★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評9 > 453.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://watashinim.exblog.jp/10010898/
レイシズム表現は解禁されのか・・・『週刊文春』見出し「本当に怖い中国人」---(私にも話させて)
週刊文春の最新号(7月23日号。7月15日発売)の吊革広告より。
「本当に怖い中国人
(1)ウイグル暴動「女子大生の首を切り木に吊るした」
(2)あなたの隣の中国人「一気に刃物」の恐怖 ――ハローワーク職員襲撃だけじゃない」
記事を読むと、(2)は、日本国内の中国人による犯罪事例を取り上げている。
約1年前に、このブログで、『週刊朝日』による韓国人へのレイシズムそのものの見出しを3回にわたって取り上げた際に、2回目で、以下のように述べた。
「右派メディアは、キャッチコピーにおいては、「韓国」は罵倒しても、「韓国人」一般に罵倒表現を使う事例はあまり見かけない。民族差別だと言われないよう警戒しているのだろう。「リベラル」であるはずの朝日の方が、警戒心がないからこそ、こうした差別感情が垂れ流されたキャッチコピーを使うわけである。
朝日が使ったのだから、右派メディアにも、こうした「韓国人」への罵倒表現は「解禁」されてしまったということだ。今後、「朝日ですらあそこまで言うのだから、ああいう表現はセーフなんだ」として、右派メディアでも、「韓国人」「朝鮮人」「中国人」への罵倒表現がキャッチコピーとして使われだす可能性が高い。」
このような、週刊誌におけるレイシズム表現の解禁という<空気>の下で、今回の『週刊文春』の見出し、記事は出てきていると思う。
この見出しの愚劣さと犯罪性について、改めて指摘する必要性はないと思うが、全く別々の「犯罪」的な事柄を、特定の人種・民族の特質として表象させようとする『週刊文春』の姿勢は、レイシズムであると同時に、また別種の問題を(改めて)提起しているように思う。
まず、レイシズム以前に説明として無茶苦茶なのだから、最低限の社会科学的思考の欠如など、「雑誌ジャーナリズム」なるものがいかに愚かな人々によって担われていることを(改めて)知ることができる。任意の事例から、「本当に怖い日本人」「本当に怖いイギリス人」等々、あらゆる人種・民族に関して(やろうと思えば)容易にこうした主張ができることは、小学生でもわかるだろう。
また、株式会社文藝春秋は、他方で、その「本当に怖い中国人」が13億人もいる国への旅行を煽っているわけであるから、要するに売れればなんでもいいらしい、ということも(改めて)知ることができる。『週刊文春』の記者たち自身、多くのマスコミの人間と同様に、中国旅行が好きかもしれない。多分、在特会のような確信犯と違い、何も考えていないのではないか。
私は、、「レイシスト的保護主義グループの成立(1)」で、以下のように書いた。
「「在日特権を許さない市民の会」のような運動体への批判は重要であるが、私は、ヨーロッパと違い日本では、こうしたあからさまな人種主義団体はたいして大きくならないと思う。社会の支配的な価値観がすでにレイシスト的であるから、大多数の大衆は、人種主義団体に加入するほど不満や焦慮を抱いていない、ということである。したがって、人種主義団体だけを嘲笑し、罵倒しているのでは、あまり生産的な行為とは言えないだろう。」
今回の『週刊文春』の見出し・記事は、日本社会のレイシスト的な支配的な価値観をあからさまに表出したものである、と言うことができよう。言うまでもないが、こんな雑誌が日本の代表的な週刊誌なわけである。
そして、「保守」的ではあってもレイシスト的とは一般的には見られていないと思われる、『週刊文春』のような雑誌による、今回のようなレイシズムそのものの見出し・記事は、在特会の主張などよりも、比べものにならないほど大きな社会的な影響力を持っている。「本当に怖い中国人」という表象は、今回の見出し・記事によって社会的により広がるだろうし、こうしたレイシズム発言をあからさまに発してもよい、という<空気>も、より広がるだろう。
上の引用でも示唆しているが、「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった、たまに見られる主張は馬鹿げている(無論、レイシスト団体によって、生命や生活権が危険にさらされている緊急事態の場合は例外である)。『週刊朝日』や『週刊文春』の上の例から見られるように、日本社会においては、恐らく無意識的にレイシスト的価値観が温存されているのであって、それが、政治的事件等のふとした出来事において表出されるのである。
『週刊文春』の今回の見出し・記事は、<嫌韓流>と同じロジックの「中国人」への攻撃なのだが、『週刊文春』は、今後も在特会や<嫌韓流>とは一線を画すだろう。朝日系のメディアのように、在特会やら<嫌韓流>を「憂慮」するような記事すら掲載されるかもしれない。
「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった立場からすれば、仮に『週刊文春』がこうした「憂慮」(朝日系メディアのそれと同質の)をはじめれば、歓迎するだろう。だが、こんな「憂慮」は、反レイシズムにとっては有害以外の何者でもない。こうした「憂慮」によって、これらメディアは、自分たちの(恐らく無自覚の)排外主義を温存させることができ、また、これらのメディアは在特会その他と違って排外主義ではない、という社会的な認識まで、ある程度調達することができるだろうから。もちろんこれは、メディアだけではなく、在特会を「憂慮」しながらも、今回のようなレイシズム表現を厭わない『週刊文春』を特に唾棄すべきものとは見なしていない、他の人々も同じである。
ここで、在特会の主張に大きな影響を与えていると思われる、当の<嫌韓流>を見てみよう。
(山野車輪『マンガ嫌韓流3』晋遊舎、2007年10月、24頁。吹き出し内の傍線は引用者、以下同じ)
(同上、25頁)
上(24頁)で「謝れよ!」と在日朝鮮人に怒りをぶつける人々が、サークル「極東アジア調査会」の「後輩たち」であり、下(25頁)で、<嫌韓流>シリーズ主人公の沖鮎要とその同志たちは、自分たちのサークルが「単なる嫌韓サークル」になってしまったこと、「日韓友好を目的とするのではなく むやみに韓国や在日を敵視したり ただ罵倒したいだけの 「嫌韓」のための「嫌韓」」(同上、26頁)になってしまったことを嘆いている。
同書第一話では、この「後輩たち」と同じような、「むやみに韓国や在日を敵視したり ただ罵倒したいだけの 「嫌韓」のための「嫌韓」」である人物が他にも描かれており、沖鮎たちが、彼らとは一線を画しており、彼らに批判的認識を持っていることが強調されている(「仕方がない」とはしつつも)。要するに、『マンガ嫌韓流3』において、シリーズの主人公たちは、自分たちはレイシストたちには批判的であり、一線を画することを冒頭で強調した上で、レイシストそのものの発言を展開していくわけである。
結局、在特会や<嫌韓流>のようなあからさまなものだけを「憂慮」し、自分たちのレイシズムには無自覚な人々は、上の<嫌韓流>の主人公たちと本質的に何の違いもない。「日本社会の広範な保守層とも連携して、在特会を孤立させよう」といった立場は、上で指摘したように、日本社会のレイシズムを温存させ、無自覚なレイシズムに浸っているこれらの人々に対して補完的役割を果たすことになるだろう。
それにしても、今回の『週刊文春』の見出し・記事をきっかけに、いまさら株式会社文藝春秋の本の不買を呼びかけても、私は新刊で文春の本・雑誌を買った記憶がここ15年ほどないし、このブログを見に来るような人々はあまり文春の本・雑誌を買わないだろうから、効果はないだろう(逆に言うと、文春の新刊の本・雑誌の不買は大前提、ということである)。
むしろ問題は、文春系の媒体に執筆する、特に「右」というわけでもない人々だと思う。こうした人々こそが、文藝春秋が出版する『週刊文春』の、一定の社会的信頼性を担保しているのだから(これは、『週刊新潮』と株式会社新潮社と書き手の関係にも当てはまる)。特に今後、文春系の媒体に執筆したり、文春から書籍を刊行したりする人々が問題である。
この人たちは、自分たちこそが、今回の『週刊文春』の見出し・記事のレイシズムを支えている側面があるなどとは、多分考えないだろう。仮に問われたとしても、おおむね、その辺は曖昧にやり過ごすだろう。その曖昧さは、上で指摘したような、無自覚的なレイシズムの温存ということと恐らく対応していると思う。
by kollwitz2000 | 2009-07-21 00:00 | 日本社会
▲このページのTOPへ HOME > マスコミ・電通批評9掲示板
フォローアップ: