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日英同盟解消後、下り坂を轉げ落ちるが如く、大日本帝國は破滅した http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/460.html
(回答先: 「日米同盟というものを持続的に撤回(ママ)させていく」と発言 鳩山由紀夫 環境保護推進派人権団体日本アンチキムチ団據り 投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 4 月 15 日 01:01:12)
「合衆國が日本の亞細亞支配を沮止する爲に第二次世界大戰を戰つたのは、 「二十年後には、日本と云ふ國家は、地上から消滅してゐるであらう」 「胡主席とは主に二つの問題に就いて討論した。 「日本は孤立する(畢竟、孤立させる)」 「日本は我々のカルタゴである、 ポーランドと言へば、サバタイ派=フランキストの教祖「ヤコブ・フランク」 「このアブラハム・ガイガーの活躍によって、ドイツのユダヤ人の間では、 日本破壞・抹殺の爲の雙頭作戰 「移民爆彈」と「第二次日支鬪爭計劃」と コンバーグ計劃 b國日本をバラバラに解體するシナリオ 道洲制と外國人地方參政權の意味するもの 米國と中共は一體である 鳩山首相「私が申し上げたのは、沖縄の負担というものを軽減するということ。日米同盟というものを持続的に撤回させていく」 日米同盟の見直し論、最悪の場合「米中安保」締結へ転換も(zakzak)…それっていいことでは? (ヤメ蚊) 概要 日本脅威論 第一次世界大戦において日本が連合国5大国の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなど、アジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受けた。 さらにこれに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果日本からアメリカへの移民が禁止されるなど、第一次世界大戦終結後に日本とアメリカの関係は悪化することとなった。 日英同盟解消 さらにアメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋地域に権益を持つ自国と日本、イギリス、フランスとの間における太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」の締結を提唱し、同盟国であり歴史的に関係の深いイギリスにこれを強く進言した。 結果的にアメリカの思惑通りに1921年に「四カ国条約」が締結され、この条約の締結により日英同盟は「発展的解消」され、日本は国際的に孤立し、後の日米対立、日英対立と太平洋戦争への布石となっていく。 外部リンク データベース「世界と日本」 - 太平洋方面に於ける島嶼たる屬地及島嶼たる領地に關する四國條約(四国条約、ワシントン条約) 概要 カラーコード戦争計画は連合国対枢軸国を仮定したレインボー・プランに先行した計画であり、オレンジ計画はアメリカ合衆国が日本のみと戦う場合に基づいていた。この計画では、緒戦ではカリフォルニア基地での太平洋艦隊の編成(平時は、艦船はその乗組員の半分のみ保持している)と、日本軍のパナマ運河への攻撃に対して防衛することが重視され、その間フィリピンや他の西太平洋におけるアメリカの海外領土では物資の供給停止を予期した(これらの地域では、アメリカ本土からの応援は期待できないため独力で持ちこたえるとされた)。 艦隊は、動員とカリフォルニアでの編成後、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援するために、西太平洋に出動する。その後、艦隊は日本海軍との決戦のために真北へ進み、さらに日本本土を海上封鎖する。 日本海軍は、アメリカ艦隊の太平洋横断を許すものの、途中で潜水艦や空母機動部隊から攻撃しアメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策(日本ではこれを『漸減邀撃』と呼んだ)を作成していると考えられた。そのような消耗を与えた後で日本艦隊は日本近海の「決戦海域」へ艦隊を誘い込みアメリカとの戦いを挑むとした。これは、300年以上にわたりそうであったように、戦争は敵対する国家が保有する海上艦隊同士の交戦によって決する[2]としたアルフレッド・セイヤー・マハンの理論(あらゆる主要海軍が第二次世界大戦の前に支持した学説)に合わせている。 これはワシントン海軍会議において日本が求めた海軍比率70%(米10:英10:日7)の根拠でもあり、この比率が「決戦海域」における日本艦隊の優越性をもたらすものと日本側は考えていた。アメリカも、日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろうと考え日本側に対し60%の比率を主張している[1]。 アメリカの戦争立案者たちは潜水艦と海軍航空活動の技術進歩がマハンの学説を時代遅れにしていることを正しく評価することができなかった。特にアメリカの立案者たちは航空機が戦艦を沈めることができることも、真珠湾でなされたように日本が戦列である戦艦を一挙に活動不能に陥らせる可能性についても理解しなかった。 アメリカの計画は真珠湾攻撃後、変更された。しかしミッドウェー海戦での日本の大敗北後でさえ、米艦隊は秩序立った「島から島へ」の前進を好み、陸上基地からの航空支援という範囲を大きく越えることは全くなかった[3]。 一方日本海軍も「艦隊決戦」に執着し、対潜水艦戦、通商路確保の持つ死活的な役割を無視した[4]。この必要性は、ドイツの連合国に対する、およびアメリカの日本の護送船団に対する潜水艦作戦で示された。アメリカの作戦は最終的に日本の工業生産を阻害した。日本は反通商破壊作戦を用意することにも明らかに失敗した。 小説(仮想戦記) 青山智樹『米国東海岸強襲』 勁文社(ケイブンシャノベルス V‐50 第五航空戦隊奮戦録3) 1994.3.15, 213p. 映像作品 NHK特集「ドキュメント昭和〜世界への登場」(5)−オレンジ作戦− 〜軍縮下の日米太平洋戦略〜, 1986年10月6日 NHK総合 ボードゲーム M.Bennighof,『プラン・オレンジ--日本侵攻計画--』,"en:U.S. Navy Plan Orange",en:Avalanche Press),1998、国際通信社、(Command Magazine 別冊第11号) 脚注 ^ a b Miller, Edward S. (1991). War Plan Orange: The U.S. Strategy to Defeat Japan, 1897?1945. Annapolis, MD: United States Naval Institute Press. ISBN 0870217593. 参考文献 『オレンジ計画−アメリカの対日侵攻50年戦略』(エドワード・ミラー著、沢田博訳、新潮社、1994年6月)ISBN 978-4105284015 関連項目 カラーコード戦争計画関連 : レッド計画 - 対イギリス戦争計画 経過 1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸陣営(伊独日)・自由主義陣営(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。日本は1937年から中華民国と日中戦争(支那事変)を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に野心があったアメリカでは人種差別的意識もあって対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリン)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫は地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。 1940年9月、イギリス・アメリカなどが中国国民党政権に物資を補給するルートを遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結の元仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、中華民国領への進出など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており、交渉は一時成立したにもかかわらず、その後蘭印の供給量が日本の要求量に不足しているとして、日本は1941年6月に交渉を打ち切った(日蘭会商)。4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。 7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと更なる挑発行為である対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、イギリスは対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、このうちのアメリカの石油輸出全面禁止が深刻となり、日本国内での石油貯蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」[3]。と論評している。 9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に、甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかしアメリカは、イギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは、暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した[4]。なお、日本側が乙案を最終提案と考えており、交渉終了の目安を11月末程度と考えていたことは、暗号解読と交渉の経過により、米国側にも知られていた[5]。 包囲網の実際 この包囲網の実態に関して。 同時代人の言葉 当時のイギリス首相であるチャーチルは、1941年の対日政策について、「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」としており、7月のアメリカによる経済制裁措置を受けて、「イギリスも同時に行動を取り、二日後にはオランダがこれにならった」と述べている[3]。 歴史学者からの評価 「真珠湾攻撃陰謀説#ABCD包囲網」も参照 脚注 ^ 「つくる会」歴史教科書P203 参考文献 池田美智子 『対日経済封鎖』(日本経済新聞社、1992年) 関連項目 ブロック経済 概要 名前の由来は「(中華民国総統の)蒋介石を援助するためのルート」。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国大陸に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。現在の日本では、単に「援蒋ルート」と言った場合、後述の「ビルマルート」を想定していることが多い。 経路 援蒋ルートの経路は、日中戦争(支那事変)の開戦から太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。 関連項目 ビルマの戦い 外部リンク ビルマ、1942年 - アメリカ陸軍軍事史センター:1941年12月〜1942年5月のビルマの状況を紹介。 支那事変の勃発 1937年の盧溝橋事件から日本と中華民国との間では急激に緊張が高まりつつあった。両国との間では戦闘と交渉が何度も行われたが和平調停は成立せず、両国は本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったポルトガル領マカオが事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。 国民党政府は中国内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、やイギリス領ビルマ、タイ王国などから陸路と空路で細々と得ることしか出来なくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する「援蒋ルート(仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した) 1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋ごろから投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国進出は更に進み、最終的には中国大陸全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。 ただ、日本の陸軍大学留学経験のある親日家でもある蒋介石は日本との戦闘を本心ではなかったとも言われている。 空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場 1930年代後半、日本軍の脅威を感じていたこの頃に蒋介石は自国の軍備状況が他国に比べて遅れていることから、外国の新型武器・兵器の購入を行い、さらにアメリカなどの友好国から数人の外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。 盧溝橋事件の数ヶ月前、アメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートもこの時、蒋介石の妻で国民党航空委員会秘書長であった宋美齢の呼びかけにより中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中華民国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。 着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中華民国内を視察、その間もシェンノートはいかに迫りつつある日本軍航空隊を退けるかを思案した。そして1937年、それまで爆撃機を主軸に活動していた中華民国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中華民国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。 派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中華民国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。 アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)の誕生 アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。採用されたパイロット達全員は義勇の名目からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。 パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。さらに募集した人員の中には機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対し再訓練が必要であった。 募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、隊員たちに徹底的に訓練させた。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。 飛虎の活躍 出発の準備が揃ったシェンノートらAVGのメンバーは民間人として、友好国のイギリスの植民地のビルマに向け5〜6週間かけて渡航し、現地にて正式に中華民国軍として兵籍に入った。そしてイギリス空軍からラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け、ここをAVGの本拠地とした。残りのAVGメンバーも1941年の11月に到着し木箱で輸送された彼らの戦闘機「カーチス P-40」の組み立てを始めた。シェンノートはまず部隊全体を三つの部隊に分けた。 これら戦隊は部隊的にはお互い作戦は共同で行っていたが各戦隊は頻繁に移動を繰り返したため、部隊同士の接触は少なかった。またAVGパイロット全員のフライトジャケット(当時は耐久力のある合成繊維はまだ存在せず革のみ)の背中には「来華助戦洋人 軍民一体救護」(この者は中華民国軍を援助するために来た西洋人である、軍・民無関係にこの者の支援をすべきである)と書かれた認証「ブラッドチット」が縫い付けられた(右図参照)。これはパイロットが戦闘で不時着などし、基地内への帰還が困難となった場合、現地民に救助を願う証票にもなった。 AVGの目的は蒋介石への援助物資の荷揚げ港であるビルマ領ラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蒋ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権の確保であった。この補給線を確保するためシェンノートはある作戦をたてた。それは「防御追撃戦略」といわれ敵爆撃機が目標に到着する直前に迎撃機を発進させ迎撃を行うものだった。しかし後から着任した彼の上官との間では彼らが爆撃機重視の見解に対し、シェンノートは戦闘機重視の戦闘を重視し、激しく意見が対立した。 中でも中国戦区の参謀長であったスティルウェル陸軍中将はシェンノートに対し、「航空戦力では敵地上軍には損害は与えられない、爆撃機こそが唯一打撃を与えられる物だ、また戦争に勝利するのは塹壕にこもった歩兵である」と豪語、これに対しシェンノートは「塹壕に篭った歩兵など何処にもいません」と反論している。その後もスティルウェルとシェンノートとの対立は続き、シェンノートが唱える「防御追撃戦略」に対してもほかの戦歴を引用し、否決に追い込もうともさえした。 カーチスP-40C トマホーク AVGメンバーが当初使用した機体「カーチスP-40Cトマホーク」は低速で機動力が乏しく、当時これを供与され実戦で使っていたイギリス軍からは、上昇力が悪く機敏さに欠け、高空での性能が良くないなどの問題点を指摘されていた。このカーチスP-40C・イギリス軍名称「トマホークMk.IIB」を、アメリカ軍はAVG向けに大量発注を行ったため、合衆国委員会ではこの発注に対し不正調査を行ったほどである[2]。旧式と言われたP-40であるが、経験豊富なパイロットからすれば扱いやすく、頑丈で急降下性能に優れた機体でもあった。防弾板と自動防漏燃料タンクは被弾によるダメージを軽減し、多くのパイロットを生還させた。AVGが手にしたP-40Cは、もともとイギリスに供与予定だった機体で、上面2色のイギリス空軍式の迷彩が施されていた。これらの機体には、部隊到着後に機首の下の部分に、北アフリカのイギリス空軍第112中隊に倣った「シャークティース(サメの歯)」をイメージしたペイントが施され、後部胴体にはウォルト・ディズニー・スタジオのロイ・ウィリアムズによりデザインされた虎に翼が生えた記章が描かれた。さらにコクピット横、あるいは前方に、各中隊章が記入された。 シェンノートはP-40では運動性に優れた日本軍の戦闘機に、格闘戦では勝てないことを知っていた。そこで敵機より上空から降下し、近距離から射撃を加えた後に一気に離脱、その加速を利用して上昇し、また同じことを繰り返す一撃離脱戦法を徹底させた。この戦術は常に数的に劣勢であったAVGにとって、大変有効な攻撃方法だった。P-40Cの武装は主翼に7.62 mm機銃4挺と機首に12.7 mm機銃2挺が装備され、防御の薄い日本軍機に対しては有効であった。 AVGが使用したP-40Cは計99機で、さらにその後、エンジンまわりを変更し、武装も主翼に12.7 mm機銃6挺と強化された新型のP-40E(イギリス軍名称「キティホークIA」)が30機追加配備された。P-40は次のF型(イギリス軍名称「キティホークMk.II」)から「ウォーホーク」とアメリカ軍でも呼ばれるようになった。 日本軍航空隊との最初の戦闘 国民党軍の駆逐を目標に友好国のタイに基地をおいた日本軍は1941年12月20日から盛んに爆撃機を飛ばしていった。この攻撃を防ぐためシェンノートは第一、第二戦隊をキェダウから北の昆明に移動、護衛無しで飛来した独飛82中隊所属の九九式双発軽爆撃機10機と遭遇した。P-40の攻撃に対し、双軽は直ちに爆弾を投棄して待避行動に入った。結果、AVGは撃墜5機を報じたが、日本側の記録では実際に墜ちたのは第2編隊の3機で、残りの7機への数発の被弾で機上戦死者2名とある。一方、P-40の損失は1機(燃料切れで不時着、部品取り用に回収)のみであった。これは日本陸軍航空隊の中国・ビルマ戦線における初めての作戦失敗となり、その後1年の間、この空域への偵察機以外の侵入は無くなった。[3] シェンノートはその後現地中国人を使い日本軍航空機の早期警戒システムを作りあげた。地上の現地人監視員(ウォッチャー)がもし敵機を見かけたら、無線などで敵機の進行コースなどをAVG司令部に連絡する方式であった。この警戒システムは非常に有効で日本軍が到着する前に正確な作戦を立てることができ、またAVG各部隊は適切な配置で迎撃を行うことが出来た。しかしビルマ方面ではこのシステムはうまく働かず、基地が日本軍により奇襲をうけた。 1941年の後半に入るとシェンノートは近くのイギリス空軍(RAF)に対して、イギリス領ビルマの首都ラングーンの防衛目的のために第三戦隊「ヘルズ・エンジェルス」を貸し与え防衛させる。 12月の戦闘と加藤隼戦隊との死闘 12月23日のラングーン空襲[4]の後、ラジオではパーソナリティーの東京ローズがアメリカ人に対し、2日以内に「ラングーンにクリスマスプレゼントを贈る」と放送した。その言葉どおり日本陸軍航空隊は2日前より一式戦闘機「隼」を含む多くの戦闘機、爆撃機を出撃[5]させてきたのに対しAVGは12機のP-40、RAFは16機のバッファローを出撃させ迎撃に当たった。AVG側は前回の戦闘経験から、速度の遅い九七戦を爆撃機から離れた位置におびき出し、その後一気に引き離して爆撃機を襲う戦術を使うことにした。 AVGの報じた戦果は、撃墜確実27機、不確実を含めると36機の戦闘機、爆撃機を撃墜し、一方損害は機体損傷により不時着2機、RAFの損害は被撃墜5機とある。 日本側の損害記録では、九七重爆4機と飛行第77戦隊の九七戦3機、第64戦隊の隼1機(機関銃が故障していたが、無理を言って出撃していた)がP-40との空中衝突により墜落、もう1機が被撃墜とある。 日本軍は英米の占領する首都ラングーンにイギリス・アメリカ軍をその後二ヶ月間に渡って爆撃、地上攻撃でラングーンが陥落するとAVGはミンガラドンから北方400kmに位置するマグウェへの撤退作戦を開始した。1942年3月21日、いままで守勢であったAVGは一転攻勢に転じ、RAFと共にミンガラドンに進出した日本軍航空機に対する奇襲攻撃をかけた。これにより約20機の日本軍機が地上にて撃破されたが、逆に日本軍もマグウェへの空襲をかけ、AVGに1機、RAFに17機の損害が発生した。続く翌日の空襲でマグウェは廃墟となり、戦闘力を失った。24日、AVGは昆明にいた第一戦隊のP-40でチェンマイ飛行場に対し反撃を試み、1機を対空砲火で失うも、駐機中の64戦隊の隼3機を炎上撃破、十数機を損傷させた。その後AVGの半数はロイウンに移動、両軍は互いに敵飛行場や地上部隊への攻撃を繰り返し戦果を挙げたが、最終的にAVGは飛行不能となったP-40C 22機に火を放って昆明に撤退した。 AVGフライングタイガースの解散とその後 残存戦力を使い補給線の護衛に徹したが、このころになると各地でアメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍を圧倒し、物量で押す日本軍を食い止めることはできなくなっていた。ビルマ・ロードも閉鎖され、とうとう補給線はインドからのヒマラヤ山脈越えの輸送「ハンプ越え」しか残っていなかった。そしてこの輸送機も、日本軍が「辻斬り」と呼ぶ隼戦闘機による襲撃で、しばしば損害を出していた。 正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国・ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された中国空軍起動部隊(CATF)に編入させた。この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名がシェンノートと共にアメリカ空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。 AVGフライングタイガースの解散の日、アメリカで自国支持を自ら訴えた蒋介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。そして彼らを夫人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだが、日本と激戦を何年も繰り返して力を削がれていた彼らは国共内戦で破れ、夫人とともに台湾になだれ込んだのであった。 戦果 AVGは「数的に常に劣勢であったにもかかわらず、敵機撃墜数は当時の空戦史上最高記録を出した」と報じ、最終的に18名のフライングタイガースのメンバーが5機以上を撃墜(と主張し)エースパイロットとなった。AVGの最終戦果は「日本軍の航空機を296機撃墜し1000名以上のパイロットを戦死させた」とされるが日本側の損失記録では、被撃墜または地上での被撃破115機、戦死約300名[6]とある。AVGと日本側で数値が食い違っているが、航空戦での戦果報告が現実の3〜4倍に誤認されることは、どこの国でも珍しいことではない。[7]一方AVG側は、90名のパイロットのうち戦闘中に13名、事故で9名が死亡、3名が捕虜となった。129機のP-40のうち、P-40Cを78機、P-40Eを2機損耗。損失原因は事故による物23機、損傷機の処分で22機、空襲により13機、空戦での被撃墜12機、対空砲火による損失10機であった。 「貨物航空会社 フライング・タイガース」 詳細はフライング・タイガー・ラインを参照のこと 大戦終結後の1945年に、元フライング・タイガースの搭乗員などにより貨物航空会社である「ナショナル・スカイ・ウェイフレイト」社が設立され、同社はその後「フライング・タイガース」という社名に改名された。なお、この会社は1990年代まで活動を続け成田国際空港や大阪国際空港、那覇空港などにも多くの定期便を乗り入れていたものの、その後フェデラルエクスプレス社に買収され、その名は消えてしまった。 関連項目 クレア・リー・シェンノート
脚注 ^ 部隊章は青りんごを下地に、追いかけっこをするアダムとイブで、斜めに掛けられたリボンの文字、「The First Pursuit」は「人類最初の追いかけっこ」とともに「第一追撃(戦闘)中隊」を意味する。 宋 美齢(そう びれい、1897年3月5日(1896年、1901年3月5日など諸説あり)- 2003年10月23日)は、中華民国の指導者蒋介石の妻、輔仁大学理事長、中国国民党中央委員会委員、中国国民党航空委員会秘書長。欧米ではマダム蒋介石/Madame Chiang Kai-shekと呼ばれた。 略歴 1897年:3月5日、客家の宋嘉樹の三女(3男3女の4番目)として清国の上海に生まれる(生年には諸説あり[1]) 生涯 上流階級出身 1897年に清朝の上海で誕生した(同国の海南誕生説もある)。父の宋嘉樹はメソジスト教会の宣教師であったが、後に布教活動を辞めて商売の道に進み浙江財閥の創始者として大富豪となった。孫文の支援者である父・宋嘉樹と母・倪桂珍の間に誕生する。 その後孔祥熙の妻となる宋靄齢、父が支援し続けた孫文の妻となる宋慶齢の二人の姉と共に「宋氏(家)三姉妹」として、中華圏だけでなく、世界的にも永く知られることとなる。 アメリカ留学 9歳のときにアメリカに留学し、中学、高校時代をニューヨーク州で過ごした。この時に身につけた流暢な英語が、後の政治活動に大きな影響を与えることとなる。 ニューヨーク州の高校を卒業した後に、マサチューセッツ州にある名門女子大学であるウェルズリー大学に入学し、1917年に同校を首席で卒業した。 なお、この頃よりアメリカ系フリーメイソンリーと関係の深い「イースタン・スター」フラタニティの会員であったといわれ、中華民国に帰国した後は、布教活動に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。 蒋介石との結婚 その後1920年に中国国民党総統で中華民国の指導者であった蒋介石と出会い、約7年の交際を経て1927年12月1日に結婚した。孫文を継ぎ、中華民国の若き指導者となった蒋介石と、同国の名家の出身で、アメリカで教育を受け洗練された立ち振る舞いと流ちょうな英語で欧米でもよく知られた宋の結婚は、中華民国内のみならず世界各国で大きく報じられ、アメリカで2人の結婚のニュースはニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであった。 結婚式は宋家の客間においてキリスト教形式で行われたが、蒋が離婚経験者であることから牧師は立てず、中華キリスト教青年会全国協会総幹事がその代理役を務めた。なお蔡元培が立会人を務めた。 披露宴は、上海のフランス租界にあり、上海でも有数の規模を持つ高級ホテルである大華飯店(マジェスティック・ホテル)内の最大の宴会場で行われ、宴会場には孫文の遺影と中華民国の国旗、党旗が掲げられた。参列者は日本やドイツ、アメリカやベルギーをはじめとする各国の総領事や中華民国の政財界の有力者など1,300名を超え、その後2人は宋美齢の育ったアメリカに新婚旅行に向かった。 なお蒋介石は、宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻及び複数いた愛人と別れ、宋美齢とその両親と同じキリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。蒋介石は実際に結婚後の1929年に上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。 蒋介石への影響 蒋介石は、結婚翌年の1928年に国民党軍総司令の地位を回復し、続いて国民党中央執行委員会の主席、すなわち中華民国の主席となり、宋美齢も1930年から1932年までの間は、蒋介石の支援の下に、中華民国立法院の立法員として、また国民党中央執行委員会の委員として国民党内にも多大な影響力を持った。 また、1936年12月に起きた西安事件においては、張学良軍に捕えられ、その後西安市内の高桂滋公館に監禁されていた蒋介石の解放に向けて自ら西安に飛び、張学良や楊虎城との会談を行い蒋介石の解放への折衝を行うとともに、蒋介石に対しては張学良軍や中国共産党軍との「統一戦線」の構築(国共合作)による抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的決定に強い影響力を有した。 日中戦争 1937年に日本との間に勃発した日中戦争では、アメリカからの軍事援助の獲得を目指し、「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、蒋介石の「通訳」として、駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルやクレア・リー・シェンノートとの交渉に同席し、アメリカからの有形無形の軍事援助を引き出し、日中戦争中から第二次世界大戦の初頭にかけて日本軍と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。 また、ウェルズリー大学の卒業生で、「タイム」や「ライフ」の発行者であるヘンリー・ルースは、日中戦争の間を通じて反日キャンペーンとともに対中支援キャンペーンを行い、「タイム」の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に日中戦争を戦う蒋介石を選び、誌上でアメリカ市民に対中支援を訴えるなど、宋に協力を惜しまなかった。 蒋介石のスポークスマン また、宋美齢は親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻のエレノアと親密な関係を構築し、日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に大きな影響を与えたと言われる。 第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月には、ルーズベルト直々の招聘でアメリカに滞在し、アメリカ全土で自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月18日には、アメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦への更なる協力を求める演説を行い、並み入る議員のみならず全米から賞賛を浴びその支持を増やした。 また、同時期に抗日戦への義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、ハンフリー・ボガードやキャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマンなどのハリウッドスターから称賛と大きな支持を受け、タイム誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫で英語を話せない蒋介石のスポークスマン兼中華民国のロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。 また1943年11月には、蒋介石とルーズベルト、イギリスのウィンストン・チャーチルがエジプトのカイロに集まって戦後の対日処理を決めたカイロ会談にも蒋介石とともに同席した。 国共内戦 第二次世界大戦の期間を通じて蒋介石と宋と親しい関係を保ち、協力を惜しまなかったルーズベルト大統領は、第二次世界大戦末期の1945年4月に死去し、後任にはハリー・トルーマンが就任する。 同年8月の日本のポツダム宣言受諾により、中華民国内にいた日本軍も中華民国軍に降伏し、順次同国内より撤退したが、その後間もなくソ連からの援助を受けた中国共産党との間に国共内戦が勃発した。 これに対して、蒋介石は軍事援助の増強をトルーマン大統領に申し出るが、ソ連のスパイが政権内部に深く浸透していたトルーマン政権は蒋介石と距離を取り、蒋介石の希望とは逆に軍事援助が削減された。東北地区を失った後、国民党軍は敗走を続け、1949年に蒋介石や宋美齢が多くの国民党幹部らと共に台湾島へ撤退し、台北を臨時首都とした。中国大陸には北京を首都とした共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立した。 反共運動 1950年には「中華婦女反共抗ロ聯合会」を設立し自ら会長に就任し、中華人民共和国の国際連合加盟反対のための活動を国内外で行うなど、冷戦下において中国共産党政府との対立を続け、中国大陸への反攻を通じて国家再統一を図った蒋介石を、かねてからの盟友であるアメリカとの連携のもとに支援した。 また、これらの政治活動に併せて、キリスト教徒として国際赤十字運動の活動に対しての支援を国内外において積極的に行う他、国内外の各種保守派団体の要職を務めるなど、欧米において積極的に蒋介石、そして中華民国のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たし続け、その結果、1950年代から1960年代にかけて世界各国のマスコミでその動向が大きく取り上げ続けられた。 蒋介石死後 1975年4月に蒋介石が死去すると、蒋介石が前妻との間に設けた長男・蒋経国が主席兼中央委員会常務委員会主席に就任し党内の支持基盤を確立、次期総統就任への準備が進められた。政治的基盤の弱体化を予想した宋美齢は、同年に中華民国を去りアメリカに住居を移し、1950年代に孔祥熙が購入していたニューヨークのロングアイランドの広大な屋敷に居を構えた。 その後1978年に、蒋経国は第5期総統代行である厳家淦の任期満了に伴い、第1回国民大會により第6期総統に指名され蒋介石の後を継いだ。しかし宋美齢はその後も政治的野心を持ち続け、中国国民党内の保守派と密接な関係を継続した。なお1981年5月に、姉で中華人民共和国名誉国家主席となっていた宋慶齢が危篤となった際には、同国より宋慶齢の見舞いのために訪問を打診されたものの、同国との敵対関係が続いていたこともありこれを拒絶している。 1986年、蒋介石生誕100周年記念行事が台北で開催されることに併せて帰国、その後は再び台北に居を移し政治的影響力の回復を図ることとなる。蒋介石の後を継いだ蒋経国が1988年1月に死去した際には、副総統で本省人である李登輝が事実上の後継者となる国民党主席代行に就任することに対して強く反対し、保守派の兪国華や李煥を後継者に押し出そうとしたが失敗、同年7月に李登輝が次期総統に就任した。 李登輝が総統に就任した後も、宋美齢は国民党党首就任問題時にも執拗に直接電話をかけるなどして圧力をかけていった。しかし李登輝は自らの北京語能力の不備を利用し、宋美齢の側近に「宋美齢の北京語は折江訛りが強いため、今後要件は文書で送付するように」と要請、発言を記録化した李登輝は、宋美齢の影響力を確実に弱めていった。 晩年 その後は、中華民国の民主化を推し進めると同時に、台湾島の本土化を推進した李登輝が宋美齢との距離を更に拡大したこともあり、宋美齢は1991年9月にアメリカへ再渡航することとなった。この頃は高齢による健康問題もあり政治的な活動は減少したが、1995年7月には、第二次世界大戦終結50周年の式典のためにアメリカ政府の招待を受けてワシントンD.C.を訪れ演説を行った他、同年には生涯で最後の中華民国訪問を行った。 これ以降は高齢のため歩行すら困難になったため、政治の表舞台に登場することはほとんどなくなったが、2000年3月の中華民国総統選挙では、国民党候補の連戦に対する支持を文書で表明するなど、同国の政治への関与はさらに目立たなくなったが続けていた(しかしこの選挙において国民党の連戦は民進党の陳水扁に敗北し、中華民国史上初めて与党の座を明け渡すこととなった)。 なお同年には、長年暮らしたロングアイランドの屋敷を引き払い、孔祥煕の遺族が建物ごと購入したニューヨーク州マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある高級アパート「10グレイシー・スクエア・アパートメント(10 Gracie Square Apartment)」に住まいを移し、引き続き中華民国政府が宛がった警護官や看護婦、料理人らに囲まれて暮らした[2]。 死去 その後2003年10月23日に、マンハッタンの自宅で老衰により105歳(106歳との説もある[1])で死亡した。その死去は世界各国で大きく報道された[3]他、中華民国の「敵国」でもあった中華人民共和国の中国人民政治協商会議全国委員会の賈慶林主席からも弔電が送られた。また多くの台北市民が中正記念堂を訪れ、宋の冥福を祈った。 エピソード 蒋介石の解放を張学良に訴えるために西安に向かった際、飛行機が着陸する寸前にハンドバッグから拳銃を取り出し「もし張学良が私のことを捕まえようとしたら、この拳銃で私を撃ってね」と言い、もし蒋介石の解放が実現せずに自分自身も監禁された場合、蒋介石と心中する覚悟であったと言われている。 宋美齢が出てくる映画 『宋家の三姉妹』:(原題:宋家皇朝、1997年、香港/日本) 脚注 ^ a b c 死亡した2003年10月の際は「享年106」と発表され、墓碑には「1892年2月12生」と記された。-「蒋介石夫人 静かなる晩年」『産経新聞』、2009年1月6日、14版、10面 関連項目 蒋介石 鳩山幸 生年月日 1943年6月28日(66歳) 夫は政治家(内閣総理大臣)の鳩山由紀夫。息子はモスクワ大学研究員(元東京大学大学院工学系研究科助教)工学者の鳩山紀一郎。 経歴 生い立ち 中華民国(現:中華人民共和国)・上海にアメリカの市民権をもつ楠瀬幸雄、秀子の二女として生まれた[1]。戦況の悪化で、昭和19年(1944年)、秀子と二人の娘は、幸雄を残して一足先に上海を脱出した。 だが、この引揚げ船で、幸たちは死の淵に追い込まれる。深夜、上海から日本に向けて数隻の船団で航行中敵側から次々と魚雷の攻撃を受けた。月のない暗い空に炎が上がり、船が一隻、また一隻と音をたてて沈んでいった。赤ん坊の幸を抱えた母秀子は、轟音に震えながら、ひたすら祈り続けたという。そして、奇跡的に母娘をのせた一隻だけが日本に辿り着いた。[2] 引揚げ後、一家は高知に疎開した[3] 。高知を1年あまりで離れて、母・秀子の実家、神戸坂口通にあった「諏訪山ホテル東館」の脇に建てられた一軒家に移った[4] 。戦後間もない中、楠瀬家のライフスタイルは、日本人ではなく外国人そのものだった。間もなく、幸の父、幸雄は単身渡米した[5] 幸は父親について、「小学校2年生の時に、仕事先のアメリカで、ガンで亡くなったんです。会えないまま、訃報だけが届きました」 (「週刊女性」2007年3月13日号)と言ったり、別のインタビューでは、小学4年の時に他界したと答えている)。 しかし、それは虚偽であり、事実はそうではない。「父との別れ」の真相は、両親の離婚であり、父が亡くなったのは幸が15歳の時だった[6]。 後神戸市の外れにある潮見台の狭い文化住宅へと越した。幸はアメリカンスクールから、私立神戸海星女子学院に移った[7]。 学生時代のあだ名は、変わり者や厄介者を意味する「black sheep(黒い羊)」[8]。 宝塚歌劇団時代 1959年、高校1年修了で宝塚音楽学校に入学。宝塚歌劇団第47期生。1961年、宝塚歌劇団入団。星組に配属。同期に初風諄、羽山紀代美らがいる。若みゆきの芸名で娘役として舞台に立った。宝塚時代の愛称はコンちゃん。その由来は喜劇役者の大村崑の物真似ばかりしていたからである。 宝塚歌劇団在団中の1965年、フランスのパリ公演メンバーに選抜され、9月18日から20日までパリ市内のアルハンブラ劇場(Alhambra (Paris))で公開試演会、9月21日から10月17日まで同劇場で33回の一般公演を行った。若みゆきを含む、タカラジェンヌ達が全員着物姿でパリ市内見物をしているカラー写真が現存する。 結婚 1967年に宝塚歌劇団を退団。渡米後にサンフランシスコの日本料理店「蝶蝶」のマネジャーと結婚した。鳩山由紀夫との出逢いについて、幸は2009年5月に出演したトーク番組で、たまたま日本に里帰りした際に知人から紹介されたと明かしている[要出典]。その後、2人は偶然にも同じ飛行機に搭乗して再び出逢い、それから1年後にもう一度2人は偶然、サンフランシスコのダウンタウンですれ違ったとされる[9]。 その後、幸は出奔、前夫と離婚し、由紀夫と1975年に再婚した。当時の夫が実名で『週刊文春』や『週刊新潮』に経緯を明らかにしたところによると、以前に、幸を日本料理屋を経営していた元夫に紹介した知人から、スタンフォード大学に留学していた由紀夫の世話を頼まれ、面倒をみることとなり、幸も由紀夫と知りあうこととなる[10][11][12]。近所から若い男が留守宅に通っているなどの噂を聞かされ、幸に悪い噂があるから気をつけるよう話したが、幸からは真実を打ち明けられなかったので深刻に受け止めなかったが、ある日突然、書きおきを残して幸は元夫の前から消え、それ以降は一度も音信がないとしている[10][11][12]。2人の失踪後に、一度だけ、由紀夫の母が挨拶に現れたと述べている[10][11][12]。この再婚に対して、一部の女性週刊誌などにおいて「略奪婚」と報じられた[13][14][11][10]。 結婚後、「政治家の妻」として精力的に活動する一方、料理関係の書籍を出版している。2007年、宝塚歌劇団退団後40年ぶりに舞台に立った。2009年、夫・由紀夫の内閣総理大臣就任に伴い、宝塚歌劇団卒業生初のファーストレディーになった。 エピソード 夫・鳩山由紀夫の服装は彼女がしばしば選んでいるらしく、BBQパーティで着ていたハート柄のワイシャツや総理就任時に着けていた金色のネクタイとハンカチなどは彼女のチョイスであるとされる。ちなみに、風水で知られるDr.コパは、この金色のネクタイとハンカチについて、『金色は鳩山由紀夫氏が物事の中心に立てる様にしてくれるラッキーカラー』という趣旨の発言している[15]。 2010年1月27日、「第21回国際宝飾展IJT2010」(主催:リード エグジビション ジャパン、日本ジュエリー協会)において、「第21回日本ジュエリーベストドレッサー賞」の女性部門特別賞を授与された。翌28日の参議院予算委員会において、自民党の世耕弘成参議院議員から「大不況で国民が苦しみ、首相自身に政治資金だけでなく、所得税の疑惑がある中で、こうした賞を受けるべきだったのか」と批判された。 奇矯な発言癖 「宇宙人に誘拐されて金星に行った」、「私はトム・クルーズが前世で日本人だったと知っている」、「太陽をちぎって食べている」などと発言した[16](ただし、これは自身が光合成を行うことの比喩表現である)。夫の総理就任が確実になり、多くのメディアがこれらの発言をとりあげた[17][18]。トム・クルーズの話はサイエントロジーや新世代スピリチュアルとの関係で語られた[19]。「日本の次期ファーストレディーは、『はじけた』女性」[20]、「日本の新しいファーストレディは金星人ではない、行ってきただけ」[21]などと評された。「前世で一緒だったトム・クルーズと映画を競演したい」と発言している。NYではNUTSとも呼ばれており在米日本人ブログでも取り上げられた。 このため、一部ではカルトではないかとも報じられている[22]。 2010年3月6日下着オークの画像が出回るが複数の者の手によるアイコラである。 韓国俳優イ・ソジンとの繋がり 2009年9月14日を皮切りに、首相公邸などで私的に頻繁に韓国俳優イ・ソジンと会っている。イ・ソジンは、永住外国人への地方参政権(選挙権)付与を求める在日本大韓民国民団(民団)の広報大使を務めている[23]。産経新聞の報道によると、首相周辺から「特定の外国の人とばかり会うのは誤解を招きかねない」と懸念する声が出ているという[23]。また来日する韓国の芸能人のほとんどと率先して会っており、その舞台に首相公邸などが使われていることは、「公私混同の極みである」という問題は、中国など外国メディアでも報じられている[24]。
2010年3月23日、参議院予算委員会において、自民党の山本一太議員が、3月17日に首相公邸で行われたイ・ソジンとの会食を取り上げた。「お気に入りの韓流スターを公邸に招き、手料理をふるまったのは日韓親善を考えた外交政策だったのか?それとも個人的趣味だったのか?」の質問に対し鳩山首相は、「妻の自主性に任せているので、これ以上のことは私にはわからない」と答弁した。山本は、「国民の生活状況は苦しい。母親から12億円もらっても気がつかないという首相同様、庶民感覚からずれている。総理官邸のKYカップルと呼ばれてもしかたがない」と批判した[34]。 系譜 楠瀬家 高知県吾川郡春野町(現高知市)で「茶屋」という屋号をもつ楠瀬家は、土地やいくつもの蔵をもつ裕福な一族であった。 橋本家 母秀子が育った神戸の橋本家も、父幸雄の家に似て、慈善活動を行う篤志家だった。 著書 単著 ようこそ「鳩山レストラン」へ(講談社、1999年) 雑誌連載 ムー(2008年9月 30巻 9号 通巻334号まで、学習研究社)『ミラクル対談』を連載 出演 テレビ サンデージャポン(TBS) 舞台 2007年9月、博品館劇場「フレンドシップ 約束」 脚注 ^ 鳩山由紀夫ホームページ(プロフィール 鳩山 幸)、『週刊文春2009年10月8日号』総力特集 鳩山幸 語られざる「血脈」「父との別れ」 首相を支配≠キるファーストレディ より 関連項目 田村熾鴻(田村駿禮) 外部リンク 鳩山会館
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