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裁判員制度が始まってまもなく5ヶ月がたとうとしている。この間のマスメディアの報道を見る限り、特段の問題点の指摘はなされず、全体的な傾向としては裁判員制度に対して肯定的な報道が目立つ。そして報道で特徴的なのが裁判員を経験した人へのインタビュー記事が毎回のように掲載されていることだ。裁判員を経験した人からは、裁判員制度そのものに対する疑問の声は聞かれない。そのような人はそもそも裁判員候補者の呼出状に応じていないからなのかもしれない。 一審の裁判では、年間の死刑判決は2000年以降では15件前後で推移してきている。一方1999年以前の年間死刑判決は5件前後で推移してきたという事実がある。2000年を起点として一審での死刑判決がそれまでより明らかに増加している。これに符合するように控訴審、上告審での死刑判決がそれまでの年間5件前後であったものが2003年以降では16件前後に増加している。では年間の殺人罪認知件数はどう推移しているかというと、1960年代の2000件前後から2006年の1300件前後まで一貫して減少している。これらの事実からここ数年の間に司法の厳罰化が明らかに進んでいるということが言える。昔なら無期刑だった犯罪が、現在の司法では死刑になるという傾向がはっきりと見てとれる。 (出典元: 一目でわかる世界と日本の死刑) これまでの裁判員裁判はすべての判決が無期か有期刑であり、死刑判決は一件もない。先ほど述べたように最近の一審での年間死刑判決は15件前後である。すでに裁判員制度が開始してから5ヶ月近くになろうとしているが、裁判員制度のもとで量刑が死刑相当の事案は1件も採用されていない。このことには司法当局の意図が働いていると見るのが自然である。なぜ死刑相当の事案がこれまで採用されてこなかったのだろうか。想像ではあるが、司法当局は裁判員制度が広く国民の間に浸透し、制度として信頼されるまで死刑相当の事案の採用を見送っているのだろう。裁判員制度が広く浸透していない段階で死刑相当の事案を持ち出すことによって、裁判員制度そのものへの疑問が湧き上がる事態を恐れているのではないかと見られる。死刑判決を下すことは裁判のプロである裁判官にとっても相当のストレスがかかるという。ましてや司法の素人で国家からの呼出状で裁判員にさせられ、被告に死刑判決を下すことになった裁判員にとっては一生忘れられない出来事になるであろうことは想像に難くない。そうした無理があっても裁判員制度そのものへの疑問とならないように制度として国民の間で内面化するときまで時間をかける必要がある。したがって死刑相当の事案が裁判員制度で採用されるのは、裁判員制度について広く国民の間に信頼が得られたと司法当局が判断した時点以降だと思われる。 わたしの推定によれば、国民の5〜6人に1人の確率で一生のうち一度でも裁判員候補者に選ばれることになる。これまでの報道によれば、裁判員候補者への呼出状に対してほぼ9割の人が応じているという。裁判員制度が始まる前は、呼出状に応じる人が少ないのではないかと危惧されたが、実際に制度が施行されるとそれは杞憂に終わった。 もしもわたしに呼出状が来てもわたしは呼び出しに応じない。科料を払って応じない。わたしが裁判員になることを拒否する理由は、これまで生きてきたなかで経験したことにある。わたしはこれまでに数々の違法な行為を働いてきた。その中には刑事事件になるような罪もある。わたしが何不自由なく暮らしていられるのは、これら数々の犯罪をわたしが隠して来たからであり、今のところ、この犯罪隠蔽工作は成功している。裁判員制度の被告とわたしとの違いは、犯した罪が知られることになったか、知られないままかの違いである。被告とわたしとの関係は、捕まった犯罪者と捕まっていない犯罪者との関係である。捕まっていない犯罪者が、捕まった犯罪者の量刑を決めることが倫理的に許されるだろうか。この問題は個人により、また違った考え方があって当然である。だからわたしの考え方を人にも要求する気は全くない。 姦淫の罪を犯した女を罰せよ、と人々に迫まられたときにキリストは、「汝等のうち、罪なき者、先ず石もて打て」と答えた、という。この話しは宗教ではなく倫理の話しである。これを裁判員に当てはめて考えれば、裁判員になれる人は1人もいなくなるだろう。一方で裁判官が判決を下すことを正当化される理由は、職業として裁判官を選択したからである。裁判官が過去にどのような罪を犯したとしても職業として裁判官を選択した時点で過去の罪は倫理上不問に付される暗黙の社会的契約を結んだと考えることができる。しかし、裁判員は市井の市民である。裁判のプロでもない。いきなり呼出状で呼び出され、裁判員にさせられた人である。裁判員も過去の罪は倫理上不問に付される暗黙の社会的契約を結ばされたとみなす考え方もあるかもしれないが、当人にとっては心の整理がつかない人もいるだろう。わたしもその1人である。 堂々と裁判員となって、疑わしきは被告人の利益に、という姿勢で裁判に臨み、正義を貫いたらいいではないか、という考え方もあるだろう。だが、わたしは犯罪者が犯罪者を裁く裁判員制度という制度自体に反対である。 |
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