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(回答先: 【幸福実現党】講談社『フライデー』と全面戦争の大川隆法「幸福の科学」のドグマ度数 投稿者 提供人D 日時 2009 年 8 月 05 日 07:35:16)
噂の眞相 91年12月号特集8 「幸福の科学事件で噴出した『フライデー』バッシングの危険度」
● レポーター 龍桃介 (雑誌には「フライデー」の記事の写真掲載)
● 講談社『フライデー』VS幸福の科学
今年は台風の当たり年だったが、マスコミ界でもお騒がせ台風が猛威をふるった。いわずと知れた『幸福の科学』旋風だ。
「鰯の頭も信心から」という。天上界の高級霊が大川隆法こと中川隆に入れ替わり立ち替わり降りてくるなどという与太を信じる信じないは人の自由である。また、昭和三十一年七月、徳島で父・中川忠義、母・君子の次男として生まれた中川隆なる男が、三十五歳のいい年をして「我は人間ではなーい。神であーる。エルカンターレであーる」(七月十五日東京ドームでの発言)と意味不明の言葉を口走るのも当人の勝手である。けれども、幸福の科学に限らず社会的な影響力を持つ宗教団体が存在するとき、その教祖の人となりや教義の中身、組織のあり方などについて、ジャーナリストが取材し報道することも自由である。その際問題ありと思えば責任ある批判を加えることも勝手であり、当然の務めである。
世紀末のこの国は、いま宗教ブームという。昨日まで魚屋の親父だった人物が、今日は「我は神なり」と言い出し小教団を組織するといった話が少なくない。それをマスコミがいちいち取り上げるのは大きなお世話だが、それでも現代とは何かを問う真摯な作業とすればそれなりの意義があろう。まして幸福の科学のように「来年の七月七日までに一千万人の信者獲得」「今世紀中にすべての日本人を信者にする」と公言する宗教団体であれば、そんな事はマッピラごめん、これを批判的に取り上げようというマスコミ――たとえば雑誌があって当然。むろん、馬鹿らしいから放っておくとか、面白そうだから応援してみるという態度もあってよいが。
そこで講談社の写真雑誌『フライデー』八月二十三・三十日合併号は「『神』を名のり『ユートピア』ぶち上げて3千億円献金めざす新興集団の『裏側』」と題して幸福の科学に批判的な記事を掲載した。ジャーナリスト早川和廣の署名入り記事で、連続追及と銘打たれ、以後ほぼ毎号の連載が続いたのである。ここまでは特筆すべき事件でもなんでもない。ところが、対する幸福の科学側の反応が常軌を逸していた。
まず九月二日の講談社へ数百人規模の抗議デモ。そして同じく二日朝に始まり六日夜まで続いた電話・ファックスによる抗議攻勢である。抗議行動をして悪いとはまったく思わないが、抗議ならば早い話便箋一枚を講談社担当役員の前で読み上げ手渡せば済む。幸福の科学もそれはやった。だが、抗議書は一枚よりも百枚、千枚とファックスで送り付け、抗議の声は百本、千本の電話で伝えたほうが効果があると思うのは、足し算しかできない単純な発想である。幸福の科学もそれほど単純な連中の集まりではなかろうから、あれは単なるイヤガラセであろう。
イヤガラセも度を超すと犯罪を構成する。女性にふられた腹いせに何千回と無言電話をかけた男がたまに捕まるが、発信人なしのファックスも無言電話と変らない。愚劣な作戦を思いついたものである。だが、愚劣ながらイヤガラセ効果は絶大だった。講談社の業務が麻痺したことは飽きるほど報じられているが、フライデー編集部や執筆者、およびその周辺が抱いた緊迫感も相当のものだったようだ。
「当社に押しかけた抗議デモ、電話・ファックスによるイヤガラセでハッキリした幸福の科学のエキセントリックなやり口から、執筆者早川和廣氏とその家族に万一の事態も想定すべきと判断。早川氏一家には三週間都内のホテルに身を隠すようにお願いしました」(講談社フライデー関係者)
まあ、奥さんとしては食事は出てくるわ、掃除洗濯はしなくていいわで案外気楽だったかもしれない。だが早川家には歩き始めたばかりの男の子がいるそうだから、さぞ難儀なホテル暮らしだったろうと推察できる。実際には、幸福の科学側は執筆者に対する抗議行動や個人攻撃の類は行わないとの方針だったのか、執筆者の事務所へのファックス送付などはなかった。また、編集部がもっとも心配した軽はずみな暴走者による個人攻撃もなかった。しかし、同じく講談社の月刊現代その他で幸福の科学批判を展開している宗教学者、島田裕巳日本女子大助教授の場合には、大学や個人宅に対して電話攻撃があった。フライデーの編集者や執筆者は運がよかっただけなのかもしれない……。
●フライデーも悪いという文化人のコメント
さて、“幸福の科学VSフライデー”問題は、互いに相手を訴える訴訟合戦に発展、民事刑事とも出そろって小康状態を迎えている。幸福の科学は講談社ほかに対して謝罪広告と五百万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こし、名誉毀損による告訴も行った。講談社は幸福の科学に二億円の損害賠償を求める訴えを起こし、教団幹部らを住居侵入や威力業務妨害などで告訴している。
そして、台風一過のいま何が残ったかといえば「フライデーがいい加減な取材報道をしたのも悪いが、幸福の科学の暴力的な抗議行動も悪い」という喧嘩両成敗のイメージだ。世間一般の受け止め方が、どうやらこの構図のようなのである。とくに、テレビのワイドショーその他に登場したいわゆる“文化人”と呼ばれる連中の無責任な発言はおおむねこれであった。テレビではワイドショーの手抜き、時間埋めの手法として、司会者の脇にコメンテーターを配し、話題の切れ目ごとに感想を聞くというスタイルが蔓延している。安いギャラでそれに付き合わされ、何か言わなければと急がされてのその場限りの発言に名前を挙げて触れるのは気の毒だが、いい加減な取材と決めつけられたほうはもっと気の毒である。
「若者と宗教」を取り上げた『朝まで生テレビ』(九月二十七日)に登場した作家の石川好は「フライデーなど写真雑誌はプライバシーを暴くもので、良心を捨てた存在、つまり極道である。極道の存在意義は認めるが、極道が相手を告訴などしてはいけない」(要旨)と乱暴な発言。ジャーナリストが公共の福祉という視点から人のプライバシーを暴くことがありうることを忘れている。しかも講談社とフライデーをごっちゃにしている。少なくとも、フライデーなる写真雑誌に何らかの先入観、思い込みがあり、それに基づき発言していると思われ、実際に書かれた記事を検討しての発言でないことは確かだろう。
同じ番組に出ていた朝日ジャーナル編集長下村満子も「公人、私人と守られるべきプライバシーには幅がある」と語った後、「フライデーの記事のケースはどうなのか」と尋ねられて、「見ていないから何ともいえない」と逃げている。いやしくも雑誌編集長としてパネラーになっているのだから当然予期される質問であろう。なぜ問題の記事のチェックぐらいやってから出席しなかったのか。
こうした文化人のいい加減な発言を聞いていると(さすがに書かれたものについては少ない)、幸福の科学「講談社=フライデー被害者の会」会長景山民夫が週刊ポスト(十月四日号)で「そもそもの原因はフライデーの記事、そして編集方針にあるということ、これを原点に置いて今回の件は論じられねばならないと思う」と述べた言葉に賛成したくなる。これ以外の景山の世迷言にはウンザリするにしても。
●取材と表現の自由に対する無自覚
騒ぎのきっかけとなったフライデー八月二十三・三十日号の記事で、幸福の科学側が問題としているのは次の二点。
第一に、記事で引用されているGLA元幹部の発言が捏造である。第二に、掲載されている大川隆法こと中川隆夫妻および両親の写真がプライバシーの侵害に当たる、というのだ。
後者については、特別人をおとしめるような写真とも思われず、四人のうち三人までが教団首脳であるから問題にするには当たらないと思う。第一の点、人生相談室を開いていたというGLA元幹部(文中では実名)が語る証言は以下の通り。「彼がまだ、商社にいるころでした。ぼくのところに、ノイローゼの相談に来ました。『GLAの高橋佳子先生の“真創世記”を読んでいるうちにおかしくなってしまった。自分にはキツネが入っている。どうしたらいいでしょうか』と。分裂症気味で、完全に鬱病状態でした。ノイローゼの人は名前や住所を隠す場合が多いんですが、彼も中川一郎(本名は中川隆)と名のっていました」
裁判対策であろうか、現在フライデー編集長元木昌彦も執筆者早川和廣もマスコミの取材には一切応じていない。だが、あるフライデー関係者から次のような証言が得られた。
「GLA元幹部の発言引用に要約はあっても捏造はない。あの発言は執筆者の早川氏が電話で二回、合計一時間以上話をしたときのもの。最初の電話は取材申し込みのつもりだったが、紹介者から取材趣旨を聞いていた元幹部が自分から話し始めた。二度目も実名仮名の取り扱いなどを打ち合わせ、近く会いましょうと話している」
この種の電話取材の常識からして、また、講談社の自信満々の対応からしても、電話の録音テープが残されていることはまず疑う余地がないだろう。記事が出た後GLA元幹部は文化放送(九月四日)、『サンデー毎日』(九月二十二日号)と証言内容を変えているが、金と組織を持つ巨大集団幸福の科学からの圧力で前言を翻したと考えるのが自然だろう。
問題は、証言者がある時フライデーに対して引用されているような証言をしたとして、それを病気と推定されうる書き方で掲載してよいのかという点である。弁護士や評論家ならば「病気は守られるべきプライバシーの領域に属する。公表するには公の知る権利を勘案し、くれぐれも慎重であるべきだ」というだろうが、こんな意見はクソの役にも立たない。この種の問題に“一般解”など存在せず、当事者がケースバイケースで判断していくしか方法はあるまい。
たとえば、幸福の科学にも詳しいジャーナリストの江川紹子は、『創』」(十一月号)でこの問題に触れ、「私だったら、どうするだろう」と自問し「問題は、その証言者が信頼に足る人物だということを、取材者がどの程度確信できるか、ということになるのだろう」と、とりあえず結論づける。だがその直後に評論家亀井淳の、「『フライデー』の取材に不十分さがあったことは否めない」との指摘を紹介するあたり、フライデーの記事に必ずしも納得はしていないようだ。
亀井淳は記事が具体的でない、裏付け取材もない、精神的な病名を書くなら傍証を取るべきではないかなどと述べて、フライデーは取材不足と判定するのである。一見するとこれは確かに正論にみえる。しかし、少なくとも現場には役に立たない。そりゃ一人に聞くより三人に聞いたほうが確実さは増すかもしれない。医師の診断書が出てくれば傍証ともなろう。だが、大川隆法こと中川隆が悩みを持ってどこかの人生相談室に来たと証言できる人物が世の中に何人いるか。ようやく一人捜し出した取材が本当に“不十分”だろうか。当人以外に証言者はなく裏付けも傍証もないネタはいくらでもありうると思うが、それは書くべきでないということなのか。ならば「冬期エベレスト無酸素単独登頂」なんて記事はどう書けというのか。この種の問題について当たり前の取材心得で答えようとしても、いい加減な結論しか出てこない。それでは、傍観者として高見の見物を決めこむ“文化人”と選ぶところはないであろう。
もちろんフライデーのすべての記事が十分取材を重ねて作られているなどという気はさらさらない。だが、今回の騒ぎのきっかけとなった八月二十三・三十日合併号の記事に関しては、世上流布しているフライデーのイメージから想像されているようないい加減なつくりとはいえないのではないか――いい加減と思い込んでいる側に、あまりに根拠が乏しいのではないかということである。
幸福の科学旋風は、愚劣な抗議行動によって馬脚を現わし、自らの暴力的な体質を露呈したが、この旋風は似非文化人のいい加減さ、底の浅さをも露呈したといえよう。最後に付け加えておきたいのは、講談社ならびにフライデーは事が裁判沙汰になったとはいえもう少しオープンに自らの主張を示すべきだったことだ。講談社という会社は、もともと管理部門に官僚的体質が色濃いが、たけし事件の時テレビに登場したような総務の人間(そのまま小役人していた)でなく、フライデー編集長元木昌彦あたりの現場が前面に出て堂々と主張すべきだった。その努力がなかったことが文化人たちのフライデーもいい加減という印象をより深めることになったともいえよう。やはり文化人諸氏も忘れてならないのは言論の自由なき社会の到来という恐怖が一番ではないか……。 〈了〉
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