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ぐちだけど。かわいくない生徒たち、感謝をしないこどもたち
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投稿者 東京音頭 日時 2009 年 12 月 12 日 00:27:21: lg2/OnhcbNSWg
 

いっそがしい教師。原因のひとつは
自分の管理する学校をよく見せようとする管理職たちのせいですね。教育委員の要求で、しわ寄せは現場。
そして何より恐ろしいのは、先生が忙しいことにより、授業に手を抜くこと、そして生徒自身の力を育てないことでしょうね。だって、何でも先生がやるんだもん。
今の学校の壁や掲示物の整っていること。だって、全部教師が遅くまで残ってやるんだもん。昔東京では行事の写真は業者に任せ、廊下に張り出して、売っていたもの。
今はすべての行事で教師が写真撮影し、現像し、イラスト入りでかっこうよく廊下などに掲示する。合唱祭や体育祭など撮影の担当が決まっていても、担任は自分のクラスの生徒を取り捲り、後でパソコン操作してすてきにレイアウトし、クラスに張り出す。それにしても壁がきれいで掲示物が極端にきれいなのに反比例して、生徒は自分の力で何もできない。
私は若い教師が自腹を切って教室にティシューをおいているのが好きではなく、(そのくらい自分でもってこいと思う。)おかないでいると、私のクラスの生徒はずーっと文句いっていましたね。(もちろんおいてないクラスもあるのですがね。)最近観念して、自分で持ってき始めましたけど。
となりのクラスで教室のガラスにクリスマスのデコレーションはってあるのを見て(担任が買っている)私のクラスの女子が先生もやって、という。私は まあ素敵、じゃあみんなで作りましょうか。というと、そんなの100円ショップで買ってくればいい、という。先生100円くらいないの?と、私が買って当然だという主張におどろかされる。金色の折り紙やセロファンで工夫して作ろうといっても、じゃあいい。という。
ただ、私もクラスにまるで潤いがないのも何なので、ポインセチアを買っていったら、「先生、それ、先生が買ったの?というから、そうよ、というと
、大勢が一斉に なら、ティシューを買ってくれればいいじゃない、という。
親がなんでも買い与えるのか、誰かが何かを買うという行為に対し、ありがたい、という気持ちが皆無に思える。
水やりの分担の話をすれば、一人だけど、先生もやってくださいという。
その他部活やレクリエーションについてもそうんだけど、生徒はみんな先生にやってもらっていて、それが当然だと思っている。

ようするに、見た目だけ格好つけようとす学校が表だけ飾るから、こういうことになる。
生徒に考えさせて、何
かやろうということはしない。時間がかかるし、現実にできない集団になっているから。だいたい生徒には時間がない、自由に担任と生徒が交流する時間はないんだから。放課後はすぐ部活だし。
何か変じゃない。
とにかく私も人間なんで、当たり前と思っている生徒に対し、自分の家族を犠牲にしてまで時間外で何かやってあげようとか、お金使おうとは思わないですね。
 

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コメント
 
01. 2009年12月12日 02:15:41
へぇー、今の学校は教室にティッシュペーパーが置いてあるんだ。
おいらのころは児童のハンカチ、ちり紙検査ってあったけどな。
(ピノキ)

02. 2009年12月12日 03:00:15
子供たちは見ています。そして子供たちはちゃんと、何が自分たちにとって大事か、ということを我々と何変わら無いその感性で受け止めています
私たちもまた大人になったといっても、感性というものは、子供時代とそう変わっては居ない筈です
私たちは、物事についての捉え方や考え方をその都度、社会に合わせて変えてきましたが、そのことで、実に純粋で本質的な、人間的感性とマッチしていた自然な振る舞いや考えを、かなり捨てて来たのではないかと考えます
それを取り戻そうと云う事がキャンペーン的にテレビなどで行われているのを見ますと、多少なりにまったく何かを無視した表面だけの別物という、違和感を感じます
勿論、社会は昔とは違っています。学歴主義。評価制度。そうした観念が世の中の主体のように移り変わると、人は型にはめられ、競争主義、合理主義、一辺倒になります。今は一番芸術家が要らない世の中のようですが、私たちはそうしたものに、今、一番飢えています。
自分という存在を犠牲にして、何かを為す、と云う事は純粋な行為にも見て取れますが、誰にどのように評価されるか、という部分で考えると、その人にとって何が最もウェイトを占めるのか、それによって、こうした問題のあらゆる側面を浮き彫りにする事が出来るのだと思います。
まず教育者という立場で外から見られるという立場を考えたとき、その事自体、普通の職種には無いプレッシャーが生まれています
確かに教育者としての気構えは、無いなら無いで困るものでありますが・・。
不和や足の引っぱりあいが横行するのは、競争主義原理が働いている証拠です。しかしエスカレートして来たものですね。いまや、様々な部類の、抑圧に沈黙した感性の殺しあいに社会がひしめき合っているのだと思うと、先もまた明るく無い。自身の生活、教育者としての立場、現行不一致による自己嫌悪、皆が借物の感性を重ねて、上塗りして来た結果なのではないでしょうか
我々が持つ感性とは何のために備わっているのでしょうか。それをただ擦り減らし、疲れさせて来ただけの我々の、他の部分は基本的に子供時代とそう変わってはいません
親や先生を見て感心して来た我々の感性は、その熱い想いに好感を抱いてきました
何を変えていいのか、何を変えていけないのか、そういう問題を皆で考えるとき、人間的な感性は徐々に取りもどせるのでは無いでしょうか

03. 2009年12月12日 10:44:05
先生という仕事の大変さがかいま見えてよかったです、
投稿者本人が愚痴といっていますが、よい問題提起になると思います。

04. 2009年12月12日 12:11:03
おたくの生徒さんは、受益者負担の原則、というのをご存じないのですか? 

05. モモンガール 2009年12月12日 13:15:04: qoOlRBnI3lDHA
「ありがとう」が不足しているんですね。
どんな小さなことにも「ありがとう」という習慣をつける必要があります。
そして、いつもされている親切にも、最初だけ「ありがとう」と言うのではなく、
毎回、「いつもありがとう」と言う必要があります。
(余談ですが世の中のだんなさまたち、奥さまに言ってますか?)
そして、自分が親切にされたことを認識するアンテナをつねに張っておく必要があります。最近は、自分が悪くされたことばかりに敏感で、他人からの親切には鈍感な人が増えてきているように思います。
・・・ってえらそーなこという自分も十分鈍感なのですが・・。

06. 2009年12月12日 14:10:10
面白い文だが、ちょっと読みにくい。テキストエディターを使い、数行おきに行間
を空けるとかなり読みやすくなるよ。


さて、この世代の親はどの様に育ち今の状況に置かれているかを考えると興味深い。子は親の鏡と言う様に、モラルハザードの世相を反映しているのかと思うよ。それと教職者へ対する偏見はあるのではないかと感じるよ。高所得者世帯の集まる地区の学校は、保護者の言いっぷりなんかを見ていると、上から目線の物言いはきついものがあるので、投稿者の溜息はなんとなく分かるような気はするな。


07. 地には平和を 2009年12月12日 22:50:07: inzCOfyMQ6IpM
学校って生徒に教える場であるべきですよね。
生徒が快適に過ごす場ではない。
親が学校に望むものも何か違っているのでしょう。
先生の雑用が多過ぎて教育に専念できないのは問題だ。
生徒はポケットティッシュ持参にすべきでは?
先生は買うべきではない。
人の金を何だと思ってやがる。
腹が立ってきました。

08. 2009年12月13日 00:22:56
学校は託児所じゃないんだけどなー。
(ピノキ)

09. 2009年12月13日 02:38:45
腹が立った状態では、いつまでも問題を解決の方向に導く良い考えは浮かばないでしょう。腹が立った状態を幾ら抑えても、再び似た問題が現れるというのは、現状に対する意識が、問題が生まれつづける道筋にあり、それが一向に「解決」に向いていないという事を示しています。何かが間違っている、と、漠然なままの怒りを自身の中に孕む事を良しとしていれば、常に問題を抱えて良しとする事に等しい
何かを問題提議する場合、それが力強くアピールされるのは、言い方の勢いではなく、「内容」です。その問題に対する怒りの所在が何であるのかを明確にしないままに問いかければ、似たような想いの人間をよりかき集めて、漠然とした怒りがますます強大になっていくだけで、感情は一向に整理されていきません
問題だけをみていけば、怒りが増幅されていくに過ぎないでしょう
そうして、あらゆる問題が自身の周りを埋め尽くす事となる筈です
教師として生徒に何が出来るか。常にそのきっかけを生んでくれるのは生徒です。そこで教師はその力を発揮し、機転を効かせて、解決策に向けて動いていけるのです。そうして取り組む時、教師としての働きを全うする事が出来ます
生徒自身がよりよい考えを導くには、どうしたプロセスが必要でしょう。仮定の話として疑似体験させてみる事も必要でしょう。良い考えだから強要する、という教育方法は単一的で、生徒に対する配慮も無ければ、それはひとりひとりの人格を汲み上げる事にもなりません。出来ないからしない、という事では、思考は其処で止まります。どんな良い教えがあっても、ひとりひとりがそれを把握し、納得出来ることが教育の本質です。全てに於いて、各々が考える事に対し、関心を持てる、ということが教育を受ける側の楽しさの筈です。覚めきっていては良い考えが頭の中を巡りません
常に解決に向けたベクトルを促していく事が肝心であり、真の教育とは、腹が立っている状態を露にして、または隠して悟られなければ取り組める、という事でもありません。どんな教育手段があったとしても、愛情に包まれていなければ、それは教育と呼べません
仮に議論とは、感情のぶつかり合いで良しとした場合、その先どこまでいっても、全体を通した解決方法等見つからず、どれだけ現実的プロセスを通した実践であっても、必ず壁に阻まれ、新たに膠着した暫定状態を生むだけで、真の解決に至る事は無いでしょう

10. 2009年12月17日 18:00:38
日本もどうしようもなく崩壊していますね。
生徒は担任教師とは奴隷であると思っているのでしょう。

いつのまにか日本もそうとうに変質してしまいました。

<家庭で子供は王様><学校で生徒は王様>
このような現象はおそらく日本だけでしょう。

手も使わず頭も使わない、そして共同作業もできない、このような生徒が大人になった場合、おそらく何もできないでしょう。

マッカーサーの農地解放のとき、多くの地主は瓦解していきました。それは彼らが小作人にちやほやされ、自分で働いたことがないからでした。ゆえに生活の知恵が欠落したまま地主の子供は大人になり、パチンコをしながら崩壊していったのです。

<ぐちだけど。かわいくない生徒たち、感謝をしないこどもたち>その現場からの報告を読んで、日本の未来に絶望しました。

今の日本の子供たちはまさに<不在地主>の子供たちですね。
携帯電話を使用する指は進化しているが、手も頭も退化していることは間違いないでしょう。

退化した人間たちを日本社会は受け入れながら、模索していくしかないのでしょう。

100円ショップで自分で買ってこないし、自分たちの共同作業でつくらない生徒たちにとって教室とは<外在化>されているのだと思います。教室とは教師がつくりあげるべきであるという共通認識があるのだと思います。生徒は教室のお客様であると錯覚してるのでしょう。日本消費文明の頂点だと思いました。



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