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http://www.arsvi.com/2000/0504ky.htm
小泉 義之(立命館大教授)
飢えた子どもを前に、「君には飢える自由がある」と告げたとしよう。ひょっとしたら、その子は思慮深くて、「そうだ、私には、飢えて死ぬ権利がある」と思うかもしれない。そして、自らの理性と意思で、即身成仏よろしく、悟りすまして死んでゆくかもしれない。そんな子もいるだろうと私は思ってはいる。しかし、「君には飢える自由がある」と告げる側の者は、飢えた子どもを死ぬにまかせ、飢えた子どもを殺していると私は思ってもいる。死ぬ自由を告げる者は、何か罪を犯している。
では、飢えながらも悟りすました子どもがいるとして、その子に向かって、死ぬ自由があると罪を犯すことなく言えるための条件は何だろうか。簡単なことだ。その子に水や食物を与えることである。その子が心置きなく生きられる条件、衣服や家屋、所得や物品、余裕や余暇、必要なら人工呼吸器や人工経管栄養を与えることである。飢えて死ぬコース以外に、生きるコースを開くことである。その子が元気になった後なら、死ぬ自由があると告げても許されるかもしれない。
現在、国会議員の一部に、尊厳死法を制定する動きがある。欧米の法律を真似たものになるであろうが、私はその類の法律は無用と考えている。二つだけ記しておく。
第一に、法的にも倫理的にも問題が多い(立命館大学先端研院生・大谷いづみのHP参照)。これは賛否にかかわらず、批判されて然るべきことである。一つだけ指摘する。欧米の法律は、これは論争のあるところだが、実質的には、末期状態などの状態の人間に、死ぬ権利が生ずるとするものである。その状態の判定は医師が行なうから、死ぬ権利を医師が創造することになる。これは法的に奇怪である。ところで、その状態と判定されたなら医師の管轄外に置かれるはずだが、死ぬ権利を代理遂行するのは医師に限られている。これは医療倫理的に奇怪である。しかも、各用語の法学的・医学的定義は混乱しているのに、法学と医学だけで事を決しようとしている。控えめに言っても、尊厳死法制定は余りに時期尚早である。この件に関わる官僚と専門家に、冷静で厳格な判断を強く求めておきたい。
第二に、尊厳死法の動きは、人工呼吸器や人工経管栄養で生きている人間もターゲットとしている(同院生・川口有美子のHP参照)。そして、生きるコースを開くはずの機器類と人手と資金を与えず、尊厳を欠いた状態と決めつけ、「あなたには窒息する自由や飢える自由がある」と告げようとしている。衣食足りた側の者が、礼節を欠くだけでなく、罪を犯そうとしているのである。
他にも論点は沢山ある。私も迷うところはある。だから幾らでも議論すればよい。しかし、元気な者が、法律の威を借りて、ある種の人間に死ぬ権利を与えてやるなどということは、どう考えても許されることではない。
『京都新聞』2005/04/01夕刊
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他の事に対しても前半に書かれた視点は必要かと思い(小生は先日こういう視点を忘れたために大いに後悔したので)、投稿する次第ナリ。