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軍神 上杉謙信公の戦闘精神 http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/336.html
また、必ずしも強者必勝ではなく、強者とは如何なる者かを説いている。 それは、次の言葉によって言い表されている。 運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。 死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。 家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。 不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし。 -------------------------------------------------------------------- この上杉謙信公の言葉は、第五回目の川中島の戦(1564年)に赴く時に発せられたと多くの物語では語られているが、史実では永禄九年(1566年)春日山城内に壁書きされたと伝えられている。 興味深いのは、宿敵、信濃武田に対し塩をおくるのはその2年後の永禄十一年(1568年)ということ。 その時、効果的・実践的な兵法は、既に謙信の体の内にあり、精神的な理念を明確に打ち出したものである。 様々な訳がされているが、私は次の様に簡潔にみる。 天の理に叶う時、人・国は、かなず勝利するものであり、敗北はそれに叶わぬ時にもたらされる。 その天運に晒された時、まさに人(国)の真価が問われるものである。 日頃の行い正しければ、非力(無力)なる者であっても勝利・生還が許されるものであり、その精進を怠れば、如何なる者であっても、戦いにおける勝利・生還は許される事はない。 腕に覚えのある者(実力者)は異を唱えるであろうが、それこそが勝利を得るための常道であり、決して忘れてはならない人の道である。 以上であるが、これを後に簡潔にあらわしたとも思える言葉もある。 『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』 いずれも、天命を全うするために、日頃の修練なくして体現は出来ないことをあらわす。 【宝在心 上杉謙信公 家訓十六か条】 心に物なき時は、心広く体泰なり 見るほどに、身につまされるものであり、何一つ満足に出来ていない自分がいる。 世間では、徐々に悪が暴かれ、膿が出始めている。 天運に晒されている時なのかもしれない。 上杉謙信公もまた、毒殺説、人狩り人身売買説と悪人説も最近噂されたが、軍神といえども天命を全うしたとは言い難い所以なのか。 しかし、時代は違えど、この様な言葉を残した謙信公に感謝するもであり、今がそれを実践する時なのかもしれない。
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