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「論壇」の未来像――ひとつの仮説
論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊について前に書いたが、ところで、今後、こうした状況に物書きたちはどう対処していくのだろうか。大手紙の「論壇時評」のようなものは終わってくれるのだろうか。下手をすると2年後くらいには、『文藝春秋』と『WILL』とどうでもいい左翼同人誌くらいしか残っていない可能性すらあるのだから。
実は、物書きたちは、状況への対処法を編み出しつつあるのではないか、というのが私の推測である。それは、群れる、ということである。
佐藤優が責任編集の『現代プレミア』(講談社)や、フォーラム神保町の魚住昭編集のウェブマガジンのように、このところ、佐藤優(やその周辺)が物書きを組織化するという試みが立て続けに起こった。これが興味深いのは、これらが、紙媒体の出版活動がメインであることを標榜しつつも、ウェブでの展開に重点を置こうとしていることである。
多分、この辺の人びとは、出版・書籍・活字メディアの復興を口では唱えながらも、恐らくもう見切りをつけていて、ウェブでの活動に移行しようとしているのではないか、と思われる。自分たちが人気のあるうちに、ウェブで地歩を確保し、雑誌ジャーナリズムの終末に備えようとしているように、私には思える。
講談社は、『月刊現代』の後継誌を秋頃に出すらしいが、それの前哨である『現代プレミア』を見る限り、『月刊現代』の書き手と面子はほとんど変わらないのだから、どうせ長くは持つまい。多分この後継誌は、佐藤らが、珍妙な使命感か雑誌を潰したコンプレックスかを持っている編集者(この雑誌は、『月刊現代』の休刊時の高橋明男編集長が中心となって作られるようだが、雑誌を潰した責任者が、責任を問われず似たような趣旨の雑誌を作るというのだ。こんな企業からは、つまらない雑誌しか生まれないのも当たり前である)を焚きつけて企画させたように思う。佐藤らにとっては、この雑誌は、ウェブでの地歩の確保のための乗り捨て用の車みたいなものだろう。
私の推測では、この辺の物書きたちは、とにかく群れることによって、自分たちが「売れている」という表象を作り出したいのである。この群れは、一定の著名性や話題性があれば、どんどん拡張しようとするだろう。以下、「論壇」の未来像について、一つの思い付きを記しておきたい。
多分、『現代プレミア』やフォーラム神保町に示されている「群れ」は、『論座』的な面々と野合する(一部の書き手は重なっている)。これは、(最近知って中身のなさに笑ったのだが)「シノドス」とかいう「知の交流スペース」周辺の人びとが典型で、ここが開催したセミナーの講師陣というのが、また見事なまでにつまらない「論壇」的な書き手のオンパレードなのであるが、この辺のほとんどがまとめて佐藤らの群れに合流していく可能性が高いと思う。
http://kazuyaserizawa.com/seminar/index.htm
あとは、上の「シノドス」とも人脈的には重なるが、『思想地図』や『ロスジェネ』も、それほど遠くない日に廃刊するだろうから、この群れに合流していくだろう。
要するに、「群れ」が「群れ」を呼んで、現在の「論壇」を構成している面々が、ほぼそのままウェブ上に巨大な「群れ」を構成する形になるのではないか、と私は推測している。それが「ブログ村」という形態になるのか、巨大なウェブマガジンになるのか、また別の形態になるのかはわからないが。この「群れ」の中に、「人気ブロガー」を取り込んでいくなどして、「論壇」は延命を図ると思われる。
そして、「群れ」の形成過程の途中から、朝日新聞あたりが音頭をとって「群れ」の形成を進め、「論壇」を囲い込むようになるのではないか、と私は思う。実際、『論座』が潰れて以降、『論座』の書き手や編集者が朝日新聞本体(「耕論」とか)や『週刊朝日』に移行しており、朝日系メディア全体が薄められた形で『論座』化しているように見える。東浩紀も『週刊朝日』で連載を始めたし、内容自体は可哀想なくらい何一つ話題にならなかった『朝日ジャーナル』の復刊号(『週刊朝日』編集長が編集長を兼任)も、『論座』そのものであった。
朝日一社でやるか、朝日・読売・日経の「あらたにす」でやるか、毎日新聞がまだ存続していれば毎日と組むか、などいろいろなバリエーションが考えられるが、出版社にはそんな余力を持っているところは残っておらず、新聞社が、文化欄・書評欄とのタイアップ方式でそうした新しい「論壇」を囲い込み、組織する、という方式になるのではないかと思う。大手紙の幹部たちは、言説の調達先の育成と確保という目先のメリットだけではなく、ジャーナリズムという「社交界」を自分たちが楽しむためにも、経営合理性を度外視して、「言論の公共空間の維持」やら「活字文化の擁護」やら適当な理屈をつけて「論壇」を救ってくれると思われる。
かくして「論壇時評」は、『文藝春秋』ほかの存続している数誌よりも、こうしたウェブ上に囲い込まれた「論壇」での言説を材料に書かれることになる、と私は思う。
私は「<佐藤優現象>批判」で、<佐藤優現象>を大政翼賛会に準えたが、この「群れ」は、戦前の翼賛団体のほぼ忠実な再現である。イデオロギー的には、現在の「論壇」がそうであるように、本質的な対立など別にない。インターネットは、すぐ「ムラ社会」化するから、これら「論壇」の面々の主張は、より平準化していくだろう。
前にも書いたように、論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊は望ましいことであり、じきに崩壊するとは思うが、私の思いつきのような形をとらないとしても、「論壇的なるもの」はしぶとく生き続けるだろう。読者が必要としているからというよりも、適正人数を大幅に超えて膨れ上がったメディアや物書き(予備軍)たちがそれを必要としているからである。
それにしても、戦前の翼賛体制と言論人の関係については、言論人の積極的な戦争扇動・協力という観点からしばしば取り上げられる。だが、<佐藤優現象>の動きを見ていると、両方の観点はそれぞれ正しいにしても、当時の言論人というのはそこまで「理念」なるものを持っていなかったのではないか、とも思えてくる。彼らは多分、今の<佐藤優現象>と同じように、自分たちの将来がどうなるかわからないから、とりあえず群れてみたのではないか、と私は思う。当時のメディア関係者は、排外主義的な感情を併せもちながらも、自己保身の本能のおもむくまま、ただただ犯罪的な道を進んでいただけだったのかもしれない。現在の<佐藤優現象>に群れる面々のほとんどがそうであろうように。
by kollwitz2000 | 2009-05-18 00:00 | 日本社会
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