★阿修羅♪ > 雑談専用38 > 167.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
我々の生活の大半は「だろう」という判断で成り立っている。
取り合えず「こうだろう」と思わない事には何もできない。
従って我々の認識の基本は「大体こうだろう」という判断を骨格に成り立っている。
しかし、この判断は本当は根拠が曖昧である。
「これまでこうだったから」という経験が判断の基準になっている場合が多い。
「日本の原発は過去40年間大事故を起こしていないからこれからも多分大丈夫だろう。」といった判断が大半だ。
もし大事故が起こればこれまでの判断が甘かったという事になる。
真理はこれまでの判断を覆す形で登場する。
綱渡りをしている事の自覚が無い者が落ちた時に初めて綱渡りをしていた事に気がつくように。
従って真理へ近づく方法とは「かも知れない」と考える事によって「だろう」という判断を疑う事である。
トンデモ説批判が盛んだ。
「だいたいこうだろう」という認識によって「かも知れない」という思考を批判する。
「まさかそんな事は無いだろう。」と言って「かも知れない」という思考を笑い飛ばす。
真理を遠ざける為に行われている事だ。
このような笑われ方をしたく無い者は事実のみを集めて読者に判断させようとする。
しかし、事実とは何だろう。
事実を集める集め方そのものが主体の「だろう」と「かも知れない」という判断の影響を受けているのだ。
「小沢は自公政権を打倒した功労者だ。」という判断を持って「だから小沢について行けば間違いない。」と判断するのは危険だ。
これまでの政権が小沢の引き立て役になった可能性を疑うべきなのだ。
世界権力を想定した場合、奴等は支配を永続化する為にキーマンを操っているのかも知れないと疑う事が大事なのだ。
小沢が奴等から独立して存在しているという根拠は何もない。
こういう思考を世間では陰謀論と言う。
陰謀論は与太話と捉えられている場合が多い。
「この世で行われている事の大半は八百長」等と言おうものなら寄ってたかって陰謀論のレッテルを貼られる。
アメリカの二大政党制が八百長だと指摘しても「あれほど熾烈に対立しているのに八百長のハズが無い」等と言う。
「殺し合いをしているのに八百長のハズが無い。」などと言うのだ。
しかし、考えてもみよ。
実際に殺し合いをしているのは下々の者達であってその上の方では支配者の右手と左手があるだけではないか?と。
「殺し合いをすれば八百長に見えない。」というトリックを使っているのだ。
これは日本の新左翼の内ゲバでも言える事だ。
あらゆる可能性を常に考える事が真理への道だ。
蓋然性を真理だと強弁する事は楽に生きる姿勢だ。
しかし、そのような者は決して真理へ到達しない。
まことしやかな無数の物語によって我々は真理から遠ざけられている。
ビンラディン物語のような。
自分自身が信じて疑わない物語を疑う事から始めるべきなのだ。