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http://hiroya.web.infoseek.co.jp/「文筆劇場 ジョン・スミスへの手紙 サイバー・ラボ・ノート」から下記を転載投稿します
=転載開始=
ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (2815)
NHKスペシャル「私たちは核兵器を作った」覚書
NHKスペシャル「私たちは核兵器を作った」(2010年12月19日放送)を視聴しました。その覚書は以下の通りです。
アメリカでは、これまで70万人を超える労働者が核兵器製造を現場で支えてきた。核兵器工場は国家機密であり、労働者には厳しい守秘義務が課せられている。しかし今、その実態を元労働者たちが語り始めている。
オバマ政権は今、老朽化した核兵器工場の解体作業を進めている。元労働者たちが口を開くキッカケになったのも、2009年の核兵器工場解体だった。工場が解体され、守秘義務が解かれた。
アメリカ・コロラド州。デンバーから車で30分の距離。いち早く解体が行われたロッキーフラッツ核兵器工場の跡地がある。核兵器の中枢である「起爆装置」を秘密裏に製造していた。
ロッキーフラッツは1952年から1992年まで稼動していた。広さ25平方キロの空間で、最盛期は6500人が働いていた。核兵器の起爆装置を7万個製造し、アメリカの核戦力を支えてきた。
ジャック・ウィーバーさん(69歳)。現場の労働者出身で副所長まで勤めた。ロッキーフラッツで起きていたことを公開するため、資料館をつくろうとしている。
「ロッキーフラッツはあまりにも長い間、あまりにも秘密にされすぎてきました。解体され、跡形もなくなった今だからこそ、人々の目に触れさせたいと思います。」
ロッキーフラッツの労働者たちは"グローブボックス"と呼ばれる設備に、"手だけ"を突っ込んで、"ゴム手袋"を通してプルトニウムを扱っていた。それが典型的な光景だった。
ウィーバーさん 曰く「プルトニウムは濃い白というか灰色をしています。プルトニウムは熱を発していて、手袋越しにもその熱を感じ取れます。手を温めるにはちょうどいい温度でしたねえ。」
プルトニウムで作っていたのは、起爆装置の中心になる"コア"と呼ばれる球体だった。
ウィーバーさん 曰く「とてもデリケートな装置ですから、取り扱いには慎重さが求められます。落とすのはもちろん、かすかな傷をつけてしまうだけで不良品になり、最初から作り直さなければなりません。緊張します。何しろ、手の中に核兵器を握っているのですからね」
また、ロッキーフラッツでエンジニアをしていた ケン・フリーバークさんは「現場ではプルトニウムの危険性がわかっていなかった」と指摘する。
労働者たちはプルトニウムが出す放射線に被曝していった。それを物語る内部資料も発掘された。資料によると、ロッキーフラッツ開業の翌年、プルトニウムの放射線を防ぐ遮蔽物なしに加工が行われていた。
被爆は日常的に起きていた。数年後、遮蔽物が設置されたが、"ゴム手袋"でプルトニウムの加工を行っていたため、労働者の手や腕が被爆した。創業から6年、ようやく"鉛入りのゴム手袋"が配備された。
元労働者曰く「ロッキーフラッツには生産性を上げるというプレッシャーが常にかかっていました。いつもその全体像を知っていたのは上層部だけで、私たち現場の人間はパーツを作ることだけに専念していました。」
当時、アメリカの核兵器を管理していたのは国の原子力委員会だった。その一方、核兵器工場を運営していたのは民間企業だった。原子力委員会は「3ヶ月に3レム以下の被爆に抑える」という基準を作ったが、これは現在の国際基準の6倍というゆるさだった。
1960年代になると起爆装置の生産に拍車がかかった。当時のゆるい安全基準を超えた労働者の被爆が頻発するようになった。内部文書では「生産現場のすべての労働者の被爆量が大幅に増えた」と報告されている。
元労働者曰く「放射能漏れを知らせるアラームがしょっちゅう鳴り響いていました。多くの労働者が傷ついていきました。」
相次ぐ被爆を受けて、ロッキーフラッツは本格的な被爆対策を検討する。しかし、巨額の資金が必要だった。ロッキーフラッツは本格的な対策を先送りにする。そして、原子力委員会には「とりあえすの防御施設を導入し、労働者を短期間で配置転換しながらしのいでいく」と報告した。
1964年、中国の核実験等に伴い、アメリカは相手を圧倒できるだけの核兵器の量産に必死になっていた。
原子力委員会では放射線の人体への影響の研究が進められていた。ビーグル犬を使って、「どの程度の放射線を浴びるとガンなどの病気を発症するのか」が実験された。しかし、動物実験では限界があった。
そこで、原子力委員会は研究者に「ロッキーフラッツの現場を活用してはどうか」と提案した。曰く「動物実験にも価値はあるが、最終的には本物の人間の研究が必要になる。」
人間の被爆データを求めて、核物理学、薬学、医学など第一線の研究者たちがロッキーフラッツに集まった。
研究者としていち早くロッキーフラッツに赴いたロバート・バイスラインさん。そこで目にしたのは、放射能漏れ事故が相次ぐ現場だった。
「何しろロッキーフラッツには、事故による火傷、切り傷、刺し傷、様々な被爆者が2000〜3000人いたのです。そして私たちは、労働者の体内にあるプルトニウムの量を正確に把握できたのです。」
ロッキーフラッツから秘密裏に報告された事故データにより、1957年から1966年までの10年間に、大きな放射能漏れ事故が462件、負傷した労働者数は1,707人に上ることが判明した。
しかし、現場の労働者たちは一切、口を噤(つぐ)んできた。
ジュディ・パディーラさん。ロッキーフラッツで22年間働き、核の起爆装置を作ってきた。会社との契約で厳しい守秘義務を課されてきた。
「ロッキーフラッツでは守秘義務に少しでも違反すれば、即座に解雇されることになっていました。場合によっては、スパイ容疑で刑務所行きになるとされていました。」
また、ジュディさんが繰り返し念を押されたのは「事故の情報であっても、外に漏らしてはならない」ということだった。曰く「何よりも秘密が最優先の職場でした。"国の安全はお前の沈黙にかかっている"と言われ続けました」
エンジニアで元軍人のケン・フリーバーグさん。退役後もアメリカの国防を支えたいとロッキーフラッツに入った。仕事の内容は誰にも明かさず、近所の人には「バスの運転手をしている」と言っていた。
1969年、グローブボックスを火の元に火災が発生。その中でプルトニウムが突如として発火した。連結されたグローブボックスを通して、火が燃え広がった。駆けつけた消防隊が消化剤で立ち向かったが全く歯が立たなかった。
数百キロのプルトニウムが発火し、放射能を含んだ煙が建物内に充満した。炎はやがて、天井や壁を燃やし始めた。屋根が燃え落ちたら、大量のプルトニウムが外部に飛散する。近くには人口110万の都市デンバーがあった。
大量の水を振り掛けて、鎮火する方法が検討された。臨界に達し、核分裂の連鎖反応を起こす危険がある。臨界の危険を冒してでも、水を使って鎮火すると決断された。
ウィーバーさん曰く「消防隊長は水を使いました。名断だったのか、単に運がよかっただけなのか、結果的にプルトニウムは臨界には達しませんでした。ただあれ以上火災が広がっていたら、デンバーまで汚染される大惨事になっていたことは確かです。」
この”火災事故”を受けて、原子力委員会はホワイトハウスに報告書を送っている。宛先はヘンリー・キッシンジャー。キッシンジャーはロッキーフラッツの復旧について、重大な関心を示していた。
報告書は「事故の直後から復旧を図っているが、高い放射能に阻まれて進んでいない」としながらも「今後の核実験の実施に支障が出ないよう他の核兵器工場と協力し、対応していきたい」と結んでいる。報告書では労働者の健康被害(消防士と労働者が深刻な被爆)については全く触れられなかった。
2010年夏、核大国アメリカを支えてきた重要な施設が解体されていた。ワシントン州のハンフォード核施設。長崎に落とされた原子爆弾"ファットマン"の原料となるプルトニウムを生産した。
アメリカ政府は、解体と合わせて施設の放射能汚染を除去するとしているが、深刻な問題が浮上している。
地元のワシントン州の弁護士トム・カーペンターさん。ハンフォードの敷地に沿って流れているコロンビア川で放射線の測定を行っている。放射能濃度は通常の2倍。
ハンフォードは放射能に汚染された冷却水をコロンビア川に垂れ流していた。そのため、川岸や川底から今も放射線が出続けている。
カーペンターさんのもとにはハンフォード解体にあたっている技術者から内部告発も寄せられていた。放射性廃棄物地下タンクが敷地内に177基残されていた。腐食して中身が漏れ出す寸前だったり、有毒ガスが溜まっていて危険が大きすぎるため、処理が大幅に遅れていた。
「汚染は留まり続けるでしょう。政府がここを管理している間はまだいいのですが、その後が問題です。放射性廃棄物は長い間、環境に影響を及ぼし続けます。」
アメリカ政府も問題は認識しているものの巨額のコストがかかるため、完了の目処はたっていない。
アメリカの核関連施設は300箇所に上る。オバマ政権はその中から21箇所を選び、老朽化した施設の解体と放射能汚染の除去を進めるとしている。ロッキーフラッツがその手始めだった。
ヘイゼル・オレアリー元エネルギー省長官。クリントン政権下、ロッキーフラッツの現場を視察し、あまりに放射能汚染が進んだ実態を目の当たりにし、解体と汚染除去を決意した。
オレアリー氏曰く「ロッキーフラッツは、素人が見てもわかるほど、施設のあちこちで腐食が進み、汚染が広がっていました。私が解体を決めたとき、ロッキーフラッツは20年間かけて汚染除去を行うという計画だったのです。」
1994年に始まったロッキーフラッツの解体。作業を始めると、排気ダクトの中にプルトニウムがへばりついていた。廃棄ダクトは80キロにも及ぶ。大きな事故が起きて封鎖されたままになっていたインフィニティルーム(放射能が無限大)まであった。
リーバイ・サモラさん重大な被爆を覚悟でこの部屋に入った。曰く「中は計器で測定できないほど、放射能で汚染されていました。殺人的な放射線の量があることを意味していました」
ジャック・ウィーバーさん曰く「ある日、所長がワシントンから戻ってきて"作業を6年に短縮しろ"と言われたというのです。私は最低でもその倍はかかると思っていたので、全く同意できませんでした。結局、解体と称して行われたことは建物を壊しただけでした。汚染された残骸をその場に埋めてしまうというやり方でした。それが現在でもあの敷地が立入禁止になっている理由です。放射能汚染が地下にそのまま眠っているのです。」
ロッキーフラッツはその後の核兵器工場解体のモデルケースとされている。
ロッキーフラッツの解体に伴い、労働者たちは職を失った。そして、ガンや白血病などが続出した。その数は3,000人に上る。30代、40代で発症するケースが目立っている。政府は医療保障の制度を設けているが、多くの労働者は申請を却下されている。
ロッキーフラッツがなくなり、労働者たちは会社の医療保険が使えなくなった。高額の医療費が重くのしかかっている。親族16人とロッキーフラッツで働いてきたミッシェル・ドブロボーニさん。41歳で脳腫瘍を発症し、肝機能障害も起きている。政府に医療保障の申請をしたものの却下。
曰く「私たち一族がいい例でしょう。ロッキーフラッツで働いていた3人の従兄弟、義理の父、みんなガンで死にました。みんな最期は悲惨でした。みんな国の犠牲になったんです。でもあの頃は、私も後方の前線で戦う兵士だと思っていました。」
愛国心に燃えて核兵器を作ってきた労働者たち。しかし、その多くは、放射能による病気を患い、国からの保障もないままに死んでゆく。
ジュディさん曰く「私は死んでいった人たちの声になりたいのです。今、現場で被爆している労働者たち、そして未来の世代が気がかりです。彼らが騙されているとは思いませんが、正しい情報を受けているかどうか。私はどんな危険があるかを彼らに知らせたいのです」
一方、各施設で働き、亡くなった労働者たちの人体データは収集が進んでいる。USTUR(アメリカ・超ウラン・ウラン・レジストリー)には、ガンなどで亡くなった核兵器施設の労働者の遺体が献体を受けて集められている。
集められた遺体は300あまり。現場でどれだけ被爆し、それが病気とどう関係していたのか。"彼ら"は核兵器施設のための貴重なデータとして活用される。
これまで70万人を超える労働者が核兵器製造を現場で支えてきた。その負の代償は、重く残されたままだ。
(以上、5200字)
山田宏哉記
【関連記事】 NHKスペシャル「"核"を求めた日本」要約
=転載終了=
上記『【関連記事】 NHKスペシャル「"核"を求めた日本」要約』をhttp://hiroya.web.infoseek.co.jp/「文筆劇場 ジョン・スミスへの手紙 サイバー・ラボ・ノート」から下記のように転載投稿します。
=転載開始=
ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (2710)
NHKスペシャル「"核"を求めた日本」要約
NHKスペシャル「スクープドキュメント "核"を求めた日本 〜被爆国の知られざる真実〜」(10/3放送)の要約を以下にまとめます。
2010年3月、ひとりの外交官が亡くなった。元外務事務次官の村田良平氏。かつて政府内で核兵器の保有を模索していた事実を初めて明かした人物だ。
村田氏は、佐藤栄作政権下で外務省の調査課長だった。
1964年、中国が核実験を行った。そして、アジアで初めての核保有国となった。これに焦ったのが日本だった。
中国の核実験から3ヶ月後、佐藤首相はジョンソン大統領と会談する。この日米首脳会議のアメリカ側の議事録で、佐藤首相の以下の発言が記録されている。
「個人的には中国が核兵器を持つならば日本も核兵器を持つべきだと考える」。
アメリカ側は日本に核保有を思いとどまるように伝えた。当時の核保有国は、米、英、仏、ソ連、中国の五ヶ国。NTP核拡散防止条約により、アメリカは経済発展が著しい日本や西ドイツが核兵器を持たないように求めた。
村田良平氏の言葉を借りるならば「なんとか核兵器を持てるきっかけをつくるように努力すべきだと思いました。(こういう話は)全部、裏取引。(西ドイツと)意見交換をやって、なんとかこれ(5大国による核兵器の独占的支配)を覆す方法がないだろうか、と」。
そこで日本が秘密裏に接近したのが西ドイツだった。協議の申し入れは日本側から行った。村田氏の秘密協議の相手は、西ドイツ外務省の政策企画部長(当時)のエゴン・バール氏だった。外交政策を一手に担っており、後に東西ドイツの統合でも重要な役割を果たした人物だ。
番組ではエゴン・バール氏はNHKの取材に対して「日本の外務省から極秘の会合を行いたいと申し入れがありました。第二次世界大戦の同盟国だった日本とドイツの初めての協議は国際的にも関心を集めかねないため極秘に行われたのです」と証言している。
日本と西ドイツの秘密協議は人目を避けて、箱根の旅館で行われた。
日本側の出席者は、鈴木孝(国際資料部長)、岡崎久彦(分析課長)、村田良平(調査課長)。西ドイツ側は、エゴン・バール(政策企画部長)、ペア・フィッシャー(参事官)、クラウス・ブレヒ(参事官)。
そして、以下のような発言がなされた。
日本側発言「日本と西ドイツはアメリカからもっと自立する道を探るべきだ。両国が連携することが超大国になるために重要だ」。
西ドイツ側発言「日本と西ドイツの置かれている状況は違いすぎる。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定はできない」。
日本側発言「10年から15年のうちに核保有を検討せざるを得ない『非常事態』が起こると考えている。中国が核を持つことをアメリカが認めたり、インドが核保有国となるような事態だ」。
日本側発言「日本は憲法9条があることで、平和利用の名の下に、誰にも止められることなく原子力の技術を手にした。日本は核弾頭を作るための核物資を抽出することができる」。
エゴン・バール氏はその夜「大変なことだ」と激しく動揺したという。当時のブラウン首相への報告書には「日本が超大国を目指し、核弾頭を持つこともあり得る」と記した。
では、日本に核兵器を作る能力はあったのか。
日本政府は核兵器を作る技術を調査していた。その責任者だったのが、元内閣調査室主幹の志垣民郎氏。濃縮ウランを確保する方法や弾頭を作る技術などを調査研究し、その成果は「日本の核政策に関する基礎的研究」という報告書にまとめられた。
その結論は「有効な核戦力を持つには多くの困難がある」というものだった。周辺国との関係悪化や国内の反核感情の強さが障害となった。「できなくはないけど、やるのは大変」だったようだ。
佐藤栄作氏の側近中の側近だった楠田實氏の資料によると、1967年、佐藤栄作首相がジョンソン大統領と会談した際、佐藤首相はジョンソン大統領に「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守るという約束を期待したい」と迫った。
ジョンソン大統領はこれに対して「私が大統領である限り、われわれの間の約束は守る」と答えた。
ジョンソン大統領との約束を踏まえて、佐藤首相は当時の米国国務長官に対して「日本の安全保障のために核を持たないことはハッキリ決心しているのだから、米国の傘の下で安全を確保する」と伝達した。
この2ヶ月後、佐藤首相は有名な「非核三原則」を宣言し、それは1974年のノーベル平和賞の受賞理由にもなった。
日本は決して"無垢な被爆国"ではない。むしろ、核武装を望んでいたのだ。おそらくこれは、平和国家・日本の正統性とアイデンティティを根本から揺さぶる事実だろう。
山田宏哉記
=転載終了=
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