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(回答先: 「光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜」2009年6月14日(日) BS2で放送(来栖宥子 午後のアダージォ) 投稿者 クマのプーさん 日時 2009 年 6 月 12 日 23:44:52)
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/870b8a11b8f92d4a5549cf712a700412
光市事件 東海テレビ制作「光と影」プロデューサー・阿武野勝彦さんに迫る
2009-03-31 | 光市母子殺害事件
犯行当時少年だった被告に死刑判決が下された山口県光市の母子殺害事件。
日本中が死刑が当然の空気の中、東海テレビ制作のドキュメンタリー「光と影」は、初めて被告側弁護団から裁判に迫った番組として一石を投じ、昨年の民放連賞最優秀賞に輝いた。
プロデューサーの阿武野勝彦さん(50)は、NHKや東京キー局を向こうに回し、数々のドキュメンタリーで賞を連発している。(千万勲)
⇒プロデューサー・阿武野勝彦さんに迫る http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/galaxy.htm
●関連記事
阿武野勝彦 東海テレビプロデューサー
http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/galaxy.htm
犯行当時少年だった被告に死刑判決が下された山口県光市の母子殺害事件。
日本中が死刑が当然の空気の中、東海テレビ制作のドキュメンタリー「光と影」 は、初めて
被告側弁護団から裁判に迫った番組として一石を投じ、昨年の民放連賞最優秀賞に輝いた。
プロデューサーの阿武野勝彦さん(50)は、NHKや東京キー局を向こうに回し、 数々の
ドキュメンタリーで賞を連発している。(千万勲)
阿武野勝彦 東海テレビプロデューサー
(あぶの・かつひこ)1959(昭和34)年静岡県伊東市生まれ。同志社大文学部
卒。東海テレビ放送入社後、アナウンサーから記者に。89年に初のドキュメンタ
リー「ガウディへの旅」で民放連賞優秀賞を受賞。取材ディレクターや制作責任
者のプロデューサーとして活躍し、現在は報道局専門局次長。
2003年「とうちゃんはエジソン」と、07年「裁判長のお弁当」でギャラクシー
大賞、同年「約束〜日本一のダムが奪うもの〜」は地方の時代映像祭グラン
プリ。ほかに「はたらいてはたらいて」「村と戦争」「黒と白〜自白・名張毒ぶどう
酒事件の闇〜」などで受賞多数。08年には放送人グランプリに輝いた。
2009/3/27FRI 中日新聞
▼弁護団の視点から番組を作ろうとしたのはなぜだったのですか。
名張毒ぶどう酒事件の裁判をこれまで何度も取り上げてきました。2005年の再審開始決定で
メディアは一斉に「冤罪」に流れた。でも決定が取り消されるともう忘れている。僕らは継続的に追
っかけなきゃと思う。
その弁護団のうち2人が光市事件も手掛けていた。彼らの活動はお金にならない。なぜそんな
仕事を続けているのか、職業倫理を垣間見たかった。
光市の裁判で、人々は被害者家族に同化してしまった。テレビのコメンテーターは家族に成り代わ
ってしゃべっている。「裁判とは何か」ということが捨て去られた。世の中の大多数が「弁護する必要
はない」だった。
スタッフが今回ほど「嫌だ」といった題材はなかったですね。ああ、これが普通の市民の考え方
なんだと。スタッフには「今、そういう気持でもいいよ」と。番組は始めから結論があるわけではない。
作っていく途上でいろんなものが見えてくる。「今の状態でかかわってくれ」と言ったら、皆、分かっ
てくれた。
▼受賞で地方局の存在感を見せましたね。
ドキュメンタリーってお金がかかるんです。東京では外の制作会社へ発注して単価を下げる。稼ご
うとすると、取材に行く回数は少なく機材も小さくなる。僕らの作り方が1番ぜいたくかもしれない。
録画テープもものによっては400本回す。行き帰りを考えるととんでもない時間を費やしている。
それだけやらないといい番組ができない。
でも視聴率はがっかりすることばかり。土日の夕方はグルメものを見たいのかな。ドキュメンタリー
は決してスポンサー的に売れるものではない。ただテレビ番組は全部「売り物」でいいのか。僕は
違うと思う。
▼ドキュメンタリーにこだわる理由は何ですか。
こだわってはいないんですよ、全然。表現の方法として最高だとは思わない。ドラマでも
いいし、バラエティーでもいい。「ドキュメンタリーはこうあるべきだ」と思っちゃうと、つまら
ないものしか作れない。おちゃらけた作りと思うかも。
番組を分かりやすく作ろうとも思っていない。「分かりやすかった」と言われるのが嫌で。
何かグッとくるものがあったら、そう言わないでしょう。分かりにくくても心に残るものが
あったり、後で「そういうことだったのか」と思ったりする方がすてきなのでは。
▼なぜ、この仕事を選んだのでしょうか。
人としゃべるのがあまり得意じゃないんです。向いてない思った。大学の先輩に「社会勉強と思え」
と言われてアナウンサー試験を受けた。なりたいわけじゃなかった。7年ぐらいたってアナウンサー兼
記者をやってたころ、デザイン博に関した番組を作るディレクターがいなくて、報道部長が「お前、
やりたいか」と。「やりたい」と答えると僕の机をグルッと180度回した。そこが番組を作る班。異動で
した(笑)。
それから年に1本以上の割合で作っています。名古屋の堀川をきれいにしようとか、シルクロードの
中国横断の旅、臓器移植、小児科診療所と老人たち。テーマは雑多ですね。これって決めていったこ
とはなくて「ああ、これ、いこうかな」と思って、漂うように取材してきた。
叙情的なものが好きなんです。ほんわかしたもの、もの悲しいもの。よく分からないけど、あったかい
とか。微妙な情感に触れるものを作りたい。テーマを絞らない分、深まりがない。漂って50歳になって
しまった。
誰にでも物語がある。どんな人でも取材させてもらえば、番組ができる。「それは番組にならない」と
思うと、終わりです。意外に「取材歓迎」の人はだめ。拒絶された方がお宝がある。「裁判長のお弁当」
や「光と影」では、「裁判所や弁護団は取材できないもの」と思っているものを「無理じゃないかもよ」と
視点をずらした。そこに活路を見いだしたから、まったく違う視点が開けた。
▼取材はどんな感じで進めるのですか。
僕は狩猟型ではなく、農耕型なんです。「パン、パン」と撃って捕まってこないで、種から育てて手入
れして、よさそうなところで収穫して。また来年できるように整備する。
取材先では、いつも「どう答えていいの」と思われる質問をしているらしいんです。家の中に古い冷蔵
庫があるお宅で、機器が「ブーン」と鳴っている。その家に行くたび「おお、今日も頑張ってるな」と冷蔵
庫をたたくんです。和んでほしくて。後で後輩が行くと「変な人だ」と。
兄を学徒出陣で亡くした男性に取材した時は、その人に質問しても何も答えない。僕も答えてくれる
まで黙っている。カメラの音だけがガーって鳴ってる。家の中を観察すると、種田山頭火の句が短冊に
いくつか書いてあった。何も聞けないまま、帰る時に「『雨ふるふるさとは はだしであるく』っての、あり
ましたよね」と言ったら、その人が目をパッと輝かせて「また来てください」。後日、男性は心の中に
ずっとためていたことをすごい勢いで話し出した。
僕は寺の三男坊だった。中学1年から毎年、お盆に檀家を回って仏壇にお参りする「棚経」に参加さ
せられた。貧しい家もあればお金持ちの家もある。嫌で仕方なかったけど、知らず知らずのうちに、
家の中を見てしまうようになった。観察眼はこんなところから付いたのかも。いつも「品行方正でいな
さい」と言われ、性格はひねくれたかもしれませんが。
▼視聴者に何か要望はありませんか。
「番組よかったぞ」と、電話や手紙、メールでも一つあるだけで励まされる。「この番組が必要なんだ
ぞ」と応援してもらいたい。要らないなら「要らない」と言ってくれればいい。そうしたらドキュメンタリーは
なくなっちゃうかな(笑)。
<インタビューを終えて>
「喋るのが不得意」「農耕型」というほかにも、いろんな自己分析が飛び出した。例えば、山小屋の中に閉じ込められたら1人で
何日でもいられる、休日は寝たきり、インドア派・・・。阿武野さんの口調は、こちらの3倍ぐらいゆったりで、子守歌のように穏やか
だ。
報道記者といえば取材相手にどんどん突っ込んでいく。特ダネ事件記者はカミソリのように切れる。そんなイメージを自分自身
も持っている。でもそんな記者像が確かにあったとしても、多くの記者群像のひとつでしかないのだろう。「らしく」ない人がいた
ほうがいい。
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