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真宗の信者ではないのだが1年前ぐらい前、本当に久しぶりに「歎異抄」を読んでみた。
心を動かされる部分は人により違うだろうが私が特に好きな部位は、
「専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。
親鸞は弟子一人ももたず候ふ・・」
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」
この2つ。
浄土を信じる信じないは別として、親鸞の「己の心と信」に徹底した姿こそ仏教の本来の教えでは
ないだろうか。私はそのように感じるのだが。
仏教は人の苦悩の解消が出発点であって、その苦悩の本質を
見極める為の教えではなかったろうかな。
何でこのようなことを思い出したかというと、何方かの投稿で
聖教新聞上に「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」
と載ったことがあると(04年11月18日付け聖教新聞)紹介されていたからだ。
釈迦が、「私の教えに従わない者は死ぬまで攻め抜け」などと言ったろうか。
私は知らない。
人間の内面的苦悩を問題にした教えが、相手を死なせるまで攻め抜けなどと、
どう解釈したら出て来るのだろう。
こんなものは最早仏教でもなんでもない。
「法華経」の難しい教理は分らないが
少なくとも「悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」などと
書いてあるとは聞いたことが無い。
ここまで来ると、「ほっけの煮付け」が可愛く見えるほどの「法華のこじ付け」ではないかな。
仏教の教えはつくづく個人のためのものだと思う。
苦悩は他所に有るのではなく、自分の心の中にこそあり
自己の心の問題であればこそ、他の人間や物を絶対化して崇拝することなど
ありえない。
どこかの偉い(?)学会人が昔、キンマンコとお題目を唱えたとか、
キンマンコとは金と女がこの世の全てという意味だろうか。
釈迦も末法の次の時代がキンマンコとはさすがに予言できなかったろうな。
阿修羅では宗教否定の人が多い様だ。もちろんキンマンコは否定した方が良いが、
一般的に宗教団体、宗教法人を意識しての否定ではないだろうか。
しかし、その様な団体が宗教そのものではないと思う。
個人的には、阿弥陀如来の願は煎じつめれば自分のために有ると言い切った親鸞の
到達点はすばらしいと思うがどうだろう。
宗教=愚で割りきって、真の宗教的偉人の言行を見向きもしないで捨て去るのは
非常にもったいない気がする。