という。 ?南牧村への移住者の中には、農業を志してという人も少なくない。その一人が、昨年(2013年)4月に単身で南牧村の古民家に移り住んだ五十嵐亮さんだ。横浜出身の34歳の青年である。 ?勤めていた会社を辞めた五十嵐さんは、2009年4月から日本中を自転車で旅しながら、各地の農家に住み込んで農業を学ぶという生活を送っていた。そんな旅を4年間続け、五十嵐さんは環境循環型の農業にチャレンジすることを決意した。そして、自分が理想とする農業ができるような場所探しを始めた。そんなときに南牧村の「空き家バンク」と遭遇し、物件を見てみることにした。南牧村のことは何も知らなかった。 ?役場職員に古民家を案内してもらった五十嵐さんは、迷わずその場で南牧村への移住を決断した。築100年ほどで10年以上も空き家となっている物件だったが、家賃は畑込みで年間3万5000円。五十嵐さんは「ここならば自分がやりたい農業ができる」と確信したという。 ?五十嵐さんはつくった野菜や卵を横浜の店に直販したり、県外の知り合いの農家からヤギをもらって飼育するなど、すでに独自の活動を展開している。ヤギ乳でチーズをつくる計画もあるという。これまでに培った人脈は全国に広がっている。五十嵐さんは「村の色々な人たちに気遣っていただいています」と感謝の言葉を繰り返すのだった。 カネではない別の付加価値だってある ハンディだった地域特性を再度強みに ?五十嵐さんのような若い移住者のネットワークが、新たな人を呼び寄せることにつながりつつあるという。そして、外から移住してきた人同士や村の人たちとの交流も広がり始めている。村内に活気が生まれているのである。 ?南牧村の茂木毅恒・村づくり雇用推進課長は、「小さいところなりの良さというものがあります。農業もここでしかできないものがあるはずです。収入面では落ちても、カネではない別の付加価値があると思います。南牧に合った作物を研究したり、起業を考たりしている人もいます。そうした新しい動きに対し、村としても応援していきたい」と語る。 ?強みだった地域の特性が、大きなハンディとなって久しい。しかし、ハンディでしかなかった地域特性を再度強みに転換することも、可能なのではないか。それには地域を熟知した人たちの知恵が必要だ。いや、地域に住む人たちの知恵次第と言ってよいだろう。机上で弾き出された将来予測を覆すことは不可能ではない。 http://diamond.jp/articles/-/61902 |