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http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=620
「親・小沢、反・小沢」のコピーのみが踊った印象の、民主党代表選が幕をおろした。 と書いて、幕はおりたのか、上がったのか、落語の『ときそば』ではないが、いまなんどきだい? いま何幕目? である。 その中で確かなことは、総選挙のスイッチが本格的にオンされたことであり、同時に「小泉劇場」と呼ばれた頃とほとんど変わりのないメディアの取材報道姿勢が、ここに在る、ということだ。 メディアの報道のありようが、「世論」と呼ばれるものを形成するのも、あの頃と変わってはいない。 「世論」の主役たるわたしたち市民にとっては、ほかに情報がないのだからメディアを注視するしかないのだが、ここに危険な罠はないか。 劇場型選挙のやりかたは、何(誰)をどのように報道するかによって、票の行方のほとんどが決まる。 「世論」を過不足なく反映しての報道ではなく、「世論」をメディアが作ることもむろん可能だ。一度作った世論に調味料を振りかけて、再度報道することによって、さらなる「世論」の波を作り、それをまた再報道、再提出する、「世論の使いまわし」も充分にきく。 原初の「世論」を作ったメディアが、自分たちの報道によってさらに形成した「世論」を再登場させ、その上にさらにまた直近「世論」を形成していくことも可能なのだ。 どこまでが内発的、主体的に生まれる世論であり、どこまでがメディアによって使い回される世論なのか。 ここ数年、市民自前の世論が社会の表面に登場し、新しいうねりとなりつつあった。 年金問題、後期高齢者医療制度、諸々の「切り捨て」、貧困、天下りやワタリの官僚支配、ムダ使い等々。これらに対する憤りが、ようやく「世論」となり、変化を求める要求となって一歩を踏み出したところだった。少なくとも今年の春までは。 しかし、ようやく芽生えたこの内発的世論の芽が、再度「劇場型」総選挙に収奪され、摘み取られるとしたら……。メディアも罪深い。 その結果、ほくそ笑むのは誰だ! |
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