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(回答先: ですから、言葉による対立を氷解させる闘争を世界で同時にやって行こうと提起しているのです。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2009 年 1 月 17 日 17:49:06)
日本の枠を越えたら敵対するという訳ではありません。
小さくは、「自分」と「他者」という次元から、選別、協調、敵対などが始まるのです。
もちろん、出来るだけ「協調関係の輪」を広げることを模索すべきことは言うまでもありませんが、
どうしても限界はあるのです。
例えば、ワヤクチャさんと私は、関西地方在住です。
比較的近い地域に住むというだけで、かなり利害関係を共有する部分があります。
日本政府が、病院施設を関西地方に全く作らず、他の地域ばかりに作ったら、
やはり、ある程度、対立していかないと仕方ないでしょう?
「同じ関西地方に住む人間同士として、理不尽な日本政府に、一緒に物申そうではないか」
「何故、関西地方にだけ、病院を作ってくれないのだ」と。
こういう「思い」は、まったく無いと言い切れますか?
病院の例は、極端ですが、自分の身近なところの方が、より利害関係が共有できる部分が多いのは
否定できない事実なのです。
世界のことを考えるのも良いですが、一切の区別を「悪」とするなら、
日本には、既に、病院はたくさん有る。
日本の新規病院の建設はストップして、貧しい国々の地域に優先的に作るべきだとなってしまいます。
そんなものは、通らないのです。
人間、何らかの基準で、協調関係の濃淡は付けざるを得ません。
日本という枠が「絶対のもの」と言うつもりもありませんが、歴史・文化・言語などを共有して、
ある程度まとまっている共同体として、世界と関係を持っていく窓口としては、
非常に有効な単位だと思っています。