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http://www.news-pj.net/npj/katsura-keiichi/20090925.html
日本ジャーナリスト会議会員 桂 敬一 ◆新政権が提起した「官僚の記者会見禁止」問題 民主党の圧勝で 「歴史的転換期」 の選挙は、ひとまず幕を閉じた。だが、依然としてなにが 「歴史的転換期」 なのかがよくわからない。自公与党体制の一掃は、大きな歴史的事件ではあれ、ただそれだけでは、歴史のありようがどう変わるのかの新しい展望は、拓けない。新政権は、これから歴史を変えていくのだ、と述べ、マニフェストのなかの個別的な約束の実行に着手しだした。こうなると、政府が今後やることを、いちいち厳しく検討していかなければならない。そうしなければ、歴史が好ましい方向に変わるのか、反対にとんでもないことになるのかは、保証の限りではないからだ。その点をチェックするメディアの責任は重い。そこに忽然と出現したのが、民主党がハッスルして発案した 「府省の見解を表明する記者会見は、大臣等の 『政』 が行い、事務次官等の定例記者会見は行わない。ただし、専門性その他の状況に応じ、大臣等が適切と判断した場合は、『官』 が行うことがある」 とする政府記者会見の新ルールだ。9月16日夜の閣僚懇談会で決まったとされる、政治家と官僚の関係や役割分担を定めた 「政・官の在り方」 のなかの規定だ。そして、これが明らかにされるやいなや、あちこちの省庁が予定していた記者会見を中止し、新政権発足に伴う慣行どおりの取材ができなくなった記者たちは怒り、メディアは困惑に直面するなりゆきとなった。 この混乱は、官僚に対する政治の主導を確立、政治の官僚依存脱却を目指すとする、民主党の志はよしとできるものの、その気負いがあまりにも生硬かつ過剰であり、意気込みも性急に過ぎるために生じたものといえる。それにこだわりつづければ、政権は政府広報をめぐり、かえって狡猾な官僚のサボタージュを許し、またメディアの不信、敵意に直面、ダメージを受けるだけだろう。したがって、現実的には暫時の混乱ののち、官僚組織に対する指示も、メディアへの対応も、順次修正され、応用問題としての解決が図られるに違いない。しかし、原理的な問題が提起されたのも確かである。この際、政府の広報政策において、報道取材に対する原則と具体的な方法はいかにあるべきかを、根本的に再検討してみるのも悪くない。そのことは、取材者側についても言える。今回の問題で現場が困惑したのは、慣れ親しんだ記者クラブの取材慣行が、突如停止されるおそれがあったからだ。私は記者クラブ制度反対論者ではない。かといって今のクラブのあり方がそのままであっていいとも思わない。改革・改善の余地は大いにある。しかしそれは、今のクラブのあり方だけをどういじくっても、達成できるものではない。本当に望ましいクラブのあり方を実現するには、記者・ジャーナリストの職能組織を確立することが先決だ。取材者側にとっても、そうした検討を開始することが課題となっている。 ◆日本の政権党にみる広報活動の特徴と変化 政府広報というと、田中角栄首相が1972年7月に政権を握ると、精力的に持論の 「日本列島改造計画」 の政策化に乗り出し、翌年5月、内閣広報室を新設、大々的に政治広報を展開しだしたことを思い出す。それまでの政府広報は、総理府広報室が受け持っていたが、一行政官庁の同室としては、国会を通過した政策しかPRすることができなかった。これに対して、内閣のなかに設けられた広報室は、政府の権限と責任で審議中の事案でもPR可能だ、とする方針をうち出し、政治的な意味をもつ政策広報を、主にマス・メディアの広告を通じ、大量に実施するようになった。実際には内閣広報室は総理府広報室が兼務するかたちとされ、総理府広報予算は、72年度の21億2100万円に対し、73年度は約70%増の36億4600万円へと、一気に膨れあがった。また、このころ同時に、自民党広報委員会が意見広告に力を入れ、豊富な資金を背景に、政府としては憚られる党派性むき出しの宣伝を、大量のメディア広告を通じて行うようになったことも、忘れられない。 そこに認められるのは第一に、政権を取った政党=与党が、党のエゴ丸出しとなり、国会で多数の議席にものを言わせる横暴を募らせただけでなく、政府の運営においても、政治に対して中立であるべき行政府の立場を無視、与党の思いのままに振る舞い、官僚組織もそっくり従属させようとする傾向を顕著に示した、という事情である。そして、二番目に気付かされるのが、政治的な広報も、行政的な広報も区別がなくなり、両方を一括りにし、とにかく自分たちにとって都合のいい宣伝を行うのが肝要だ、とする政府与党の態度があからさまになったことだ。 73年度の予算では、総理府の広報予算だけでなく、各省庁の広報予算も大幅に増やされ、たとえば防衛庁は、第4次防衛計画の策定を進める過程で、自衛隊見学の広報行事を各地で展開、メディアへの広告露出を大量に行った。また、全国各地での原子力発電所の建設計画が推進されるのに伴い、原発反対の住民運動が活発化するなか、科学技術庁の原発安全PR広告が新聞・テレビなどにたくさん出た。 このような与党と政府 (内閣と官僚組織) の一体となった政治広報と行政広報の見境のない混淆は、その後、ますますひどくなり、今日にいたっている。とくに、小泉政権が2001年に出現、広報政策がテレビやインターネットに重きを置いたものとして展開されるようになると、事実について理解を求める広報より、イメージ戦略の一環としての宣伝が重視されるようになり、自民党は2005年の郵政民営化総選挙において、本格的なPR会社、プラップ・ジャパン (世界4メガ・エージェンシーの一つ、英国に本拠を置く WWP グループに属する企業) に広報宣伝業務を委託、成功を収めた。一方の民主党がほぼ同時に、4メガ・エージェンシーのトップの座を占める、アメリカのオムニコム・グループ系のフライシュマン・ヒラード・ジャパンという PR 会社に業務委託をしたのも、興味を引く。 このように日本の政党も、いよいよアメリカ型の広報コミュニケーション活動、メディア対策、利害集団向けのロビー活動などを行うようになったかと、ある種の感慨を覚える。しかし同時に、政権党のエゴと日本独特の官僚制が合体、あるべき 「行政広報」 はなおざりにされ、すべてが国家権力に都合のいい 「政治広報」 とされていくのでは、事態はいっそう悪化するばかりではないか、とする危惧の念が深まる。 ◆政府は「政治広報」と「行政広報」を峻別せよ 広報学のイロハだが、行政組織としての政府は、国会で審議中の事案に関しては、政府与党の意見を一方的に宣伝したり、反対党の主張を批判したりする 「政治広報」 は、税金を用いるマス・メディア広告では行うべきでない、とされる。反対に、国会で法案が可決され、決まった政策の実施が国民生活に大きな影響をもたらし、そのことを知らない国民が利益を逸失する、あるいは損失を被るというような場合は、政府は、中央省庁・自治体などの役所に命じ、必要な公的な費用を投じ、施策の実施に伴って懇切な 「行政広報」 を行わせなければならない、とされる。行方不明の年金のことを考えると、制度改正の都度の十分な 「行政広報」 がいかに大事だったかが、よくわかる。 「政治広報」 と 「行政広報」 とを、このように分けて考えてみたが、これはあくまでも原理だ。現実的には、外交、防衛、財政、金融、農業、産業、交通、社会福祉、労働、教育など、固有の具体的な政策課題を持たない省庁、たとえば内閣府に統合された旧総理府や旧経済企画庁などが担務していた世論調査、広報公聴活動、調査統計、各種政府報告作成などは、微妙に政策形成過程に関わってはいるものの、その活動自体に関わる情報や成果の公表は、すべて 「政治広報」 だとは言いがたい性格を持つ。反対に、国会で法案が成立、いよいよ新法が施行されるからというので、所管官庁が自分の判断で 「行政広報」 を行うといっても、該当する法律は、その実施に関する細かい規定を政令 (内閣の権限で決められる規則) や省令 (当該省庁で決められる規則) に委任することが多く、これらの決め方いかんで当該法律の政治的意味合いが変わってくる可能性もあるので、「行政広報」 はすべてが政治的意味を含まない、とも言えないのが実情だ。 こうした曖昧領域が残る問題に対しては、だからこそかえって 「政治」 と 「行政」 の区分原理を考え方の基準として尊重し、政府は、内閣ならびに各省庁を総括する国務大臣の責任領域と事務次官 (permanennt vice-minister) をトップとする各省庁官僚組織の責任領域とに区別し、政治方針に関する意思表明や可変性を持つ政策に関する情報発信は、前者がもっぱら担当し、既定の政治方針と所定の政策の枠内の行政展開に関する情報発信は、前者が後者に委ねるとする体制を、確立する必要があるように思える。このような任務分担の原則がはっきりしていれば、「政治」 が法令の変更はせずに 「行政」 の微調整に関わるとか、逆に 「行政」 が政策の実施過程で発見した政治的な問題を 「政治」 にフィードバックするなどの必要に迫られたとき、内閣または省庁のトップ・レベルで 「政」 「官」 共同の連絡・協議を随時行えば、「政治」 または 「行政」、どちらかの領域での情報発信が、適切に行えるはずだ。まさに内閣官房の役どころだ。 ところが、9月14日、岡田克也幹事長が、明治時代からつづけられてきた閣議前の事務次官会議を、同日の会合を最後として廃止、同時に各府省で慣行となっていた事務次官の定例記者会見も禁止する、とする方針を記者発表、また、同月16日夜、前記の 「政・官の在り方」 を記者発表した平野博文新官房長官が、記者の質問に答え、「これまで 『政』 に断りなしに、『官』 が勝手に記者会見をやってきた。今後は原則として会見は 『政』 のみが行い、『官』 については禁止する」 などの説明を行ったのだ。さらにこれらの発表に臨んだ記者からの話では、「府省の会見は大臣だけが行い、事務次官はもちろん、局長や府省に属する各庁長官の会見も禁止する」 「ただし、事案が専門性など特殊な問題にわたる場合、たとえば、気象庁長官、警察庁長官などについては、その限りでなく、事前に大臣が了承すれば会見が行えるものとする」 などの説明もあったようだ。重要なのは、「原則として 『官』 には記者会見はさせない」 とする新しい原理が提示された点であろう。そして、それがいかに無茶なことかは、あるべき 「行政広報」 というものを考えたとき、歴然とする。 ◆民主党の「政」・「官」の見定め方は確かか 新政権の投じた一石は、早くも16日、公正取引委員会事務総長の同日の定例会見中止という波紋を生んだ。公取委は独立行政委員会、その上には大臣をいただかない機関なのに、この反応だ。委員長だけが会見可なのだろうと事務方が気遣ったのだろう。警察庁・気象庁も、17日の長官会見を中止、海上保安庁は来月以降の長官会見の廃止方針を発表した。注目の的となっている新設の消費者庁の長官会見は、予告された会見が1時間前にあわただしく中止された。また、沖縄防衛局、北海道開発局など府省の地方出先機関トップの会見も中止されている。ニューヨークでは国連代表部が高須幸雄大使の会見を中止した。取材側が困惑する以前に、情報源側があたふた混乱していたのだ。 さすがに 「政」 の側もこれではいけないと思ったのだろう。新閣僚が会見に臨み、記者たちから混乱をつつかれると、自分の省では官僚の会見も可とするとか、次官の会見も従来どおりとするとか言い訳し、実際に揺り戻しが生じているようだが、事態が完全に旧に復するのか、あるいは政治主導の新しいメディア対応が生まれるのかは、まだ予見しがたい。むしろ文部科学省の新任副大臣就任初会見のもようを眺めると、「政治広報」 「行政広報」 どちらの観点からいっても、不安を感じざるを得ない。民主党新政権は、大臣・副大臣・政務官 (いずれも 「政」 の人間) で構成する 「政務三役会議」 を省内の最高意思決定機関とする方針を明らかにしている。文科省の副大臣就任会見には副大臣と政務官が臨み、あらかじめこの三役会議で決めた新施策を発表したが、同席の文科省側幹部は、それを記者と一緒に聞きながら、その席で初めて知ったのだ。 民主党が、官僚支配、官僚依存から脱し、政治主導の政権運営を実現すると言うのはいいが、それが、官僚敵視あるいは蔑視、官僚嫌悪を地でいき、官僚からの断絶を目指すことなのだとしたら、単細胞もいいところだ。確かに政権の長期支配に馴れきった自民党は、政策立案も役人に丸投げし、国会答弁も役人に任せてきた。「政」 の 「官」 に対する傲慢な支配を体制化した。だが、官僚制=ビューロクラシーの本性はそんなことで 「政」 に呑み込まれてしまうほどヤワなものではない。官僚たちは、「政」 がより強い隷属を求めれば、それを逆手に取り、「政」 が自分なしではやっていけなくなる関係をより広範に、また強固に張り巡らし、彼らの支配を自分たちへの依存に変えてしまい、精妙な政官複合体をつくりあげてきた。政権トップは概して短命であり、政党におけるビューロクラシーも、系統性・継続性は、政府省庁のそれと比べたらずっとお粗末だ。結局、政官複合体の主導権は 「官」 が握ることとなり、今日までそれがつづいてきた。 民主党新政権は、これを断ち切り、「政」 主導の政治、官僚依存型の政治を廃する、とする。その一つの現れとして、「官」 の記者会見の全廃という原理をうち出したわけだ。だが、「官」 のビューロクラシーはそんなものもこわくはない。むしろ、「政治」 をぶち上げることだけが記者会見でやられても、その政策化の過程における 「政」 「官」 の連携が欠落しているのだから、その部分に責任を負う必要がなく、かえって好都合だ。そのうえ、政策の行政展開に伴う、「官」 が独自で行うべき 「行政広報」 も、そのなかで一番厄介な記者対応が禁じられているのだから、お咎めなしでサボることができる。蛇の道はヘビで、都合のいいことのリークは、いくらでもできる。政治的にまずいことが起こったら、「政」 に責任を取ってもらえばいい。 民主党の 「政」 による 「官」 の対処方針は根本的に間違っているのではないか、と思えてならない。あるべき政治の主導は、「官」 にしっかり行政責任を達成させることであり、そのために必要な 「行政広報」 も、政策効果の達成を目指し、「官」 みずからが主体的に行うよう、促していくことなのではないか。メディアの報道についても、そうした観点から対処の方法を、根本的に考え直すべきであろう。 ◆ ◆ 民主党は、自党の記者会見の運営に関して、「記者クラブの成員だけによる会見は認めない。雑誌記者、フリーの個人のジャーナリスト、外国人記者の出席も認める」 とする新方針も、あわせて提示した。各府省の記者クラブ・メンバーである記者たちに投げかけられた問題だ。 取材側の問題については、稿を改めて考察を加えたい。 |
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