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差別の問題を論じることは一筋縄ではいかない。どのようなひとであれ、差別の問題から無関係であるひとはいない。建前上、差別はいけないとは思っていても、現実においてまったく差別をしないでいられることは相当に難しい。意識しないうちに差別をしている場合も多い。ひとが生まれてから成長していく社会にはさまざまな差別意識が普遍的に存在している以上、そうした環境からの影響を受けて差別意識を持つことになる。一方、差別は悪いことだという社会規範意識も存在している。ひとはこの相反するふたつの意識を内面化している。 どのような内容であれ、ひとが差別感情を持つこと自体は内心の自由に属することであり、そのこと自体を問題とすることはできないし、問題としてはいけない。内心において差別感情を持っていることと、外部に差別行為として表出することとの間には大きな飛躍がある。差別行為は悪いことであると分かっていながらその一方で差別行為を働くのがひとである。 就職差別事件として有名な「日立就職差別事件」がある。1970年、日立製作所が在日韓国人二世を理由に採用を取り消した事件である。在日韓国人の朴鐘碩は高校卒業後に日立製作所戸塚工場を受験し、一旦は採用通知を受けた。しかし、履歴書に韓国籍であることを書いていなかったことを理由として日立製作所は採用を取り消した。裁判では、会社側は朴鐘碩が受験の際に本名ではなく通名で書き、また本籍地を現住所としたことをあげて「朴鐘碩は性格的に嘘つきであり、従業員として信用できない」と主張した。1974年の横浜地裁の判決では「日立製作所が日本人のみの採用を意図していたこと」「在日コリアンが就職に関して日本人に差別され、大企業には殆ど就職できなかったこと」など、在日コリアンがおかれた差別の状況を重視し、朴鐘碩に全面勝訴の判決を下した。日立製作所は判決に控訴せず、判決が確定した。 この事件には差別の核心が現れている。哲学者の竹田青嗣は、みずから在日韓国人と名乗って差別問題にも発言しているが、次の言葉は差別の核心を突いている。 要するに、被差別の抑圧感は、差別する人々がタテマエ上ルールを受け入れつつ、しかもこれを無視することに対する不当感を源泉としているのです。かりに在日が一定の大企業には就職できないという法律が存在しているならば、それは政治的問題です。しかし、そんな法律がないにもかかわらず在日の大企業への就職が至難であるという、そういう事態をぼくらは「差別」と呼んでいるわけです。(『差別ということば』明石書店) このような差別は最も悪質な差別である。差別的な法律があれば差別撤廃運動を展開して差別的な法律をなくすことができる。しかし、建前として差別がないことになっている場面で差別感情にもとづく差別行為が行なわれている場合は、そのことから差別行為を摘出することは困難であり、差別の解消も難しい。はじめに指摘した通り、ひとが差別感情を持つこと自体は内心の自由である。しかし、差別感情をもとに差別行為として外部に表出することはまったくの悪である。差別行為を働きながら対外的には差別ではないと嘘をつく。ずる賢いという言葉がふさわしいし、卑劣という言葉もふさわしい。こうした、ルール上は差別がないことになっている場面で、差別感情に基づいて働く差別行為は当人が意識するしないに関わらず悪意に満ちたものとなる。 ここに差別問題の根深さがある。差別の本質は普遍的にひとが持っている差別感情をその当人がどのように制御するかにかかっている。差別行為を外部に表出しないようにするには、当人が差別感情を常に自覚している必要がある。その自覚のないものは無意識のうちに差別行為を働く場合がある。その意味では差別に対する啓発活動に一定の効果が期待できる。一人一人が自らの差別意識とどう向き合うのか。すきあらば差別行為として外部に表出しようとする差別感情を当人がどのように制御するのか。自らの差別感情を自覚し、それを制御することがひととしての成熟と無関係ではないであろう。 |