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拙者はこのところ「愛」の起源は性愛から発しますでねえかと考えておったが、そればかりではねえらしい。『愛のヨガ』によるど四つぐれえの起源を挙げておる。
コレ言いかえるど、芸術・学問分野の子弟関係、スポーツ・武術分野の子弟関係のなかがらも「愛」が生まれる。合気道六段、丈術二段という内田樹もそんな意味を言っておった。看護人が被看護人に抱く愛情も、すべて緊張と弛緩のなかに喜びを感じることから生じるのだと。
ギャンブルも同じだと。拙者未経験じゃがギャンブラーは馬や自転車にも「愛」を覚えるんでしょうなあ。
愛の起源はまちまちだが、横断的に共通しているのが肉体的・精神的緊張から解放されリラックスするときの喜びがすべての種類の愛の主なみなもとだとして、ソクラテスの「われわれが要求するものすべてが愛である」との言葉を引用しておる。高邁な倫理観から説かれてきたかもしんねえ「愛」というもんが分かったようでホントは分がらながったが、「緊張から弛緩へのあいだで経験されるよろこび」が愛の起源だちゅう説明は新鮮で分がりやすかねえがえ〜。
いろいろな諸起源からなる「愛」がからみあって近所愛から同胞愛さらには人類愛ってえものに発展していぐんでにゃあのと違うか?
『愛のヨガ』ルドルフ・V・アーバン/野草社‘85年から抜粋
第九章 愛の選択―その原則と落とし穴
・愛と性との関係とは何か? これまでのところ、答えはみつかっていない。ただわかるのはこの最愛のひとのそばにいると幸せだということだ。そのときだけわたしたちはやすらぎをえる。わたしたちは彼または彼女と永遠に暮らしたいとおもう。
・あらゆる愛の感情の土台は、それが精神的であろうと肉体的であろうと、喜びである。よろこびの期待、あるいは以前経験したよろこびの記憶さえ、われわれの内に愛の感情をうみだすことができる。このよろこびは人間、無生物、あるいは観念によってさえ、もたらされる。
ウィルヘルム・エルサル教授によると、人間には四つの喜びの源がある。
@感覚的よろこび。―絵画、音楽、花の香り、などへの反応。
A知的よろこび。―豊富な思想や考えに現われる。
B空想のよろこび。―空想的体験や白日夢をみたりすること。
C情緒的よろこび。―ギャンブルや危険なスポーツなどによる興奮。
これらは最終的には緊張からのリラックスをもたらす。直接性的なみなもとからではない。
緊張からの弛緩要求がすべての種類の愛の主なみなもとといえる。
ソクラテスがプラトンの『饗宴』でいっている。「われわれが要求するものすべてが愛である」。われわれは要求を満たしてくれそうな能力をもった気の合うひとを愛する。めんどうをみてくれる両親を愛する。知的成熟を達成するのを手伝ってくれる教育者や指導者を愛する。またわれわれは性器の緊張から十分リラックスをもたらしてくれるひとを愛する。このような愛情が性のよろこびと結びつくならば、その起源は性的だといってよい。われわれはこれらのひとぜんぶを必要とするかぎり愛する。
・看護を天職とする女の人、あるいは若いころから職業としてよく訓練された人は、看護することの欲求を満たすこと(で満足する)。母性本能は母親に同じような要求をつくる。
「すべての愛情の基本は、それが知的、精神的または肉欲的のどれであろうと、よろこびである」−それがわれわれの仮定であった。よろこびは緊張から弛緩へのあいだで経験される。
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