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外科医のつぶやき
【第26回】 2011年2月17日
著者・コラム紹介バックナンバー
柴田高
“養殖された動物の命で生きてきた”われわれの最後のツケとは?
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2010年秋、私は知人の紹介もあって業界団体の方々とH5N1鳥インフルエンザワクチン、すなわちプレパンデミックワクチンを製造する工場へ見学に行く機会があった。
「この施設は戦後間もないころ建てられたもので、水痘ワクチンを開発した歴史もあり、そのワクチンは世界中で使用されています」
と工場長に説明を受けた。
最近ではインフルエンザワクチン以外に子宮頸ガンを引き起こすヒトパピローマウイルス・ワクチンの海外メーカーの認可が社会的機運のもとで進められ話題になった。ワクチン工場の精製施設の案内で「こちらでは養殖用に、魚のワクチンも製造しています」と工場長。「さかな? 魚にワクチンですか?」と思わず質問した私。「魚を養殖するとある時期にいっせいに病気になり、死んでしまいます。白点病などで、薬を撒くと環境問題になりますので、ですから一匹、一匹、ワクチンをうちます」と工場長。
見学に来た業界団体の数名、全員が驚きの表情。「稚魚を海外で育て、ワクチン接種したものを、日本へ輸入します。たとえば、ブリやマダイなど」と。口蹄疫が流行した際、感染疑いの牛にワクチン接種し、感染の発症を抑えながら屠殺するというニュースが報じられていたことを思い出す。一方、鶏、豚や牛など限られた狭い空間で飼育する動物に対しても効率よく飼育し、人間の食材として育てるためにワクチンがうたれる。当然その生き物の命は経済動物として資産価値を生み、人間の都合で取引されるのだが。
一方、われわれ自身を振り返ると子供のころに三種混合ワクチンや天然痘ワクチン、ツベルクリン反応やBCG注射をうたれたことを思い出す。特に、ツベルクリン注射では自分の番を待つ間に、前で仲間たちがうたれる注射針を見つめ、注射液の目盛ひとつが一人分で、同じ注射、同じ注射針で打たれた記憶がよみがえる。結果として、幼かったわれわれの多くが、さまざまな疫病から逃れ、大人になることができた。動物へのワクチン接種は食材確保であり、人へのワクチン接種は病魔で淘汰されないための必要な手段となっている。
ある日、「ちょっと、家族のことで相談したいことがあって」と友人のMさんからの電話。その内容とは寝たきりで、意識がないお母様がおなかの外から胃に管を入れる胃管挿入の手術を病院で薦められ、さらに別の病院への転院の話をされたという。「これからの長期療養生活の中での栄養管理上のためのもので、さらに強制栄養を可能とするもので…」と答える私に「お母様を餓死させることはできないでしょう、とお医者さんから言われたもんで」と困惑の言葉が返ってきた。「致し方ないとは思うけど、お母様の元気なころの意向とか、これからのご家族の覚悟とか話し合って決める以外ないと思うけど」と答えるしかできなかった私。
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しかしながら、今日の現状では、自宅で寝たきりのお年寄りの医療介護は不可能に近く、お医者様の勧め以外の選択肢は皆無に等しい。意思疎通ができないまま、強制的に栄養チューブである胃管から栄養分が与えられ、インフルエンザワクチンをうたれ、人間らしさとはかけ離れた形で経済負担が続くかぎりの “収容生活”が始まる。
そんなある日、知床半島の自然を映し出すテレビ映像を見る機会があった。「知床はオホーツク海に向けて尖がったシダの葉の形で、半島には左右に何十本もの川があります。毎年、川の上流へ向けて、数百万ぴきの鮭が産卵にやってきて…」とナレーションは続く。
「川の上流で産卵した卵が稚魚となり、川を下って海へ出ます。そしてベーリング海峡にそって外遊魚として2年間、たくましく自然の中で育ち、生まれ故郷の川をめざして戻ってきます。そして、淡水と海水の混ざり合う川の河口の波打ち際で何度も何度も淡水をあび、鮭の体が真っ赤に変わり、決死の覚悟で、生まれた場所、川の上流をめざします。次の新たな命を育むために」とナレーションとともに産卵のシーンが映し出される。大きく口を開け卵を産みおとすメスの横で、寄り添うオスが大きな口を開け、川の水が白くにごるまで精子をまく。受精した卵はわれわれが口にするイクラではなく、命が宿ったピンク色の卵。しかしながら、産卵を終えた魚たちは鱗がはげ、生きる力を卵に託したかのように息は絶え絶えとなり、死んでゆく。
その映像に、私は生き物の“はかなさ”と生き物がもつ“尊厳”を感じた。それは、自然界の競争に勝ち抜き、淘汰された仲間の命を背負って生き抜き、種の保存という使命を果たし終えた自然な姿の死であった。
それに引き換え、われわれ人間はどうであろうか。数十年前までは、死亡原因の上位に、老衰という病名があった。老衰とは年老いて食事が取れなくなり、からだ全体が衰えて死ぬことである。しかし、年老いて食事が取れなくなっても病院へ収容され、医療が施される。寝たきりで、意思疎通ができなくなっても、ワクチン接種やチューブ栄養で生かされる。
家庭で最後を過ごせないわれわれは、経済効率のために狭い空間に収容され管理される。そこではワクチン接種や強制栄養、さらに徹底した院内感染対策が実施され、集団で生かされる。
医療は、年齢にかかわらず平等に施されることが理想である。一方、少子高齢化が進む日本において高齢者の介護や医療は、大きな経済市場でもある。
因果応報という言葉があるが、“養殖された動物の命で生きてきた”われわれ人間の最後のツケがこんなかたちで待っているとは皮肉なものである。
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