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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu195.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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本を読まなくなり、考える努力をしなくなった人間、考えないでテレビ
からの情報を鵜呑みにするだけで満足する人間が増えた。林秀彦
2009年7月5日 日曜日
◆おテレビ様と日本人 林秀彦:著
http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/32184437.html
◆おテレビ様と日本人 1月17日 たむたむの自民党VS民主党
http://tamtam.livedoor.biz/archives/51104655.html
序文より
私は自分が若い頃テレビにかかわっていたことを、この死を待つ日々においてもなおかつ、深く後悔している。
人生は清書ができない下書きであることはわかっているが、その下書きを破棄し、燃やし、消滅させることすらできないことほど、心の痛むことはない。
テレビは私の人生を完全に破壊したまま、置き去りにした。それだけではない。いまだにその後遺症で苦しめている。その後遺症とは、テレビに対する恐怖である。テレビの奸知(かんち)にたけた詐欺師振りを身に染み骨に徹して学んだことから生まれる恐怖だ。人類未来への徹底的な絶望感は、この青春時代に体験した「機械対人間」の戦いが、いかに人間に勝ち目がないかを教えた。この本の中で、私はその思いの幾分かでも伝えたく思っている。
人間が機械を作り、機械が人間をあやつる。
機械は一個人の人生を変えるだけでなく、人類の運命を変える力を持っている。今までの人類史に、その証拠は刻み付けられている。しかし、今までのどの機械よりも、テレビは人間性を破壊し、変える力を持っている。仮に「よく変える」部分もあったにせよ、「変える」ことには違いはない。その変え方が、非常に非人間的なプロセスを踏むことが、悪なのである。もしテレビに人間をよりよくする力があったにせよ、それはちょうど機械に対して使う言葉、「改善」が似合う。自動車のエンジンを改善したり、ロボットの欠陥を改善するのと同じ感覚だ。
本・書物が人間に与えたような「向上」ではない。テレビのない時代、人間が余暇を過ごした方法の一つは読書だったから、テレビと本を比較すれば私の言いたいことがわかりやすくなるだろう。知的な刺激を求め、人間が本と親しんだその時間の大部分は、今テレビに奪われている。本には良書と悪書の区別があった。だが今、テレビに「良番組」「悪番組」などの識別をすることはない。あまりにも一過性で、人に判断の余裕を与えないからだ。一つの番組はコマーシャルをはさんで、すぐ次の番組に移る。テレビの番組は、それがどんなジャンルのものであれ、「古典」は生まれない。
古典を生みえない知的媒体とは、一体何を意味しているのか?
少なくともテレビも人間の脳に働きかけていることだけは確かだ。
そこにこそテレビが人間にとって「悪」である恐ろしい存在であることを考える鍵がある。私が貴重なたった一度の人生を無駄にしただけでなく、その後遺症に苦しめられている理由もそこになる。
(略)
それに対抗する武器は、本しかない。
あなたは本屋に足を踏み入れた。
それだけで、今やあなたは知的エリートとなっている。しかもアニメや雑誌ではない単行本の書棚の前に立っているとすれば、それはもう今どき稀有な(珍しい)人間であり、変人とも呼ばれかねない。まわりを見回してみればいい。誰もいないはずだ。
孤独なあなたは、孤独な一冊の本を棚から取り出す。すばらしい出会いである。
「美しい書物より美しいものはこの世にない」とか、
「どんな高い文明にあっても、本は最高の喜びである」
(略)
本を失い、その代替としてテレビを与えられ、考える力を失ったために。
もうすぐ人間の最大の敵は、再び歴史以前、石器時代と同じように、他の動物、野獣たちに戻る日が来るだろう。考える力がついてからの長い期間、人間の最大の敵は、無論、人間だった。それはお互いに自分の損得を優先して考えるようになったからだ。それは単に金銭、物質の損得への考えだけではなかった。何よりも人間は、人間らしい人生を送ることへの損得を考えた。短く貴重な一生を、どうすればより実りの多い時間で満たすことができるかの損得を考えた。そのために競い合い、時にそれが暴力的な考えを誘発し、殺し合いもしてきた。考えることのできない他の動物の存在は敵ではなく、単に危険な存在、もしくは食料の対象でしかなかった。
だが、本を読まなくなり、考える努力をしなくなった人間、考えないでテレビからの情報を鵜呑みにするだけで満足する人間が増えた今、基本的に他の動物と同じ状態に戻ってしまっているのだ。それでいながら、野獣たちの持っている本能的な直感による自己防衛力をも失っている。両方の能力を失った人間は、要するに生存能力を失っているのだ。そんな人間がある日、本を持たなかった時代と同じように、自分たちよりずっと肉体的な敏捷性(びんしようせい)や力を持ったライオンに食い殺されても、少しも不自然ではない。われわれは再びエデンの園を追放され、荒野をさまようのである。
頭を良くしよう――、もっと自分の頭を良くしよう。
もっと深く、複雑に考える力を持ちたい。
今までの人間は本能的にそう望んだ。それこそが最大の損得勘定だった。この欲望が、人間に「本」を与えた。本は最大の武器だった。
たった百六十八人のスペイン人が、八万人のインカ帝国の兵士を一五三二年に撃ち破ることができたのは、スペイン人が本を読んでいて、インカ人が本を読んでいなかったからだ――、とジャレド・ダイアモンドは彼の著書『銃・病原菌・鉄』の中に書いている。
右の文を引用したあと、ジェイムズ・マクマナスは、実に胸躍る彼自身の小説『殺人カジノのポーカー世界選手権』の中で、追加して次のように書いた。
――文明はお互いを航空電子工学や細菌、ラッパ銃やトマホーク・ミサイルで支配しているように見えるが、実のところは、本が武器なのだ。まさかと思うかもしれないが、本から得た知識の相対的な水準は、あなたの出身国の現状と相関関係がある。
これほど現在の日本人にとって耳の痛い指摘はないのだが、現実に耳を傷めている日本人は皆無に近い。この深い意味が理解できなくなっているからだ。本をまったくといっていいほど読まなくなった日本人(読んでもそれを基に考える努力をしない日本人)の水準は、現時の日本のあり方のすべて、日本人の危機と不幸とに完全に一致した相関関係にある。
たとえばわれわれがもし日本の政治家たち、閣僚全員の自宅を訪問し、その書棚を見せてもらったとき、どれほどのショックを受けることだろう。そのときにこそ、われわれは日本の政治の貧しさの根源を知ることができるのだ。
つまり、日本は、考えない動物国家水準に戻っている。
(略)
考える努力がまったく不要である情報からは、文明は決して生まれなかった。本は情報ではない。失われた幻の遺跡、アレキサンドリアの大図書館は、人間の考える努力の記念碑だった。
エリク・ド・グロリエの著書『書物の歴史』を翻訳した大塚幸男氏は、その序文の中で、次のように書かれている。
―― グーテンベルクの活版印刷術発明以来およそ五百年、映画、ラジオ、テレビジョン……等々の発達普及によって、今や書物はいまだかってない大きな危機にさらされている。(しかしそれらは)単なるインフォーメイション(情報)を与えるものにすぎず、真の学問や知識は《書物》によってでなければ身につくものではないことを、かたく信じるものである。(略)《精神文化は一つの努力の表現であると同時にその結果である》とすれば、努力を減殺することにのみ汲々としているアメリカ的機械万能主義は、必然的に真の文化を弱め、人間を痴呆化せしめて、やがては人間を機械の主人であるべき人間を、機械の奴隷となすものではないか。(『書物の歴史』白水社、文庫クセジュ)
あなたは今晩テレビを見る代わりに、この私の本を読んで下さろうとお金を払ってくださった。その努力の表現″に私は深く感謝する。また、それだけの価値があることを祈る。あなたの痴呆化を一日でも遅らせる力がこの本にあることを願う。
一つだけ、最大限に謙虚に言いたい。
少なくともこの本は、今晩のどのテレビ番組よりは、ましである――と。
(私のコメント)
最近のテレビには見るべきものが少なくなり、お笑いバラエティーばかりが増えました。どのチャンネルを回しても同じような吉本や太田プロのお笑い芸人達だ。女の子達も可愛らしいだけの歌手でもなければ役者でもないただのタレントばかりだ。日曜日はとくにこのような番組が多い。このようなテレビ番組ばかり見ていたら確実に馬鹿になるだろう。
テレビはNHKを除けば只だから金を払って見ているわけではない。CSなどの有料テレビもあるが何処も経営的に苦戦している。民放が有料化されたら見る人は激減するだろう。ニュースはNHKだけで十分という事になるからだ。ドラマにしても後世に残るようなドラマは僅かしかなく、これもDVDで見たほうがCMが入らないからいい。
ラジオなら音楽を聴きながら勉強も出来ますが、テレビはながら勉強やながら読書は出来ない。テレビを見ていれば確実に読書時間は減るし勉強時間も減る。さらにはインターネットやケイタイのメールの時間も割り込んできたから、さらに読書や勉強の時間は減る。学生も社会人も同じだろう。
もちろんテレビにも有意義な報道情報番組もあるが、まともに取材をしているのはNHKぐらいだ。民放にいたっては下請けが作っているから本や雑誌からのの二番煎じが多い。だからテレビばかり見ていると時代の流れに遅れがちだ。テレビが時代を作っていると言うのは錯覚であり、テレビからは何も生み出していはいない。消費しているだけだ。
林秀彦氏「おテレビ様と日本人」を買って読んでいるのですが、テレビ番組を制作する側からすると人間性を奪ってしまってロボット化してしまうそうです。テレビ局は一つの機械でありそこから生産される番組は人間がこうしようと思ってもどうする事も出来ない状況らしい。
テレビは一つの情報ロボットであり、ロボットが人間を操ろうとしているように見える。ニュースにしても知りたい情報を一方的に報道するだけであり、視聴者が知りたい情報が報道されるとは限らない。テレビで報道されるニュースは、ほんの一部でありテレビ局が恣意的に選んだものだ。テレビだけしか見ない人は完全にテレビというロボットに洗脳されてしまうだろう。
テレには人間から思考力を奪ってしまい、視力や聴力などの感覚だけが異常に発達した人間を作り出す。そして思考力が欠けた人間が大量生産されている。テレビを見ていれば分かるが見ている間は思考が全く働いていない。次から次に場面が変わるから追いかけるのに一杯になってしまう。
野球やサッカーのテレビ中継にしても、わざわざ解説が付くからこれも思考力を止めてしまう。野球場やサッカー場に生の試合を見に行く時は解説者の解説を聞きながら見るという事はないだろう。政治報道にしても実際起きていることとテレビが報道している事は異なる事が多い。テレビだけ見ていると判断を誤るだろう。
テレビがない時代はラジオか読書ぐらいしか娯楽はなかった。しかし今はテレビをボケーッと見続けていれば時間は過ごせる。確実に人間の思考の時間が少なくなり思考能力が低下して犬や猫のような感覚だけで生きているような人間が増えてきたようだ。ブログや2ちゃんねるのようなBBSを見ても感覚的なコメントばかりで野獣化している。
ブログなどを見ても書評を書いている他人は僅かしかいないしコメント程度の書評しかない。読書して何も考えないのでは読んでいないのと同じであり、時間の浪費に過ぎない。「株式日記」でも時々書評を書きますが、数千文字もの書評を書くのは大変だ。一作の本を書くのに数十冊の本を読まなければいけないように、書評を書くには該当の本以外にも多くの本を読んで自分なりの考えをまとめて行かなければならない。
「株式日記」も毎日このように書いていますが、膨大な本を読みこなして新聞やテレビも見てネットのブログなどにも目を通して始めてこれだけの事が書けるようになる。書く前には自分の考えを纏めなければならないし、書き終った時は頭が熱くなっているのがわかる。
頭は体の十三分の一の重さしかありませんがブドウ糖は25%も消費する。頭を働かせればそれだけエネルギーを消費しますから熱くなるわけだ。このような事を続けていれば思考力も付くのでしょうが、日本人はテレビなどに時間をとられて、読書しても考える時間も無い。本など一冊読んでもすぐに読んだ事は忘れてしまう。忘れないためにはこのように書評を書いたり読み直す必要がありますが、それだけのことが出来る人はどれだけいるのだろうか?
学生時代なら出来るでしょうがサラリーマンでは無理だ。だから優秀な成績で一流大学を卒業して一流会社に入った人も10年も経てばテレビのナイター中継をボーッと見ているだけの人間になってしまう。私は社会人になっても本を読み続けましたが会社の仲間はほとんど本を読む人はいなかった。仕事は一生懸命しても勉強はほとんどしなくなってしまう。
しかし時代の先を読むには本を読んで勉強していかなければ分からない。仕事を一生懸命しても40歳過ぎれば一部の人を除けば出世も頭打ちとなり、思考能力のなくなった老サラリーマンになってしまう。そしてテレビだけを見て、テレビに指図されるがままの人間が出来上がる。
林秀彦氏は僅か168人のスペイン人が8万人のインカ帝国を征服した例を上げていますが、1億3000万人の日本が僅かな米軍に占領されていることに気が付いている人がどれだけいるのだろうか? 米軍はテレビを使って巧みに日本人を洗脳している。米軍は情報組織を持っているが日本には情報組織がない。まるでインカ帝国のようだ。本を全く読まなくなった日本人はインディオのように征服されてしまったのだ。
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