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(投稿者記)http://hiroya.web.infoseek.co.jp/ 「文筆劇場 ジョン・スミスへの手紙 サイバー・ラボ・ノート」から下記を転載投稿します。
掲題のような題目を付けた文章には地に足がついてないようなものが多かったのですが、下記は違います。
=転載開始=
ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (2717)
現実逃避としての"愛国"
「"愛国"とは、現実逃避の別名である」。今まで、公然と主張することはさすがに憚られました。
しかし、中国に反発する若者たちが政治運動に組み込まれつつあるので、この際、言っておかなくてはなりません。
【写真】日中に反中国デモが発生し、物々しく警備される中国大使館
(投稿者記:同投稿記事冒頭のURLに写真掲載)
そもそも、大衆運動あるいは政治運動に肩入れするのは、大抵、その時代のミスフィッツ(社会不適応者)たちです。
これは、"波止場の哲人"であるエリック・ホッファーが今から60年前に指摘していたことです。それは現代社会においても例外ではありません。
将来が閉ざされた若者にとって、愛国心という「神聖な大義」は、あまりに輝いて見えるものだ。極端な例になりますが、現状に満足している人間は、"自爆テロ"に走ったりしません。
冷酷な言い方になりますが、個人としての競争に敗れた者は、自分のアイデンティティを「国家」や「民族」と同一視する場合が多いものです。
僕自身、最も"愛国心"が高揚したのは、大学受験に失敗した浪人時代でした。このことは正直に告白しておかなくてはなりません。社会からドロップアウトした者ほど「愛国者」になりやすいとは、皮肉な逆説です。
極論すれば、普通の生活を送るなら、愛国心は希薄な方が望ましいのです。
集団の一員であることを最も誇りに感じるのは、その集団の底辺にいる者たちです。これは大学、企業、国家のいずれにも当てはまります。誰しも薄々、気付いているでしょう。
庶民が、殊更に「日本人であることの誇り」とか感じて政治運動に参加するのは、何か歪みがあるのです。
おそらく、"彼"は何かから逃げている。それは、生活費を稼ぐという制約であったり、学校で苛められていることだったり、職場での不遇だったりするのでしょう。
一般に男は天下国家を論じるのが好きですが、それが仕事でない限りは、多分に現実逃避の意味合いを持ってます。僕自身、大上段に構えた話をするときは、そのような自覚を持つようになりました。
結局のところ、思想はその人が置かれた社会的な立場、経済的な立場と無縁のものではあり得ない。
低所得者や社会不適応者が左翼運動、民族主義運動、さらには宗教運動にコミットするのは世の常です。
理論の名前や中身は様々でも、いずれも「怒った若者のガス抜き機能」を果たしています。このような大きな構造を無視して、思想の中身の議論に没頭するのは滑稽でしょう。
これがリアリストの見方だと、今の僕は考えています。
山田宏哉記
・・・・・・
ジョン・スミスへの手紙
サイバー・ラボ・ノート (2724)
僕たちは"戦争をする理由"を失った
インターネットの普及以降、「戦争をする理由」がなくなったと思います。
もはや大国間で"正義のための戦争"をする必然性はありません。自分が軍隊に志願し、敵国の兵士を殺したいなどと思うこともないでしょう。
まして、ニューヨークやロンドン、香港やシンガポールといった都市を爆撃して、一般市民を殺傷するのは、人道上、許されないと考えるべきでしょう。
いつしか僕たちは「戦争を仕掛けて、皆殺しにしたい程に他国の国民を憎む」ということができなくなりました。極悪非道な独裁者に支配された国家であっても、その国民の大半は普通の人間なのだと知ってしまったからです。
先の戦争の際、「鬼畜米英」などと言って憎悪を募らせることができたのは、結局は、情報不足で相手のことを知らなかったからです。知ってしまったら、本気で憎めない。
世界中に友人がいたり、世界中でビジネスを手掛ける人が、積極的に戦争を望むということは考えられません。ウェブによって「世界中がつながっている」という感触もリアルにつかめるようになりました。
("地球市民"という言葉も、かつては市民運動を揶揄のための言葉でしたが、ウェブによってまんざら絵空事でもなくなりました。)
その一方で、内心、戦争を望んでいる人は僕たちが考えている以上に多いものです。
例えば、競争社会から脱落したミスフィッツ(不適応者)たちは、潜在的な戦争待望者だと言えます。
赤木智弘氏の有名な論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(『論座』2007年1月号)は、戦争を望む"敗者"たちの心情を活写しています。
事実、「生と死のギャンブル」によって、既存の秩序をシャッフルするという思想には悪魔的な魅力があります。僕自身、落ちぶれて路頭に迷い、二度と這い上がることができないと悟ったら、戦争を望むと思います。
僕たちは未来が閉ざされたとき、戦争に"活路"を見出してしまう。為政者もまた、内政に失敗すると、戦争を起こして国民の目を反らすものです。これらは人類が何度も繰り返してきた過ちです。
実際に戦争がなくなるかどうかはわからない。
それでも、客観情勢としてはもはや戦争をする理由はない。戦争を正当化するだけの正義もない。
インターネットの普及によって、人類はようやく「僕たちは"戦争をする理由"を失った」と言えるようになったのです。
山田宏哉記
=転載終了=
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