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マスゴミということばは人を思考停止状態にすることばでないのか、と最近思うようになってきた。 そうなるとマスゴミという言葉が気になる。マスコミは事実を報道せず、時の権力に有利な情報しか報道しない。ときにはねつ造記事を書くこともある。与党に甘く野党に厳しい報道をする。といったほどの意味をマスゴミということばが意味しているのだと思う。 確かにマスゴミと書き捨てれば様になる。一刀両断である。マスコミは常に悪であると決めつけることができる。これは便利なことばだ。マスゴミはマスコミが絶対の悪であるという典型的なレッテル貼りである。 世の中の物事に絶対という物事はごく少ないと思う。わたしの限られた経験から、絶対ということばで表現できる物事は、命あるものはいつかは死ぬ、という1つだけである。これ以外に絶対で表現できる物事をわたしは不明にして知らない。 ということは、世の中の物事のほとんどは相対であるということだと考えている。すべてか無かの2つのどちらしかないのが絶対ということばの性質であり、それに対して相対は100%から0%のあいだをさまよう。常に変化し続ける物事だ。さまざまな原因によってさまざまな結果を生み、それがまた原因となる。常に変化し続けるのでさまざまな見方ができる。いくつもの面から見つめることができる。 マスコミも例外ではないと思う。ときには与党に有利な報道を行ない、ときには不利な報道も行なう。すべてか無か、100%か0%かという見方ではマスコミは捉えられない。マスゴミというとき、マスコミ総体を悪と決めつけている。マスコミをある一つの面からしか見ないのであれば、それは文字通り「ゴミ」に等しい価値しかないものと決めつけてしまうことになる。善か悪か、どちらかに決めつけることができれば楽である。常に悪で変化せず、いつも同じように批判していれば済むからだ。 マスコミは本当にマスコミ=マスゴミ=悪と決めつけられるものだろうか? 麻生政権に対するマスコミの報道によって、国民は麻生首相が一国の総理にはふさわしくない、と判断したのではないのか? マスコミの報道によって、いよいよ政権交代という局面を迎えることができるようになったのではないのか? ときには小沢元代表の問題について検察情報の垂れ流し、といった悪い面もあったが、今ここにいたって、マスコミ報道の中心は政権交代である。 もしマスコミが常にマスゴミであったならば、今この局面を迎えることはできなかっただろうことは想像に難くない。政権交代が目前に迫るこの局面を迎えたのは、マスコミによる大量の麻生政権批判があったからではないのか? マスコミにもいろいろあるから、あるマスコミは与党よりの報道が多いという傾向があったりということはある。それでも今、政権交代が争点に上るようになったのはマスコミが政権与党の数々の愚行を批判的に報道し続けた結果ではないのか。 人は善か悪かのどちらかに決めつけたいという誘惑に駆られやすい。特に若い人ほどどちらかに決めつける傾向が強いように思う。精神科医で大学教授の野田正彰氏は、大学生に死刑制度の是非を問うと100人が100人といってよいほど死刑制度に賛成だという。全世代が対象の世論調査では約20%の人は死刑制度に反対という結果になっている。野田正彰氏はこれを、若い人ほど物事を単純に一面的に考えやすく、年齢を重ねるに従って、物事には色々な面があり、必ずしも一面的に決めつけることはできない、ということを経験的に知るからだという。野田正彰氏はこの例を引き合いにだして、大学生は幼稚だといった。それは経験が浅いから一面的な見方しかできないので仕方のないことではあるが...。 人は一度、どちらかに決めつけてしまえば、あとは思考停止で済むから楽になる。たとえ矛盾することが起きても無視すればいいだけだ。善とも悪とも決めつけられない物事をそのまま認めることは精神的には不安定さがつきまとうし、物事の認識にも労力がいる。しかしここで踏ん張って安易な決めつけを捨て、物事の多面的な性質をそのままを認識することが大事だと思う。メディアリテラシーということばが一頃はやった。マスゴミということばとメディアリテラシーは相容れない。メディアリテラシーは、マスコミ総体を善悪どちらかに決めつけるものではない。個々の報道ごとにその報道内容を吟味することだ。だから善悪さまざまな見方がでてくるだろう。 マスゴミということばは人を思考停止に陥らせる典型的なことばだと思う。 |