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森達也(ダイヤモンド)
10月23日の閣議後に行われた閣僚懇談会で岡田克也外相は、国会開会式での天皇陛下の「お言葉」について、「大きな災害があった直後を除き、(ずっと)同じ挨拶をいただいている」と述べたうえで、「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と宮内庁に検討を求めた。
岡田外相のこの発言に対して、同じ民主党の西岡武夫参院議院運営委員長は同日、「天皇陛下の政治的中立性を考えれば、開会式における陛下のお言葉について、私どもが政治的にあれこれ言うことは、あってはならない。信じがたい」と強い調子で批判し、自民党の大島理森幹事長も、「政府が陛下のお言葉にものを申し上げるのは、憲法上も、政治論としても行き過ぎた発言だ。民主党のおごりを感じる」と自民党本部で記者団に語っている。
批判は政治家からだけではない。メディアや識者などからも、岡田発言に対しての批判の声は多い。たとえば産経新聞はそのコラムで、「閣僚として不適切な発言ではないか」「これまでのお言葉に問題があったかのような意味も込められ、少し礼を欠いている」などと厳しく指弾しながら、「ときの情勢などに応じて違った工夫を加えられたお言葉が政治性を帯びないという保証はない」と結んでいる。
新しい歴史教科書を作る会の有力メンバーである八木秀次高崎経済大学教授は、「岡田氏の発言を要約すると天皇陛下に『お言葉のあり方を考えてほしい』と言っているに等しい。陛下は政治的、党派的な発言をなさらぬよう心がけておられる。国会開会式も諸々の事情を踏まえてあのようなご発言になっている。岡田氏の発言はそうした事情を十分に斟酌しない、非常に不遜な発言に思える」と指摘したうえで、「仮に岡田氏の発言を踏まえて陛下がお言葉を変更されたとしたら強い違和感を覚える」と語り(産経新聞)、また政治評論家である有馬晴海も、「天皇陛下は政治的に独立していて、政治に介入しないのが大原則。それなのに国会議員、まして閣僚が天皇陛下の言動に触れるのは暴走だ」と岡田を強く批判している(サンスポ)。
天皇のお言葉に異議を唱えるのは政治的干渉!?
……ここまで書きながらふと気がついたけれど、やはりこうした問題になると、産経新聞やサンケイスポーツなどの独壇場だ。ほとんど独走状態。
資料を読みながら、もうひとつ気づいたことがある。今回の騒動も含めて天皇や皇室についての記述は、なぜか文脈がわかりづらく、意味を理解するためには、何度も読み返さなければならない場合が少なくない。時として敬語の使い方が過剰になりすぎて、意味が二重三重に捩れてしまうからだろう。
いずれにせよ岡田外相の発言に対してのメディアや識者の反応は、批判か黙殺がほとんどのようだ。賛同は(僕の調べた範囲では)見つからない。
天皇は政治的な存在ではない。あるいは、天皇を政治的に利用すべきではない。
それはもっともだ。この原則に文句をつけるつもりはない。でも何かが引っかかる。だからもう少し考えたい。
平成元年1月9日に行われた「即位後朝見の儀」で皇位を継承した天皇は、「大行天皇の御遺徳に深く思いをいたし、いかなるときも国民とともにあることを念願された御心を心としつつ、皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」と述べた。つまり日本国憲法を順守することを、とても明確に宣言した。
天皇が順守すると宣言した日本国憲法は、その第1章で天皇の地位について、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と謳っている。
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
また天皇の国事行為については、第1章第3条で、以下のように定めている。
第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
国事の具体的な内訳は、法律などの公布、国会の召集、衆議院の解散、国務大臣の任免の認証、栄典の授与などとされている(時折勘違いしている人がいるが、国事とは天皇だけができる行為であり、政治家や一般の人が行うことは国事とは呼ばない)。
今回の岡田発言への批判の文脈は、第3条に記述されている「内閣の助言と承認及び責任」を引き合いにしながら、「天皇の国事行為(お言葉)に対して政治家が注文をつけることは、天皇を政治的に利用することを意味し、許されることではない」との論旨がほとんどだ。
ネットなどでも岡田外相に対しての風当たりは強い。天皇のお言葉に対して異議を唱えることは政治的干渉であるとのレトリックは、そのほとんどに共通している。
なるほど。お言葉に対して閣僚が異議を唱えることは政治的干渉。確かにそうかもしれない。でもやっぱり何かが引っかかる。何だろう。もう少し考えたい。
岡田外相は23日夕方の記者会見で、「内閣の助言と承認のもとで本来工夫されるべきではないか。ある意味で官僚的対応になってしまっている。もう少し自由度があっていい」と自らの発言のニュアンスを補足した。
また西岡参院議院運営委員長からの批判については、「天皇陛下の国会開会式にあたってのごあいさつというのは、国事行為ではないが、それに準ずる行為。一定の制約があるのは事実だが、制約があるということと、同じ言葉を繰り返すことは違う」と反論した。
ならば調べてみよう。実際に天皇は、同じ言葉を繰り返しているのだろうか。
本日、第172回国会の開会式に臨み、衆議院議員総選挙による新議員を迎え、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。ここに、国会が国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します。
これはこの9月18日に行われた第172回国会開会式における天皇の「お言葉」。そして次に引用するのは、今年1月5日に行われた第171回国会開会式における「お言葉」だ。
本日、第171回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。国会が永年にわたり、国民生活の安定と向上、世界の平和と繁栄のため、たゆみない努力を続けていることを、うれしく思います。ここに、国会が、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関として、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します。
「お言葉」の文章を考えているのは政府だった
確かに「お言葉」は、ほとんど変わっていない。言い回しも同じ。でも171回国会から172回国会までの8カ月の間に、日本の政治は大きく変革した。自民党から民主党への政権交代だ。日本の戦後政治史において、最大の激変と呼称されるほどの大変革だ。ところが「お言葉」は、まったくこれについては触れていない。
もちろん「自民から民主に変わって残念である」とか、「自民が負けてすっきりした」とかの思いを、「お言葉」にしてほしいとかの意味ではない。天皇だってそんな個人的感想は、聞かれたって口にするつもりはないはずだ。でも国会開会の宣言なのに、その国会の内実がこれほどドラスティックに変革したことに、まったく触れないというのもやっぱり不自然だ。
なぜ「お言葉」は変わらないのか。定型文があるからだ。そして天皇はこの定型文を読むことを、要請されているからだ。
羽毛田宮内庁長官は今回の騒動で、「陛下の国会開会式でのお言葉は国事行為に準じた位置付けであり、閣議で決定される」との前提を改めて強調したうえで、「一義的には内閣で議論すべき」との考えを示している。
多くの人は今回の岡田外相の発言を「お言葉」への干渉としてとらえ、「天皇を政治利用させないために」との理由で批判するけれど、でも「お言葉」の文章は、天皇ではなく内閣官房(つまり政府中枢)が作成して、閣議決定されたものである。天皇が考えたものではない。
ならば「天皇を政治利用させないために」との理由で「お言葉」への干渉を批判するということは、「天皇を政治利用させないために、自分の言葉で語らせず、政府が作った文章を読み上げることを、今後も続けさせる」ということになる。やっとすっきりした。そもそもが捩れている。
いったいどちらが政治的利用なのか…
天皇を政治利用する主体は、当然ながら天皇ではない。天皇は客体であり、主体は為政者だ。つまり「天皇の政治利用を防ぐため」という文章の意味は、「天皇が為政者から政治的に利用されないように」との意味になる。
ならば政府中枢が作った文章を、自分の文章であるかのように天皇に読み上げさせることは、天皇の政治的利用にならないのだろうか。出版の世界なら、ゴーストライターに書かせることを強制するようなものだ。決して健全な行為ではない。
それに何よりも、「政治的に利用している」とか「利用される」とかの表現については、(不敬以前に)あまりに天皇の人格を蔑ろにしていると僕は思う。天皇はモノではないしポジションだけでもない。一個の人格なのだ。それこそ失礼すぎる。
もちろん先の大戦も含めて、日本の歴史の節目節目で、天皇が為政者たちに利用されてきたことは確かだ。その検証や反省はおおいに為されるべきだ。でも天皇を政治的に利用しないということは、天皇の主体的な発言を封じることと同義ではない。発言を封じながら為政者が作成した言葉を言わせるのなら、それこそ政治的利用そのものだ。
1984年に韓国の全斗煥大統領が訪日した際に昭和天皇は、「今世紀の一時期に於いて(日韓)両国の間に不幸が存在したことは誠に遺憾」とする「お言葉」を述べて、大きな話題になった。でも実はこの「お言葉」は、中曽根康弘首相(当時)が考案した文章だった(後に中曽根氏自らが明らかにしている)。
あるいは1991年に昭和天皇がASEAN3カ国(タイ・マレーシア・インドネシア)を訪問したときも、「第2次世界大戦の際に日本が与えた被害について言及しながら謝罪の文章にはしない」などの方針に即して外務省で「お言葉」の文案を作り、首相官邸や宮内庁などで最終的に決定されたことが、当たり前のように報道されている。
もしも僕が民族派右翼の一員ならば、「自分たちが作成した文章を天皇に自分の文章のように読み上げさせるなど、決してあってはならないことで言語道断である。これを不敬といわずして何を不敬というのだ」と怒るはずだ。
あるいはもしも左翼ならば、「政府中枢が作った文章をお言葉として語らせるなど、これこそ天皇の政治的利用ではないか。ご自身の言葉で語らせるべきだ。憲法第1章3条に規定されているのは、『内閣の助言と承認及び責任』なのだ。助言とは言葉を封じることではない」と怒るだろう。
どちらにせよ怒るべきだ。でも現実には誰も怒らない。怒るどころか、岡田外相の提案は「天皇の政治的利用であり、不敬である」ということになるようだ。
不思議だ。僕が根本的な何かを勘違いしているのだろうか。そう思うしかない(本当は思わないけれど)。