★阿修羅♪ > 雑談専用37 > 243.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
心即理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。
心こそ理であるとする。
中国、南宋の陸九淵や明の王陽明が定義した。
人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。
その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。
よって、心は即ち理であると主張した。
朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。
朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、
陽明学では「満街の人みな是れ聖人」
(街中の人すべてが聖人)というように、
すべての人が本来的に聖人であるとし、
その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、
それが聖人の証であるとした。
心即理説は人間そのものを認めるため、
やがて人間の心が持つ欲望をそのまま肯定するようになる。
王学左派、李贄(卓吾)がその代表的人物であり、
彼は外的な規範をすべて否定し孔子をも批判するにいたった。
また、すべての人に聖人となる可能性を認めたため、
儒学を士大夫の学ではなく、庶民の地平にまで広げた。
このため陽明学は反体制を擁護する思想となっていくのである。
==============
転載おわり
孔子は自分の中に大した位置づけの無い事が
これで理解できた
陽明学をいまこそ流布すべき時